新青春の淫動

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# 新青春の淫動 ## 第一章 新入生の絵の秘密 九月の初め、夏の名残がまだ強く残るある日、秦昊は大きなリュックを背負い、使い古したスーツケースを引きずって、大学の正門の前に立っていた。高くそびえるアーチには「華陽大学」という金字が燦然と輝いている。彼の故郷である小さな村では、この大学の名は一種の神話のようなものだった
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新入生の絵の秘密

# 新青春の淫動

## 第一章 新入生の絵の秘密

九月の初め、夏の名残がまだ強く残るある日、秦昊は大きなリュックを背負い、使い古したスーツケースを引きずって、大学の正門の前に立っていた。高くそびえるアーチには「華陽大学」という金字が燦然と輝いている。彼の故郷である小さな村では、この大学の名は一種の神話のようなものだった。

村で初めて大学に合格した者として、秦昊は出発前の夜、両親から何度も何度も繰り返し言い聞かせられた。「しっかり勉強しろよ」「先生の言うことをよく聞け」「都会の誘惑に惑わされるな」。母親は彼の服の襟を整えながら、涙ぐんでいた。父親は肩を叩きながら、ただ「頑張れ」と言ったきりだった。

秦昊は深呼吸をした。胸の奥で熱いものが込み上げてくる。十八年間住み慣れた村を離れ、初めて故郷を離れたこの少年は、好奇心と不安が入り混じった複雑な気持ちを抱えていた。キャンパスの中は、あちこちで新入生を歓迎する横断幕が掲げられ、先輩たちが忙しそうに行き交っている。あちこちから聞こえてくる笑い声や話し声に、秦昊は少し戸惑いながらも、心の奥底に抑えきれない期待が湧き上がるのを感じていた。

「新入生ですか?寮はどこですか?」

親切そうな先輩が声をかけてくれた。秦昊は慌てて案内図を取り出し、地図を指さしながら道順を尋ねた。先輩は丁寧に道を教えてくれ、さらに「何か困ったことがあったらいつでも聞いてください」と親切に言ってくれた。

秦昊は何度も頭を下げて礼を言いながら、案内図に従って寮へと向かった。並木道を歩きながら、彼はキャンパスの景色に目を奪われる。高層の校舎、広々とした運動場、そしてすれ違う学生たちの姿。その一人ひとりが自信に満ち、輝いているように見えた。

「ここが僕の新しいスタート地点なんだ」

秦昊は心の中でつぶやいた。同時に、故郷で期待を寄せる両親の顔が浮かび、彼の決意をさらに強くした。

寮は六号館の三階、三一二号室だった。案内板に従って部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえてくる。秦昊は少し躊躇した後、ドアをノックした。

「どうぞ!」

中から明るい声が返ってきた。秦昊がドアを開けると、三人の同年代の男子学生がそれぞれベッドの上で荷物を広げていた。

「あ、新しいルームメイトだ!」

一番近くにいた、がっしりとした体つきの学生がすぐに立ち上がり、笑顔で近づいてきた。「俺は張磊、遼寧省から来たんだ。よろしく!」

秦昊も微笑み返し、自己紹介をした。「秦昊です。江蘇省の小さな村から来ました。よろしくお願いします」

「江蘇省?いいところだな!」窓際のベッドで本を読んでいた眼鏡の学生が顔を上げた。「俺は李想、浙江省の出身だ。これから四年間、一緒に過ごすことになるな」

もう一人の小柄で色白の学生も立ち上がり、軽くお辞儀をした。「陳明と言います。上海から来ました。みなさん、よろしくお願いします」

四人は簡単に挨拶を交わし、それぞれの出身地や専攻について話した。秦昊は張磊が体育学部、李想がコンピュータ科学科、陳明が経済学部だと知った。そして自分は芸術学部の油絵専攻だと伝えると、三人から「おお、芸術家だ」と感嘆の声が上がった。

秦昊は少し照れくさそうに笑った。自分の絵の才能は村では評価されていたが、この広い大学の中で通用するかどうかは自信がなかった。

荷物を整理していると、携帯電話が鳴った。クラス担任からのメッセージで、午後二時に第二校舎の一〇三教室でクラス会があると書いてあった。

「みんな、もうすぐクラス会だって。一緒に行かない?」

秦昊が声をかけると、三人もそれぞれの学部の連絡を確認し、慌てて身支度を始めた。秦昊は簡単に髪を整え、新しいシャツに着替えた。入学式のような格式ばったものではないが、初めて顔を合わせる担任やクラスメートにいい印象を与えたいと思ったのだ。

四人は一緒に寮を出て、キャンパスの中を歩きながら雑談した。張磊が「担任が男か女か知ってる?」と聞くと、李想が「確か数学科の教授だって噂だ。新入生のクラスを受け持つのは珍しいらしい」と答えた。

「数学科の教授か…厳しそうだな」陳明が顔をしかめた。

秦昊は何となく、数学の先生というと村の中学時代にいた白髪の老教師を思い浮かべ、少し緊張した。

第二校舎に着くと、すでに多くの学生が集まっていた。一〇三教室は広く、ゆうに百人以上が収容できる。秦昊たちは適当な席を選んで座った。周りを見渡すと、どの学生も期待と不安が入り混じった表情を浮かべていた。

しばらく待つと、教室のドアが開き、一人の女性が入ってきた。

瞬間、教室の中が静まり返った。

入ってきたのは見たこともないほど美しい女性だった。年齢は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。黒いパンツスーツに白いブラウスという出で立ちは、彼女のスタイルの良さを完璧に引き立てている。身長は百七十センチはあるだろう、スラリと伸びた長い脚に、ウエストは細くくびれ、胸元は控えめながらも豊かな曲線を描いている。顔立ちは人形のように整っており、白磁のような肌に、大きな瞳が知性と気品を漂わせている。黒髪は後ろで一つに束ねられ、首元の白い肌が一層際立っていた。

「こんにちは、みなさん。私はあなたたちのクラス担任、夏知雪と言います。数学科の教授を務めています」

声は澄んでいて、少し低めのトーンが不思議な魅力を放っていた。彼女は教壇に立ち、教室を見渡した。その視線は穏やかでありながらも、どこか厳しさを秘めているように感じられた。

秦昊は呆然としていた。

そんなことがあるのだろうか?こんなに美しい人が教授で、しかも自分のクラス担任だなんて。彼女が教壇に立つ姿は一枚の絵のようで、一つ一つの動作が優雅で、一挙手一投足が計算され尽くしているかのようだった。

「今日は簡単に顔合わせと、学校生活についての注意事項をいくつかお話しします」

夏知雪はパソコンを開き、プロジェクターに資料を映し始めた。彼女が話す内容は、学校の歴史や規則、単位の取得方法、図書館の利用など、ごく普通の説明だった。しかし秦昊には、その声がまるで遠くから聞こえてくるようで、一言も頭に入ってこなかった。

彼の視線は夏知雪から離せなかった。

彼女が手を動かすたび、彼女が一歩踏み出すたび、首をかしげて資料を見るたび、すべてが彼の目に焼き付いた。彼女の上品な仕草、知的でありながらも女性らしい魅力、すべてが完璧だった。

秦昊は心臓の鼓動が速くなるのを感じた。こんな感覚は初めてだった。村にいたときは、近所の娘や同級生の女子にも興味を持ったことがあったが、こんなふうに心の奥底から揺さぶられるようなことはなかった。

「それでは、最後にみなさんの自己紹介を簡単にしていただきます。一番前の列からお願いします」

夏知雪がそう言うと、教室にざわめきが広がった。学生たちは順番に立ち上がり、名前や出身地、趣味などを話し始めた。

秦昊の番が近づくにつれ、彼の緊張はピークに達した。ついに自分の番が来て、立ち上がったとき、夏知雪の視線がちょうど自分に向けられた。

「秦昊です。江蘇省の田舎町から来ました。趣味は…絵を描くことです」

声が少し震えていた。秦昊は自分でもわかるほど、顔が熱くなっていた。

夏知雪は軽くうなずき、微笑んだ。「絵を描くことはいいですね。芸術学部の油絵専攻ですか?」

「はい」

「素晴らしい。キャンパスには美しい風景がたくさんありますから、ぜひ描いてみてください」

その言葉は何気ないものだったが、秦昊には特別な意味を持っているように思えた。彼は深くうなずき、席に座った。心臓はまだドキドキと鳴り続けていた。

自己紹介が終わると、夏知雪は今後の予定や注意事項をいくつか伝え、「何かあればいつでも私のオフィスに来てください。数学科の三階にあります」と言って、教室を後にした。

彼女が去った後も、秦昊はしばらくその場に座り込んでいた。周りの学生たちが立ち上がり、ざわめき始めても、彼は動けなかった。

「おい、秦昊、どうしたんだ?帰るぞ」

張磊が肩を叩いて、ようやく我に返った。

「あ…ああ、わかった」

秦昊は慌てて立ち上がり、ルームメイトと一緒に教室を出た。しかし頭の中は夏知雪のことでいっぱいだった。

「担任の先生、すごく美人だな」張磊が興奮した様子で言った。「こんな先生が担任なんて、四年間楽しみだな」

「でも数学科の教授だろ?きっと単位を取るのは厳しいぞ」李想は慎重な口調だった。

「そんなの関係ないよ!」陳明も笑った。「あんな美人に教えてもらえるなら、数学の単位を落としても本望だ」

三人は笑い合った。秦昊は何も言わなかったが、心の中で同じことを思っていた。

その日から、秦昊の大学生活が始まった。授業に出て、図書館で勉強し、食堂で食事をする。一見普通のキャンパスライフだが、彼の心の中には、ある種の渇きのようなものが生まれ始めていた。

それはもちろん、夏知雪の存在だった。

秦昊は気がつくと、彼女のことを考えていた。数学科の校舎の前を通るたび、彼女に偶然会えないかと期待した。食堂で似たような後ろ姿を見かけるたび、心臓が高鳴った。夜になると寮のベッドで、彼女の顔を思い浮かべながら、何時間も眠れない夜を過ごした。

そんなある日、週末の夜、秦昊は一人で寮にいた。ルームメイトたちはそれぞれ出かけていて、部屋には彼だけだった。何となく手持ち無沙汰で、彼はパソコンを開き、適当に映画でも見ようと思った。

彼はある海賊版サイトにアクセスした。村にいるときからよく使っていたサイトで、新作の映画を無料で見られるのが魅力だった。しかし、ページを開いた瞬間、突然大きな広告が画面いっぱいに表示された。

「SM調教 初心者でも楽しめる秘密の世界」

秦昊は驚いて、慌てて閉じるボタンを探した。しかしその瞬間、広告に写っていた画像が彼の目に飛び込んできた。

それは女性が縄で縛られている写真だった。白い肌に赤い縄が絡まり、不思議な美しさを醸し出している。女性の表情は苦しそうでありながらも、どこか陶酔しているように見えた。

秦昊の手が止まった。

何だこれは?

彼は無意識のうちに、その広告をもう一度クリックしてしまった。ページが切り替わり、様々な写真や動画が表示された。すべて女性が縛られたり、目隠しをされたり、特殊な道具を使われたりするものだった。

秦昊の心臓が激しく打ち始めた。異常な興奮とともに、強い罪悪感も湧き上がってくる。こんなものを見てはいけない。親からも学校からも、そう教えられてきた。

しかし、彼の目は画面から離せなかった。

一枚一枚の写真を見ていくうちに、秦昊は自分でも驚くほどの集中力でそれらを観察していることに気づいた。特に、縄が女性の体を締め付ける様子、肌に食い込む縄の跡、そして女性の表情の変化。それらが彼の心に強烈な印象を残した。

なぜだろう。なぜこんなに惹かれるのだろう。

秦昊は自分自身に問いかけた。村で育った純朴な少年である自分が、こんな変態的な世界に興味を持つなんて、信じられなかった。しかし、その興味は確かに存在し、しかも日増しに強くなっていった。

彼はその後、何時間もかけてそのサイトを隅々まで見た。SMの種類、縛り方の技法、使われる道具、参加者の心理。一つ一つの情報が、彼の知らない世界への扉を開いていくようだった。

特に彼の心を捉えたのは、「緊縛」というカテゴリーだった。女性を縄で巧みに縛り上げるその技術は、まるで芸術作品のように美しく、しかも官能的だった。秦昊は画家を志す者として、その造形美に強く惹かれた。

そして、彼の頭の中に夏知雪の姿が浮かんだ。

もし彼女が…

秦昊は慌ててその考えを頭から追い出した。しかし、夏知雪の完璧なプロポーションと、縄が絡まるイメージが何度も頭の中に浮かんでくる。彼女の白くしなやかな首に縄が巻き付き、豊かな胸を縄が締め付け、細いウエストを縄が絡め取る。そんな想像が、彼の理性をどんどん蝕んでいった。

「いけない…こんなことを考えてはいけない…」

秦昊は頭を振り、強制的にパソコンを閉じた。しかし、その夜は一睡もできなかった。目を閉じるたびに、夏知雪の姿が縄に縛られて浮かんでくる。彼女の苦しげで、それでいて甘美な表情が、彼の想像の中で繰り返し再生された。

翌日から、秦昊の行動はさらに変わった。授業中も、食事中も、歩いているときも、常に何か考え込んでいるようだった。ルームメイトの張磊が「最近、元気ないけど大丈夫か?」と心配して聞いても、「ちょっと疲れただけ」とごまかしていた。

秦昊は図書館に行くと、今まで興味も持ったことのない心理学や性科学の本を借りて読むようになった。特にBDSMに関する部分を必死に探し、目を通した。その知識を深めれば深めるほど、彼の中である確信が芽生え始めた。

自分には、女性を縛りたいという強い欲求がある。

それは単なる性的興奮ではなく、もっと深い、根源的な何かだった。女性を縄で美しく飾り、その反応を見ながら、完全に支配する。それが彼の心の奥底にある、最も暗く、最も強烈な欲望だった。

そして、その対象として最もふさわしいのが、夏知雪だった。

彼女の優雅で、完璧で、高嶺の花のような存在。もし彼女が縄に縛られて、自分に服従する姿を見たら、どんなに美しいだろう。そんな想像が、秦昊の頭から離れなかった。

日が経つにつれ、秦昊の欲望は抑えきれなくなっていった。彼はノートを取り出し、授業中にもかかわらず、こっそりと絵を描き始めた。

最初は小さなスケッチからだった。女性の腕や首に縄が巻き付く様子を、細い線で丁寧に描く。次第に描く範囲が広がり、全身を縄で縛られた女性の像がノートのページに次々と現れた。

彼の絵は驚くほど正確で美しかった。幼い頃から絵を続けてきた技術が、この欲望の表現に完璧に活かされていた。縄の絡まり方、肌の質感、女性の表情。一つ一つのディテールが、彼の狂気とも言える集中力で描かれていた。

しかし、秦昊は常にその絵に誰かを特定できるような特徴を描くのを避けていた。自分でもそれが夏知雪を想像していることを認めたくなかったし、もし誰かに見られたら取り返しのつかないことになると思ったからだ。

だから彼の絵には、顔のない女性だけが描かれていた。縄に縛られ、苦しみと快楽の狭間で悶える、無数の無名の女性たち。

ある日の午後、秦昊は一人で教室で絵を描いていた。その日は時間割が空いていて、誰もいない教室で、彼は熱中してノートに向かっていた。今日のテーマは「後ろ手に縛られた女性」。両手を背中で組ませ、肘から手首までしっかりと縄で固定する。その姿勢が生み出す胸の強調、肩のライン、背中の曲線。秦昊は細心の注意を払って描いていた。

だが、そのときだった。

「秦昊君?」

突然聞こえた声に、秦昊は飛び上がった。振り返ると、そこに立っていたのは夏知雪だった。彼女は書類を手に、驚いた顔で秦昊を見ていた。

「あ…せ、先生…!」

秦昊は慌ててノートを閉じた。しかし、夏知雪の目は既にそのノートに向けられていた。

「何を描いていたの?見せてくれる?」

夏知雪が近づいてきた。秦昊の心臓は今にも破裂しそうだった。ノートを体の後ろに隠し、必死に平静を装おうとした。

「い、いいえ、別に…ただの落書きです」

「そう?」夏知雪の目が細められた。「でも、とても集中して描いているように見えたけど。あなたの絵、見てみたいな。芸術学部の学生の作品には興味があるから」

秦昊は冷や汗をかいていた。ノートを渡すわけにはいかない。もしあの絵を見られたら、自分はどうなってしまうのか。変態扱いされるのはもちろん、退学処分になるかもしれない。

「すみません、先生…まだ完成していなくて。完成したら必ず見せます」

秦昊はできるだけ自然な笑顔を浮かべようとしたが、顔は引きつっていた。

夏知雪はしばらく秦昊を見つめていたが、やがて軽くうなずいた。

「わかったわ。でも、約束してよ。完成したら必ず見せるって」

「はい、もちろんです」

秦昊は深くうなずいた。夏知雪が教室を出ていくと、彼はどっと疲れが出て、椅子に崩れ落ちた。

危なかった。本当に危なかった。

しかしその一方で、彼の心の中では別の感情が芽生え始めていた。夏知雪の反応は、本当にただの興味だったのか?もしかしたら彼女も何かに気づいているのではないか?あるいは…

秦昊は自分の中に広がる暗い興奮を感じた。彼は再びノートを開き、今度はより具体的に、より詳細に絵を描き始めた。今度は背景まで丁寧に描き込む。拘束される女性の背後に、微かに見える誰かの影—それは自分自身だった。

そして、彼はその絵にタイトルをつけた。

「先生の秘密」

それからというもの、秦昊の絵はさらに過激になっていった。彼はキャンパスのあちこちで夏知雪を観察し、彼女の動作や表情、服装を細かく覚えた。そして夜になると、その記憶を元に、彼女を縛る絵を描いた。

講義室で数学の授業をする夏知雪。彼女の背後に縄が浮かび、彼女の体を締め付けていく想像図。研究室で書類を整理する夏知雪。彼女の手首が机に縛り付けられた想像図。ヨガをする夏知雪。彼女の柔軟な体があらゆる方向に曲げられ、そのすべての関節が縄で固定された想像図。

秦昊のノートは、そんな絵で埋め尽くされていった。彼はもう自分を抑えることができなかった。授業中も、食事中も、歩いているときも、彼の頭の中は常に夏知雪を縛ることでいっぱいだった。

そして、彼の中で一つの計画が芽生え始めていた。

夏知雪を本当に縛る方法。彼女を服従させる方法。彼女が自分だけのものになる方法。

秦昊はパソコンの前に座り、検索エンジンで「緊縛 教室」「調教 方法」「女性 拘束 テクニック」などのワードを打ち込んだ。次々と表示される情報を、彼は必死に吸収していった。縄の種類、結び方の種類、注意点、危険性。すべてを学び、すべてを自分のものにしようとした。

彼の心の中では、夏知雪の姿が日に日に鮮明になっていった。彼女の白い肌に赤い縄が絡む様子。彼女の苦しげな声と、それでも抗えない表情。彼女の完璧な体が、自分の手で完全に支配される瞬間。

秦昊はその想像に震えた。同時に、強い罪悪感と恐怖も感じていた。しかし、それ以上に強かったのは、抑えきれない欲望だった。

もう戻れない。自分はこの世界に足を踏み入れてしまったのだ。そして、その欲望を現実のものにするために、手段を選んではいられない。

秦昊はノートを閉じ、パソコンの電源を切った。しかし、彼の計画は着実に進行していた。明日から、一歩ずつ、彼は夏知雪に近づいていくつもりだった。

彼女がいつ、どこで、何をしているのか。彼女の習慣、趣味、弱点。すべてを把握し、完璧なシナリオを描く。

その夜、秦昊はベッドの中で目を閉じた。彼の心は、夏知雪への執着と興奮で震えていた。

「先生、あなたは私のものになる」

彼は暗闇の中でそうつぶやき、口元に微かな笑みを浮かべた。

翌朝、秦昊は早めに起きて、数学科の校舎に向かった。夏知雪の研究室は三階の奥にある。彼は階段を上がり、その前を通りかかったふりをして、中の様子をうかがった。

ドアは少し開いていて、中から話し声が聞こえてくる。どうやら学生と話しているようだ。秦昊は壁に隠れ、声を聞き耳を立てた。

「それでは、この問題の解法はこれでいいですか?」

「はい、よくできましたね。あとは練習問題をしっかり解くことです」

夏知雪の声は穏やかで、教え方も丁寧だった。秦昊はその声を聞くだけで、心臓が高鳴った。

学生が出てきたのを見計らって、秦昊は深呼吸をし、ドアをノックした。

「どうぞ」

彼がドアを開けると、夏知雪は書類に目を落としていた。顔を上げて秦昊を見ると、少し驚いた表情を浮かべた。

「秦昊君?どうしたの?」

「あの…先生に聞きたいことがあって」

秦昊は練習問題のノートを手に持っていた。実際には、それはただの口実だった。彼は夏知雪に近づくための理由を作りたかったのだ。

「数学の質問ですか?」

「はい。昨日の授業でわからないところがあって」

秦昊はノートを開き、適当な問題を指さした。それは実際には簡単な問題だったが、彼は質問の形を借りて、彼女との時間を少しでも長くしたいと思った。

夏知雪は立ち上がり、秦昊のそばに歩み寄った。彼女の香水の香りがふわりと漂う。秦昊はその香りに一瞬、意識が遠のきそうになった。

「この問題ね。まずはここに注目して…」

彼女が説明を始める。秦昊は彼女の声を聞きながら、彼女の後ろ姿をじっと見つめた。スーツのスカートに包まれたふくらはぎのライン、腰のくびれ、細い指。一つの動作がすべて優雅で、美しかった。

「…これでわかった?」

「はい、ありがとうございます」

秦昊はうなずいたが、実は説明をまったく聞いていなかった。彼はただ、彼女のそばにいたかっただけだ。

「何か他に質問はある?」

「…あの、先生は週末は何をされているんですか?」

秦昊は思い切って聞いてみた。夏知雪は少し驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。

「週末は主に研究をしているわ。たまにヨガをしに行くこともあるけど」

「ヨガ…」

秦昊の頭の中に、夏知雪がヨガマットの上で体を曲げる姿が浮かんだ。そしてその柔軟な体が、縄で縛られたとき、どんな反応を示すのか想像した。

「ヨガがお好きなんですか?」

「ええ、十年以上続けているのよ。体が柔らかくなるし、心も落ち着くから」

十年以上—秦昊はその言葉に心を躍らせた。そんなに長い間鍛えられた体なら、どんな複雑な縛り方にも耐えられるだろう。

「すごいですね。僕も体が硬くて、ヨガを始めようか考えているんです」

「それはいいわね。健康にもいいし、おすすめよ」

夏知雪の笑顔は、秦昊の心をさらにかき乱した。彼女は何も知らない。自分がどれほど危険な生徒に興味を持たれているか、まったく気づいていない。

秦昊はその日の会話を頭に刻みつけ、研究室を後にした。そしてすぐに、次の計画を練り始めた。

ヨガスタジオ。彼女が通っている場所を突き止めれば、彼女の習慣や行動パターンがもっとわかる。そして、いつか彼女を一人にさせるタイミングを見つける。

秦昊の欲望は止まらなかった。ノートに描かれた絵も、日に日にその数と質を増していった。ついには、部屋の引き出しの中には、二十枚以上の緊縛図が隠されるようになった。

彼は毎晩それらを取り出し、一枚一枚を食い入るように見つめた。そして、その絵の中の女性の顔に、次第に夏知雪の特徴を描き加えていくようになった。

ある夜、秦昊は一枚の絵を完成させた。それは、夏知雪が自分の研究室で、後ろ手に椅子に縛られ、口には布を噛まされている姿だった。彼女のスーツは乱れ、ブラウスのボタンがいくつか外れ、白い谷間がのぞいている。その表情は苦しげでありながら、どこか甘美な陶酔を帯びていた。

秦昊はその絵を見ながら、震える手でペンを置いた。

「いつか…必ず…」

そのとき、彼の携帯電話が鳴った。メッセージの着信だ。見ると、それはクラスのグループチャットで、明日の授業の予定が送られてきていた。その中に、夏知雪からのメッセージもあった。

「明日の午後、オフィスアワーを設けます。質問のある学生は遠慮なく来てください」

秦昊の鼓動が速くなった。

オフィスアワー。彼女が一人で研究室にいる時間。他の学生が来るかもしれないが、もし運が良ければ…

彼はすぐに返信を打った。

「先生、明日の午後、質問があります。伺ってもいいですか?」

数分後、返事が来た。

「いいですよ。お待ちしています」

秦昊はその短い文面を何度も読み返した。彼の頭の中では、様々な想像がぐるぐると回っていた。

明日、彼女に会う。そして、自分の計画を一歩ずつ進める。

彼はノートを閉じ、電気を消した。しかし、その夜は一睡もできず、朝が来るのを待ちわびていた。

翌日の午後、秦昊はいつもより早めに数学科の校舎に向かった。彼のリュックには、いつもの教科書の他に、一本の麻縄が隠されていた。それはネットで購入したもので、まだ使われていない新品だった。

心臓は激しく打ち、手のひらは汗で濡れていた。しかし、彼の目はいつになく鋭く、決意に満ちていた。

研究室の前に着くと、中から物音がする。どうやら前に他の学生がいるようだ。秦昊は壁に寄りかかり、順番を待った。

十分ほどして、学生が出てきた。秦昊は深呼吸をし、ドアをノックした。

「どうぞ」

夏知雪の声が聞こえる。秦昊はドアを開け、中に入った。

部屋の中は、数学の教科書や論文で埋め尽くされた書棚が並び、机の上には書類が山積みになっていた。夏知雪はパソコンの前に座り、秦昊を見ると微笑んだ。

「いらっしゃい。質問は何かしら?」

秦昊はリュックを背負ったまま、机の前に立った。彼の手はわずかに震えていたが、それを必死に抑えた。

「あの…先生。ちょっと個人的な質問があるんですが」

「個人?」夏知雪は少し驚いたようだったが、すぐにうなずいた。「いいわよ、言ってみて」

秦昊は一呼吸置いて、口を開いた。

「先生は…縛られることに興味はありますか?」

数学の授業での上の空

第二講 数学の授業での上の空

大学のキャンパスには、新学期特有の浮ついた空気が漂っている。特に目新しい講義もなく、ただ単位を消化するだけの日々が始まろうとしていた。そんな中、秦昊はルームメイトの陳峰に連れられるまま、数学科の必修講義を受けるため、第二講義棟へと足を向けていた。

「秦昊、お前知ってるか?この授業、夏知雪っていう教授が担当するんだって」

陳峰は興奮気味に声を潜めて言った。秦昊は無造作に頷いた。数学など、彼にとってはただの苦痛でしかなかった。しかし、陳峰の口調には普段とは違う熱がこもっていた。

「何だよ、その顔。まさか知らないのか?夏知雪って言えば、この大学で一番の美人教授だぞ。二十九歳で数学科教授ってだけで十分すごいのに、その上、スタイルが抜群なんだって。モデル並みの身長に、白磁のような肌、そして長い脚…」

陳峰は自分の言葉に酔いしれるように、天を仰いだ。秦昊は相変わらず無表情だった。美人かどうかなど、彼にとってはどうでもいいことだった。それよりも、授業中に居眠りしない方法を考えるほうが先決だ。

「教室、混んでるらしいぞ。お前、席取れるように早めに行こうぜ」

陳峰に急かされるまま、秦昊は早足で歩いた。すると、講義室の入り口が見えた瞬間、彼は言葉を失った。

教室の外まで、学生の列が伸びているのだ。しかも、そのほとんどが男子学生だった。中には、明らかに数学科以外の学生であろう者たちも混じっている。彼らは手にノートも持たず、ただスマートフォンをいじりながら、講義が始まるのを待っていた。

「嘘だろ…これ、全部、夏教授目当てか?」

陳峰が目を丸くして呟く。秦昊も同じ気持ちだった。数学の講義で、これほどの学生が集まるなど、異常としか言いようがなかった。

やっとの思いで教室の中に入ると、すでに席はほぼ埋まっていた。前方の席はもちろん、後方の席も埋まっている。立ち見の学生さえいる。秦昊と陳峰は、壁際に残された二つの席を辛うじて確保した。

「危なかった…」

陳峰が額の汗を拭いながら言った。秦昊は無言でノートを広げた。周りの学生たちは、どこか落ち着かない様子でソワソワしている。それは数学の講義を前にした緊張ではない。明らかに、ある一人の人物を待つ興奮だった。

やがて、教壇の横のドアが開く音がした。その瞬間、教室の空気が変わった。

「おはようございます。着席してください」

凛とした声が、教室に響いた。秦昊は顔を上げた。そして、一瞬息を飲んだ。

教壇に立っていたのは、まさに「女神」と呼ぶにふさわしい女性だった。身長は一七〇センチほどだろうか。細身だが、均整のとれた体つきは、一見して女性らしい曲線を描いている。肌は透き通るように白く、陶器のような滑らかさを感じさせる。顔立ちは整っており、特に切れ長の瞳が印象的だった。口元は涼しげで、どこか距離感を感じさせる。

何より、彼女が身にまとっているのは、黒のタイトスカートに白のブラウスという、いわば大学教授の標準的な服装だった。しかし、その服装が、彼女の抜群のスタイルを際立たせていた。細いウエスト、長く伸びた脚、そして胸元の豊かな膨らみ。一言で言うなら、完璧だった。

「本日から、微分積分学の講義を担当する、夏知雪です。よろしくお願いします」

彼女が軽く頭を下げると、教室のあちこちからため息にも似た声が漏れた。秦昊も、思わず彼女から目が離せなくなっていた。だが、それは好奇心や憧れではない。どこか、彼の心の奥底に眠る、別の感覚を呼び起こす何かが、彼女にはあった。

授業が始まった。夏知雪は、黒板に複雑な数式を書き連ねていく。その手つきは滑らかで、無駄がない。数字や記号が、まるで生きているかのように、黒板の上で踊る。

「ここで、この関数の極限を求めるためには、まずε-δ論法を用いて…」

彼女の声は、どこか磁気を帯びていた。意識的に聞いていると、その声に引き込まれそうになる。しかし、秦昊の頭の中では、数式の意味がちっとも入ってこなかった。彼は、ただ彼女の声の響きや、手の動き、そして全身から漂う気配に、意識を奪われていた。

三分の二の時間が過ぎただろうか。秦昊の集中力は、とうに切れていた。彼は無意識に、ノートの空白ページに落書きをし始めた。最初は何気ない幾何学模様だった。しかし、ふと、頭の中に映像が浮かんだ。

それは、昨夜ネットで見た映像だった。細い縄で縛られた女性の映像。縄は白い肌に食い込み、苦痛と快楽の入り混じった表情を浮かべる女性。そして、その女性の顔が、いつの間にか夏知雪の顔と重なっていた。

秦昊の手が、震えた。ペンを持つ指が、かすかに動く。彼は、無意識のうちに、縄の絵を描き始めていた。一本、また一本と、複雑に絡み合う縄の曲線が、ノートの空白を埋めていく。

彼の手は、まるで自動的に動いているかのようだった。思考はぼんやりとし、周囲の音も聞こえなくなっていく。まるで、自分だけが別の世界にいるようだった。黒板の数式も、教授の声も、すべてが遠くに感じられる。

描きながら、秦昊の心臓は激しく脈打っていた。顔が熱くなり、息をするのも苦しかった。これは罪悪感か、それとも興奮か。自分でもよく分からなかった。ただ、描くことを止められなかった。彼の手は、まるで自分の意思とは無関係に、縄の絵を描き続ける。

それは、まるで自分自身を縛るような感覚だった。彼が描く縄は、同時に彼自身の心を締め付けていた。逃れたいのに、逃れられない。そんなもどかしい感覚が、彼をさらに駆り立てる。

「…列目、後ろから三列目の、窓側の男子学生」

突然、名前ではない呼びかけが、教室に響いた。秦昊は、はっと顔を上げた。夏知雪が、教壇からこちらを見下ろしている。その視線は、鋭く、冷たかった。

彼女は、厳しい口調で言った。

「そこの君だ。今、私語をしていなかったか?」

秦昊は、自分の口が開いていたことに気づかなかった。気づけば、彼は微かに、声を漏らしていたのだ。それは、ノートに描く絵に没頭するあまり、無意識に発していたものだった。

「私は、数学に興味がない学生は、授業に出なくても構わないと思っている。しかし、出たからには、真面目に受講する義務がある。私語は、他の学生の迷惑になる」

彼女の声には、有無を言わせない力があった。秦昊は、頭の中が真っ白になり、何も言い返せなかった。ただ、俯いて、額から汗が滴り落ちるのを感じていた。

「今回だけは注意で済ませる。次はないと思え」

彼女はそう言って、再び教壇に戻った。そして、何事もなかったかのように、数式の説明を続けた。

教室の空気は、一瞬で凍りついた。周りの学生たちは、こぞって秦昊を一瞥した。その視線は、好奇と非難が入り混じっていた。秦昊は、顔を上げられず、ただペンを握りしめていた。

何が起こったのか、理解できなかった。自分は、ただ絵を描いていただけだ。しかし、それが彼女の目には、私語に見えたのだろう。あるいは、彼の無意識的な反応が、声として漏れていたのかもしれない。

いずれにせよ、教授の前で恥をかいたことは確かだった。秦昊の心臓は、まだドキドキと鳴り響いていた。そして、その鼓動の奥底で、別の感情が渦巻いていることに、彼は気づいた。

それは、恐怖や羞恥だけではない。むしろ、彼女に注意されたことで、かすかな興奮が生まれていた。彼は、怒られたいと思っていたわけではない。しかし、彼女の鋭い言葉、冷たい視線、それらが、彼の心の奥深くに、何かを刻み込んだ。

「秦昊、大丈夫か?」

隣の陳峰が、ひそひそ声で尋ねた。秦昊は、無言で頷いた。しかし、彼の手は、まだ微かに震えていた。

再び、講義は静けさを取り戻した。しかし、秦昊にとって、その静けさは以前とは全く違うものだった。彼の耳には、夏知雪の声が、別の響きを持って聞こえていた。それは、数式の解説ではなく、彼の心を縛る呪文のように。

彼は、ノートの空白ページに描いた縄の絵を見つめた。それは、ただの落書きだった。しかし、なぜか、その絵が、自分自身の心の内を映し出しているように思えた。

授業はその後も進められ、夏知雪は次々と複雑な問題を解説していった。彼女の口調は冷静で、時に厳しく、時に優しかった。しかし、秦昊にとって、彼女の一挙手一投足が、すべて特別な意味を持っているように感じられた。

彼女が黒板に数式を書きながら、無意識に髪を耳にかける仕草。細い指でチョークを操る姿。説明中に腰をかがめるときの、スカートの裾がわずかに上がる瞬間。すべてが、秦昊の視線を捕らえて離さなかった。

そして、彼の頭の中では、夏知雪を縛る映像が、さらに鮮明に浮かび上がっていた。細い縄が、彼女の白い首に巻きつく。腕を背中に回し、縛り上げる。膝をつかせ、床に横たえる。無数の縄が、彼女の体を複雑な方法で絡め取る。

それは、彼の頭の中で繰り返される、ある種の儀式だった。彼はその映像を、ただ眺めているしかなかった。自分の意志では、止めることができなかった。

夏知雪が、再び秦昊の方を向く。その視線が、一瞬、彼のノートの空白ページに止まった。秦昊は、慌てて手でノートを隠した。しかし、彼女の目は、わずかに細められていた。何かを見たのか、それとも気のせいか。秦昊には分からなかった。

「次に、この積分を解くためには、部分積分法を用いる」

彼女の声が、教室に響く。秦昊は、彼女の声に耳を傾けながらも、心は別のところにあった。彼は、彼女の体のラインを、縄で縛るとどのように見えるか、想像していた。彼女の声は、もはや数式の解説ではなく、彼の空想を駆り立てる道具に過ぎなかった。

「人間の思考は、極限を超えることができる。しかし、そのためには、ある種の拘束が必要だ」

夏知雪が、突然、数式とは関係のない言葉を発した。秦昊は、はっとした。それは、彼の心を読まれたような気がしたからだ。しかし、彼女は、何事もなかったかのように、再び数式の説明を始めた。

講義が終わる時間が近づいてきた。秦昊は、何とか最後まで授業に耐えた。しかし、その間、彼の心は、夏知雪の一挙手一投足に縛られていた。彼女が教壇を去る瞬間、秦昊は、自分の手が、まだ微かに震えていることに気づいた。

「今日の講義はここまで。次回も、必ず予習をしてくるように」

夏知雪が、そう言って教室を出て行く。学生たちは、一斉に立ち上がり、それぞれ帰り支度を始めた。陳峰も、秦昊の肩を叩いた。

「おい、大丈夫か?顔色、悪いぞ」

秦昊は、無言で首を振った。彼は、ノートを閉じ、鞄にしまった。しかし、ノートの空白ページに描かれた縄の絵が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

「俺、ちょっと先に帰る」

秦昊は、陳峰にそう言うと、一人で教室を後にした。廊下は、すでに人影が少なかった。彼は、歩きながら、先ほどの夏知雪の言葉を思い返していた。

「私語は、他の学生の迷惑になる。次はないと思え」

あの瞬間、彼女の眼差しは、確かに彼を貫いた。それは、単なる注意ではない。何か、もっと深い意味が込められているような気がした。

彼女の視線の意味。あれは、怒りだったのか。それとも、他の何か。

秦昊は、大学のキャンパスを抜け、一人の部屋へと戻った。部屋は、まだ誰もいなかった。彼は、ベッドに座ると、ノートを開いた。そして、空白ページに描かれた縄の絵を、じっくりと見つめた。

それは、複雑に絡み合った縄の模様だった。一見すると、抽象的なデザインに見える。しかし、よく見ると、それは確かに、人体を縛るための縄の図だった。

なぜ、自分はこんな絵を描いてしまったのか。秦昊は、自問自答した。しかし、答えは出なかった。ただ、彼の心の中で、夏知雪の姿が、ますます大きな存在になっていくのを感じた。

彼女の白い肌。凛とした声。そして、厳しい眼差し。すべてが、彼の記憶に刻まれていた。そして、その記憶が、彼の内面に、新たな感情を呼び覚ましている。

それは、崇拝に近い憧れであり、同時に、彼女を支配したいという欲望でもあった。矛盾しているようで、しかし、彼の中では、それが自然と共存していた。

「次はないと思え」

彼女はそう言った。しかし、秦昊は、なぜか、次こそ、もっと深く彼女の反応を見たいと思っていた。注意されることに、恐怖を感じながらも、そこには抗いがたい魅力があった。

それは、まるで、自分自身を縛る行為そのものに、快楽を見出しているかのようだった。

秦昊は、ノートを閉じ、目を閉じた。彼の頭の中には、再び、夏知雪を縛る映像が浮かんだ。今度は、彼女は抵抗しなかった。ただ、無表情で、縄に身を委ねていた。その姿は、美しく、そして悲しかった。

「私は、彼女を縛りたい」

秦昊は、自分自身にそう言い聞かせた。それは、初めての確信だった。彼は、ただの大学生ではない。彼の中には、夏知雪という女神を、縄で縛り、支配するという、暗く激しい欲望が、芽生えていたのだ。

窓の外では、夕日が沈みかけていた。部屋の中は、次第に暗くなっていく。しかし、秦昊の心の中で、一つの炎が、静かに燃え上がり始めていた。

それは、禁断の炎だった。しかし、彼は、それに抗うことをしなかった。むしろ、その炎を、大きく育てようとしていた。

翌日、秦昊は、いつもより早く起きた。彼は、講義の準備をするふりをして、実際には、ネットでSMに関する情報を調べていた。縄の結び方、拘束のバリエーション、そして、相手の反応を引き出す方法。そのすべてが、彼にとって新しい知識であり、同時に、深い興奮を呼び起こすものだった。

そして、そのすべてが、夏知雪を縛るための手助けとなると、彼は信じていた。

昼過ぎ、再び数学の講義の時間がやってきた。秦昊は、今日は一番前の席を取ろうと、陳峰を誘わず、一人で教室に向かった。教室は、相変わらず混んでいた。しかし、彼は、強引に一番前の席を確保した。

教壇に立つ夏知雪が、彼を一瞥する。その視線は、昨日よりも、さらに冷たく感じられた。秦昊は、彼女の視線を受けて、背筋が伸びる思いだった。

「本日も、前回の続きから始める」

彼女は、そう言って黒板に向かった。秦昊は、彼女の一挙手一投足を、細かく観察した。彼女がチョークを取る手、腰を曲げる角度、そして、スカートの裾から覗く膝のライン。

すべてが、彼の脳裏に刻み込まれていく。

そして、彼のノートには、再び縄の絵が描かれていった。しかし、今回は、ただの落書きではない。それは、夏知雪を縛るための、精密な設計図だった。

彼女が黒板に数式を書きながら、無意識に腰に手を当てる。その瞬間、秦昊の手が止まった。彼は、彼女の腰回りのラインを、頭の中で計測した。縄を巻く位置、結び目の位置、余白の長さ。すべてが、彼の計算通りに進んでいく。

それは、数学の授業とは全く異なる、彼自身の「数学」だった。

「秦昊君、そのノート、見せてもらえるか?」

突然、夏知雪が彼の名前を呼んだ。秦昊は、はっとした。彼女が、彼のすぐ横に立っている。その距離は、わずか一メートルほどだった。

彼女は、彼のノートを指さしながら、再び言った。

「そのノート、見せなさい」

秦昊の心臓が、激しく鼓動を打った。彼のノートには、縄の絵が描かれている。それを彼女に見せれば、どうなるか。想像しただけで、恐怖で足がすくんだ。

しかし、彼は、逆らえなかった。彼は、おずおずとノートを差し出した。

夏知雪は、ノートを受け取り、空白ページを開いた。そして、じっくりと、その絵を観察した。彼女の表情は、一切変わらなかった。ただ、その瞳の奥で、何かがかすかに揺れた気がした。

「これは…」

彼女が、低い声で言った。

「…何の設計図だ?」

秦昊は、答えられなかった。彼の口は、震えるばかりだった。彼女は、さらに言葉を続けた。

「細かいな。縄の太さから、結び目の位置まで、すべて計算されている。まるで、数式を解くように描かれている」

彼女は、そう言って、秦昊を見下ろした。その視線は、もはや教授と学生という境界を超えていた。それは、同類を見つけた者の視線だった。

「放課後、三十分ほど時間をくれないか。この絵について、もっと深く話をしたい」

秦昊は、自分の耳を疑った。しかし、彼女の言葉は、確かに聞こえた。彼は、必死に頷いた。

夏知雪は、ノートを彼に返すと、再び教壇に戻った。そして、何事もなかったかのように、授業を続けた。

しかし、秦昊にとって、その後の授業は、まったく頭に入ってこなかった。彼の頭の中は、放課後の出来事でいっぱいだった。彼女は、なぜ、自分の絵に興味を持ったのか。そして、彼女は、これから何を話そうとしているのか。

すべてが、謎だった。しかし、一つの確信だけがあった。

それは、彼と夏知雪の間に、ある種の絆が生まれようとしているということ。それは、普通の教授と学生の関係ではない。もっと危険で、甘美な何か。

秦昊は、鞄の中でノートを握りしめた。彼の手は、まだ微かに震えていた。しかし、その震えは、恐怖ではなく、期待によるものだった。

放課後、彼は、夏知雪の研究室へと足を向けた。その扉の向こうでは、新たな世界が、静かに彼を待っていた。

授業後のオフィスでの話

# 第三章:授業後のオフィスでの話

微積分の講義が終わった。教壇の上で、夏知雪教授が黒板の最後の数式を拭き終えたところだった。学生たちは次々と立ち上がり、荷物をまとめ始めている。秦昊もノートを閉じ、バッグにしまおうとしたその時だった。

「秦昊くん、ちょっと待って」

柔らかくも確かな声が、教室に響いた。秦昊は一瞬固まった。まさか自分のことだろうか。周りを見渡すと、同じ名前の者は他にいない。夏教授は既に教壇から降りて、こちらに向かってきている。

「あ、はい」

秦昊は慌てて返事をした。心臓がどくんと大きく跳ねた。宿題を忘れただろうか。それとも先週の小テストの点数が悪かったせいだろうか。頭の中で様々な可能性が駆け巡る。

「あの…何かありましたか?」

「うん、少し話があるの。よかったら私のオフィスまで来てくれる?」

夏知雪はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は美しかったが、秦昊にはそれが何を意味するのか全く読めなかった。

「はい、わかりました」

秦昊は頷いた。夏教授はそれ以上何も言わず、先に教室を出ていった。その後ろ姿を追いながら、秦昊は自分の心臓の音が耳にまで聞こえてくるような気がした。

夏知雪教授は今年二十九歳。数学科で最も若い教授であり、同時に最も美しい教授でもあった。身長は百七十センチと高く、スーツのスカートから伸びる長い脚はいつも学生たちの目を釘付けにする。白い肌に整った顔立ち、そして知的な眼鏡の奥にある冷たくも美しい瞳。彼女の講義は厳格で知られており、単位を落とす者も少なくない。

秦昊は夏教授の後ろを歩きながら、なぜ自分が呼ばれたのかを考えていた。確かに、自分はこの授業で目立った存在ではなかった。前列の真ん中辺りに座り、黙々とノートを取るだけの普通の学生だ。授業中に私語をしたこともなければ、スマホをいじったこともない。

数学科のオフィスは三階にある。廊下は静かで、他の教員たちは既に帰宅したのか、あるいはまだ講義中なのか、人の気配がほとんどなかった。夏知雪は自分のオフィスの前で立ち止まり、鍵を取り出してドアを開けた。

「どうぞ、入って」

秦昊は小さくお辞儀をしてから、オフィスの中に入った。部屋はそれほど広くはなかったが、整然と片付けられていた。壁にはいくつかの数学の公式が書かれたポスターが貼られ、机の上には積み上げられた論文や教科書、そして一台のノートパソコンが置かれている。窓際には観葉植物が置かれ、夕日が柔らかく差し込んでいた。

「そこに座って」

夏知雪は自分の机の向かいにある椅子を指さした。秦昊はおとなしくそこに座った。夏教授も自分の椅子に腰を下ろし、眼鏡を外して机の上に置いた。彼女の目は思っていたよりもずっと優しい光を帯びていた。

「大学生活にはもう慣れた?」

突然の質問に、秦昊は一瞬戸惑った。まさかこんな世間話から始まるとは思っていなかったのだ。

「はい、まあ…少しずつ慣れてきました」

「そう。最初の一学期は誰でも戸惑うものよ。特に、高校までとは環境が全然違うからね」

夏知雪はそう言って、微笑んだ。その笑顔には、普段の講義では見せない親しみやすさがあった。

「授業の内容はついていけてる?」

「はい、何とか…」

秦昊は正直に答えた。実際、微積分は彼にとってそれほど難しいものではなかった。高校時代から数学は得意だったし、予習復習も欠かさずに行っている。

「そう。君の答案はいつも正確で、論理的だものね。特に先週の小テストは満点だった」

夏知雪はそう言って、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。それは秦昊のノートだった。先週、小テストの後に提出したものだ。

「あ…ありがとうございます」

秦昊は少し驚いた。まさか教授が自分のノートをこんなに細かく見ているとは思っていなかったのだ。

「でもね、秦昊くん」

夏知雪の声のトーンが少し変わった。それは柔らかさの中に、ある種の真剣さを含んでいた。

「授業中、時々上の空になってるみたいね。特に後半の講義では、窓の外を見ていることが多いわ」

秦昊の心臓がまた大きく跳ねた。確かに、最近は授業中に考えごとをしてしまうことが多かった。特に、あのSMの知識に出会ってからは、頭の中で様々なイメージが浮かんでは消え、数学の講義に集中できなくなっていたのだ。

「すみません…」

秦昊は謝った。顔が熱くなっていくのを感じた。

「謝らなくていいわ。ただ、せっかく君に能力があるんだから、もっと集中した方がいいと思うの。特に数学は積み重ねが大事だから、一回の不注意で後々困ることになるかもしれない」

夏知雪はそう言って、優しい目で秦昊を見た。その視線には、教師としての心配と、もう一つ別の何かが混ざっているような気がした。

「はい、気をつけます」

秦昊はそう答えたが、内心では全く別のことを考えていた。彼の目は、いつの間にか夏知雪の首元に視線を向けていた。彼女の白い首には、細い銀のネックレスがかかっている。その鎖が、もし…もし彼女の首を縛るものだったら、どんなに美しいだろうか。

秦昊は自分でも驚くような想像をしてしまい、慌てて視線をそらした。何を考えているんだ、自分は。相手は教授だぞ。

「どうしたの?顔が赤いけど」

夏知雪が心配そうに尋ねた。

「い、いえ、大丈夫です。ちょっと暑くて…」

秦昊は慌てて誤魔化した。実際、オフィスはエアコンが効いていて、むしろ涼しいくらいだった。

「そう。ならいいけど」

夏知雪はそう言って、立ち上がった。窓際に歩いていき、ブラインドを少し調整した。夕日がさらに部屋の中に差し込み、彼女のシルエットを美しく浮かび上がらせた。

「ところで、秦昊くん。君は普段、どんなことに興味があるの?」

突然の質問に、秦昊はまた戸惑った。趣味を聞かれているのだろうか。

「えっと…絵を描くのが好きです」

「絵?どんな絵を描くの?」

「主に…風景画や静物画です。時々、人物も描きます」

「そう。芸術的な感性もあるんだね。数学と絵画は意外と相性がいいのよ。どちらも美しい調和と秩序を追求するものだから」

夏知雪はそう言って、再び自分の椅子に座った。彼女の目には、何か深い意味が込められているように見えた。

「実はね、秦昊くん。私も若い頃は絵を描くのが好きだったの。でも、数学の研究に専念するようになってから、すっかり遠ざかってしまったわ」

「そうだったんですか」

「うん。でも、時々また描きたくなるの。特に…束縛から解き放たれたような、自由な線を描きたくなる時がある」

その言葉に、秦昊の心臓がまた大きく跳ねた。束縛という言葉が、彼の頭の中で反響した。

「束縛…ですか?」

「そう。私たちは日々、様々なものに縛られている。時間、規則、常識、人間関係…。時には、それらから解き放たれて、本当の自分を表現したいと思うことはない?」

夏知雪の目が、秦昊をまっすぐに見つめた。その視線には、教師と生徒という枠を超えた、何か親密なものが含まれているように感じられた。

「はい…時々、そう思います」

秦昊は正直に答えた。彼の頭の中では、夏知雪を縄で縛るイメージが再び浮かんでいた。彼女の白い肌に縄が食い込む様子、その美しい体が自由を奪われる様子…。

「秦昊くん?」

「は、はい!」

秦昊は慌てて我に返った。夏知雪が心配そうな顔で自分を見つめている。

「大丈夫?本当に具合が悪そうだけど」

「いえ、大丈夫です。すみません、ちょっと考え事をしていました」

「そう。ならいいけど…」

夏知雪はそう言って、再び机の引き出しから何かを取り出した。それは一枚の紙だった。秦昊の小テストの答案だった。

「これ、君の答案よ。完璧だったわ。特にこの積分の問題は、多くの学生が間違えていたのに、君は見事に解いていた」

秦昊は答案を受け取り、それを見た。確かに、全ての問題に正解していた。

「ありがとうございます」

「ただ、ひとつ気になることがあるの」

夏知雪はそう言って、答案の裏面を指さした。そこには、秦昊が無意識に描いたらしい落書きがあった。それは、複雑に絡み合った幾何学的な模様だった。まるで…縄のような。

「これ、何を描いたの?」

秦昊の顔が一気に赤くなった。それは、彼が数日前に見たSM動画のワンシーンで、女性の体に巻かれた縄の模様を、無意識にノートに書き写したものだったのだ。

「あ、これは…その…何かのデザインを考えていて…」

秦昊はぎこちない言い訳をした。しかし、夏知雪はただ優しく微笑むだけで、それ以上追及しなかった。

「面白い模様ね。どこか芸術的で、どこか…神秘的な感じがする」

夏知雪はそう言って、その模様をじっくりと見つめた。彼女の指がそっと紙の上をなぞる。その動作は、どこか官能的だった。

「もしかして…君はSMに興味があるの?」

秦昊は一瞬、息が止まった。まさか教授からそんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだ。

「な、何で…」

「この模様、縄の結び方に見えたから。それに、最近の君の様子を見ていると、何か別のことに気を取られているように見えてね」

夏知雪は冷静に言った。その口調には、非難の色は一切なく、むしろ興味を持っているように感じられた。

「あの…その…」

秦昊は言葉を失った。どう答えるべきか分からなかった。否定するべきか、それとも認めるべきか。

「大丈夫よ、隠さなくても。私は教師だから、君たち学生の様々な興味や関心を見てきたわ。SMに対する興味は、特に珍しいものじゃない」

夏知雪はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔には、なぜか秦昊の心を落ち着かせる力があった。

「実は…最近、その分野のことを知って…それから…」

秦昊は躊躇しながらも、少しずつ話し始めた。自分がどのようにSMの知識に触れたのか、それがどれほど強く自分の心を捉えているのか。ただし、具体的な内容については伏せた。

「そう。君は…そちら側の人間なのね」

夏知雪の言葉に、秦昊は一瞬戸惑った。

「そちら側…?」

「そう。支配する側。君の目を見れば分かるわ。君は縛りたいんだ。誰かを…」

秦昊の顔がさらに赤くなった。教授にそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかった。

「でも…そんなこと…」

「恥ずかしがることはないわ。人間には様々な欲望がある。それを否定する必要はないの」

夏知雪はそう言って、立ち上がった。そして、秦昊のそばに歩いてきて、彼の肩に優しく手を置いた。

「ただ、気をつけてね。その欲望を現実で実行する時は、相手の同意が必要よ。そして、自分自身も傷つけないように」

秦昊は、夏知雪の手の温もりを感じながら、何か不思議な感覚に包まれていた。教授の手は、思っていたよりもずっと柔らかく、そしてどこか…期待に満ちているように感じられた。

「先生は…SMについて、どう思いますか?」

秦昊は勇気を出して尋ねた。彼は、なぜこの教授がこんなに自分に対してオープンなのか、不思議でならなかった。

「どう思うか…そうね。私は、人間の欲望の表現方法の一つだと思うわ。特に、現代社会の中で抑圧された感情を解放する手段として、有効な場合もあると思う」

夏知雪はそう言って、秦昊の向かいの席に戻った。彼女の顔には、少し赤みが差していた。

「もしかして…先生も…」

秦昊は言いかけて止めた。あまりに失礼な質問かもしれないと思ったのだ。

「私?私は…ただの教師よ。でも、人間の多様性を理解しようとしているだけ」

夏知雪はそう言って、微笑んだ。その笑顔には、何か秘密を隠しているような雰囲気があった。

時計を見ると、もうすぐ六時になろうとしていた。窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中はオフィスライトだけが照らしていた。

「もうこんな時間ね。長く引き止めてしまったわ」

夏知雪はそう言って、机の上に置いてあった秦昊のノートを手に取った。彼女はそのノートをじっくりと見つめ、何かを考えるような表情を浮かべた。

「秦昊くん、これからは授業中はしっかり聞くこと。君の能力なら、もっと上を目指せるはずだから」

「はい、気をつけます」

秦昊は頷いた。そして、立ち上がって帰ろうとした。

「ちょっと待って」

夏知雪の声が、秦昊を引き止めた。彼女はノートを手に持ったまま、少し躊躇しているようだった。

「もし…もし勉強や生活で何か悩みがあったら、先生に話してみて。もしかしたら力になれるかもしれない」

彼女の声は、普段の講義の時よりもずっと柔らかく、そして…どこか切迫したものがあった。顔は少し赤らみ、目線は少し下を向いている。

「はい…ありがとうございます」

秦昊はそう答え、ノートを受け取ろうとした。しかし、夏知雪はそれをすぐに手放さなかった。二人の指が、ノートの上で一瞬触れ合った。

その時、秦昊は感じた。夏知雪の指が、かすかに震えていることを。そして、その指の温度が、普通よりも少し高いことを。

「先生?」

秦昊が尋ねると、夏知雪ははっとしたように手を離した。

「ごめん、ぼんやりしてたわ。…戻っていいよ」

秦昊はノートを受け取り、一礼してから部屋を出ようとした。しかし、ドアの前で彼は立ち止まり、振り返った。

「先生、さっきの話…僕は、先生にもっと教えてほしいことがあります」

夏知雪は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変わった。

「そう。なら、また今度話しましょう。ちゃんと時間を作るから」

秦昊はそれ以上何も言わず、部屋を出た。廊下には、彼の足音だけが響いていた。

オフィスを出てから、秦昊は急いで階段を下りた。心臓はまだ高鳴っていた。そして、手の中のノートが、夏知雪の指の感触をまだ覚えているような気がした。

彼女はなぜ、自分に対してあんなに優しかったのだろう。なぜSMの話を出してきたのだろう。そして、あの「力になれるかもしれない」という言葉は、何を意味していたのだろう。

秦昊は考えながら、学生寮への道を歩いた。夜風が彼の頬を冷やしたが、心の中は不思議な熱さで包まれていた。

その夜、秦昊はなかなか寝付けなかった。頭の中で、夏知雪の姿が何度も浮かんでは消えた。彼女の白い首、長い脚、そしてあの優しい微笑み。そして、彼女を縄で縛った時の姿を想像してしまう。

次の日、秦昊は数学の授業を受ける前に、図書館でSMの専門書を何冊か借りた。彼は、自分の中で膨れ上がる欲望を整理するために、もっと知識が必要だと感じていた。

授業中、秦昊は前列の真ん中に座り、しっかりと前を向いて講義を聞いた。しかし、時々、教壇に立つ夏知雪の姿を見ていると、彼の心は別の場所に飛んでいってしまう。

夏知雪もまた、時々秦昊の方に視線を向けた。その視線は、ただの教師から生徒に向けられるものとは違っていた。どこか…親密で、そして期待を含んでいた。

授業が終わった後、秦昊は再び夏知雪に呼び止められた。今度は、彼女のオフィスではなく、廊下の片隅だった。

「秦昊くん、今日の午後、時間がある?」

秦昊は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。

「はい、あります」

「じゃあ、四時に私のオフィスに来て。さっきの話の続きをしましょう」

夏知雪はそう言って、優しく微笑んだ。その微笑みには、昨日よりもさらに深い意味が込められているように感じられた。

秦昊は、その言葉に心臓が高鳴るのを感じながら、深く頷いた。彼の頭の中では、様々な想像が渦巻いていた。

午後四時、秦昊は時間通りに夏知雪のオフィスの前に立っていた。ドアをノックすると、中から柔らかな声が返ってきた。

「どうぞ、入って」

秦昊がドアを開けると、夏知雪は机に向かって何かを書いていた。彼女は今日は白いブラウスに黒いスカートという装いで、髪は後ろで一つに結んでいた。眼鏡の奥の目は、何かを深く考えているようだった。

「座って、少し待ってて」

秦昊は言われた通りに向かいの椅子に座った。部屋の中は、昨日と同じように整然と片付けられていた。窓からは、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。

しばらくして、夏知雪はペンを置き、顔を上げた。

「待たせてごめんなさい。ちょっと書類を整理してたの」

「いえ、大丈夫です」

秦昊はそう答えながら、夏知雪の動作をじっと観察していた。彼女が眼鏡を外す動作、髪を直す仕草、一つ一つの動きが、なぜか彼の心を強く惹きつけた。

「さて、昨日の話の続きだけど…」

夏知雪はそう言って、少し間を置いた。彼女の顔が、ほんのり赤くなる。

「実はね、秦昊くん。私も…その分野に興味があるの」

秦昊は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。しかし、すぐに意味が分かり、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。

「先生が…?」

「そう。ただし、私は…縛られる側の人間よ」

夏知雪の声は、少し震えていた。それは、告白する時のような緊張感を含んでいた。

秦昊は、言葉を失った。まさか、憧れの教授が自分と同じような興味を持っていて、しかも自分とは逆の立場であることを打ち明けてくるとは思っていなかったのだ。

「驚いた?」

「はい…正直、信じられません」

秦昊は正直に答えた。彼の頭の中は、混乱と興奮でいっぱいだった。

「私も、こんなことを学生に話すなんて思ってなかったわ。でも、君を見ていると、なぜか話したくなったの」

夏知雪はそう言って、遠くを見るような目をした。

「先生は…経験があるんですか?」

秦昊は勇気を出して尋ねた。彼は、もっと知りたかった。この美しい教授が、どんな経験をしてきたのか。

「少しだけ。でも、満足できる経験ではなかったわ。相手が私の本当の欲望を理解してくれなかったから」

夏知雪の声には、寂しさと、そして何か渇望のようなものが混ざっていた。

「それで…」

秦昊は言葉を続けようとしたが、夏知雪がそれを遮った。

「秦昊くん。私はね、君に教えたいの。本当の縛り方というものを。もちろん、それは単なる技術だけじゃない。相手の心を理解し、信頼関係を築くことの重要性も含めて」

秦昊の心臓が、さらに激しく鼓動を打った。彼女が何を言おうとしているのか、徐々に分かってきた。

「先生は…まさか…」

「そう。私は…君に縛られたいの」

夏知雪の言葉は、静かだが確かな響きを持っていた。彼女の目には、これまで見たことのないような光が宿っていた。

秦昊は、返事ができなかった。頭の中が真っ白になり、ただ彼女の美しい姿を見つめることしかできなかった。彼女の白い首、細い腕、長い脚。そのすべてを、自分の手で縛り上げたいという衝動が、彼の中で膨れ上がっていくのを感じた。

「でも…僕はまだ何も知りません。技術も、心構えも…」

「大丈夫。私が教えるから。ゆっくりでいいの」

夏知雪はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は、教師としてのものではなく、一人の女性としてのものだった。

「ただし、一つだけ約束してほしいの。これは、私たちだけの秘密。絶対に誰にも言わないで」

「もちろんです。絶対に言いません」

秦昊は力強く頷いた。彼の心の中では、この秘密が二人だけの絆になることを、強く望んでいた。

「ありがとう。じゃあ、今日はまず理論から始めましょう」

夏知雪はそう言って、机の引き出しから一冊の本を取り出した。それは、SM技術に関する専門書だった。

「これを読んでみて。質問があったら、いつでも聞いて」

秦昊はその本を受け取り、そっと撫でた。彼の指が、表紙に触れた時、何か特別な感覚が体中に走った。

「わかりました。必ず勉強します」

「そう。期待してるわ」

夏知雪はそう言って、再び微笑んだ。その微笑みには、教師としての優しさと、そして別の何か…渇望のようなものが混ざっていた。

秦昊はその日、寮に戻るとすぐにその本を開いた。ページをめくるごとに、新たな世界が広がっていく。縄の種類、結び方、安全な縛り方、心理的な配慮…。全てが、彼の知らない知識で溢れていた。

そして、彼の頭の中では、常に夏知雪の姿があった。彼女を縛る時の自分を想像し、その美しい体が自由を奪われる様子を思い描いた。

数日後、秦昊は夏知雪にメールを送った。本を読み終えたこと、学んだこと、そして実践してみたいという自分の気持ちを綴った。返信はすぐに来た。

「明日の午後四時、私のオフィスで。実践の準備をしておくわ」

秦昊はそのメールを見て、深く息を吸った。いよいよ始まるのだ。自分の中で眠っていた欲望が、現実のものになろうとしている。

その夜、秦昊はなかなか寝付けなかった。頭の中では、明日の計画がぐるぐると回っていた。どんな縄を使うのか、どんな結び方をするのか、そして何より、夏知雪の反応はどうか。

翌日、秦昊は授業が終わるとすぐに寮に戻り、着替えてから夏知雪のオフィスに向かった。彼のバッグの中には、昨日買ったばかりの縄が入っている。それは、絹のように柔らかな素材でできており、肌を傷つけないように作られていた。

四時ちょうどに、秦昊は夏知雪のオフィスのドアをノックした。中から、少し緊張したような声が返ってきた。

「どうぞ、入って」

秦昊がドアを開けると、夏知雪はいつもと少し違う服装をしていた。それは、白いワンピースで、彼女の美しい体のラインを強調していた。髪は後ろで一つに結び、首元はすっきりと見えていた。

「いらっしゃい」

夏知雪はそう言って、秦昊に微笑んだ。その微笑みには、緊張と期待が混ざっていた。

「先生、今日は…」

秦昊が言いかけると、夏知雪はそっと彼の唇に指を当てた。

「今日からは、先生じゃなくて、知雪でいいわ。私たち、もう特別な関係になったんだから」

秦昊は、その言葉に胸が熱くなった。彼女の指の感触が、まだ唇に残っている。

「はい…知雪さん」

「じゃあ、始めましょう」

夏知雪はそう言って、ゆっくりと窓辺に歩いていった。夕日が彼女のシルエットを美しく浮かび上がらせていた。

秦昊はバッグから縄を取り出し、手の中でその感触を確かめた。柔らかく、そして強靭なその縄は、まるで彼女のためにあるかのようだった。

「まずは…手から始めましょう。あなたの手を縛らせてください」

秦昊の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。それは、彼の中で眠っていた何かが目覚めた証拠だった。

夏知雪は黙って両手を差し出した。その手は、わずかに震えていた。秦昊は優しくその手を握り、ゆっくりと縄を巻き始めた。

最初の一巻きが終わった時、夏知雪の口から小さな息が漏れた。秦昊は、その反応に興奮しつつも、冷静さを保って作業を続けた。彼は本で学んだ通り、縄がきつく締まりすぎないように、適度な強さで結んでいく。

「どうですか?痛くないですか?」

「大丈夫…気持ちいい…」

夏知雪の声は、かすかに震えていた。その声には、解放感のようなものが含まれていた。

秦昊は、ゆっくりと、丁寧に縄を巻き続けた。彼の手は、少しずつ彼女の腕を、そして肩を縛り上げていった。それは、まるで芸術作品を創り上げるような、繊細な作業だった。

縛り終わると、秦昊は一歩下がって全体を見渡した。夏知雪は、窓辺に立ち、両手を後ろで縛られていた。彼女の白いワンピースと、茶色の縄が美しいコントラストを創り出していた。夕日が彼女の横顔を照らし、その表情は苦痛と快楽の間にある、複雑なものだった。

「どう…ですか?」

秦昊は、不安になりながら尋ねた。彼は、自分の技術が未熟なことをよく知っていた。そして、彼女が本当に満足しているのかどうか、確かめたかった。

「すごく…いいわ」

夏知雪はそう言って、ゆっくりと振り返った。彼女の目は、涙で潤んでいた。しかし、それは悲しみの涙ではなかった。それは、長い間目を背けてきた自分の欲望を、ついに認めた時の解放の涙だった。

「もっと…もっと縛って。私の全部を、あなたのものにして」

夏知雪の言葉は、秦昊の心に深く響いた。彼は、彼女の願いを叶えるべく、再び縄を手に取った。

その夜、二人は長い時間を共に過ごした。秦昊は、本で学んだ様々な縛り方を実践し、夏知雪はその一つ一つに感嘆の声を上げた。それは、ただ単に技術を教えるだけの時間ではなく、二人の心が深く繋がっていく時間だった。

窓の外が完全に暗くなった頃、秦昊はゆっくりと縄を解き始めた。彼の手は優しく、そして慎重に動いた。縄が外されるたびに、夏知雪の肌には赤い跡が残っていた。しかし、それは痛みの跡ではなく、愛撫の跡だった。

「今日はここまでにしましょう」

秦昊がそう言うと、夏知雪は少し名残惜しそうな表情を浮かべた。しかし、すぐに優しく微笑んだ。

「そうね。まだまだ時間はあるもの」

秦昊は、縄を丁寧に畳んでバッグにしまった。そして、振り返って夏知雪を見た。彼女は、窓辺に立ち、外の夜景を見つめていた。その横顔は、これまで見たどの時よりも美しかった。

「知雪さん…」

「なに?」

「ありがとうございます。今日は本当に…素晴らしい時間でした」

秦昊がそう言うと、夏知雪はゆっくりと振り返った。彼女の目には、涙が光っていた。

「私こそ、ありがとう。こんなに気持ちいい思いをしたのは、初めてよ」

二人はそのまま、しばらく見つめ合った。言葉は必要なかった。二人の間には、確かな信頼と理解が生まれていた。

「そろそろ戻らないと。寮の門限があるから」

秦昊がそう言うと、夏知雪は頷いた。

「そうね。気をつけて帰ってね。そして、次は…もっと長くできるように、計画しましょう」

「はい。楽しみにしています」

秦昊はそう言って、部屋を出ようとした。しかし、ドアの前で立ち止まり、振り返った。

「知雪さん…。あなたは、とても美しいです」

その言葉に、夏知雪の顔が一瞬で赤くなった。彼女は普段のクールな教師の顔を完全に失い、一人の女性としての表情を見せていた。

「ありがとう…秦昊くん。あなたも、とても頼もしいわ」

秦昊はそれ以上何も言わず、部屋を出た。廊下には、彼の足音だけが響いていた。しかし、その足音には、これまでにない力強さがあった。

寮に戻った秦昊は、ベッドに横たわりながら、今日の出来事を振り返っていた。自分の手で、憧れの教授を縛り上げたという事実。そして、彼女がその行為に喜びを感じていたという事実。そのすべてが、夢の中にいるような感覚だった。

しかし、それは確かに現実だった。彼の手には、まだ彼女の肌の感触が残っている。彼の心には、彼女の吐息がまだ響いている。

秦昊は、深い満足感と共に、眠りに落ちていった。彼の夢の中では、夏知雪が微笑みながら、両手を差し出していた。

そして、彼はその手を、優しく縛り上げるのだった。

秘密が露見する恐怖

# 第四章 秘密が露見する恐怖

秦昊は夏知雪の研究室を後にした後も、頭の中が真っ白なままであった。彼女が最後に口にした「今日のところはこれで終わりにしましょう」という言葉の意味が、どうしても理解できなかった。あの言葉は、単に今日の対話を終わらせるという意味なのか、それともこの件全体を終わらせるという意味なのか。あるいは……何か別の含意があるのだろうか。

寮へ向かう道すがら、秦昊の足取りは重かった。九月の終わりとはいえ、まだ残暑が厳しい夕方のキャンパスを、彼は無意識に歩いていた。蝉の鳴き声が聞こえる。それが普段と変わらない日常の風景であるにもかかわらず、彼の目にはすべてが歪んで映っていた。

「ああ、秦昊じゃん。どうしたんだ、顔色悪いぞ」

すれ違ったクラスメートの声が耳に入ったが、秦昊は反応できなかった。ただ機械的にうなずくだけで、そのまま歩き続けた。

寮の建物が見えてきた時、彼はふと鞄の中のノートのことを思い出した。ノート。そうだ、あのノートには……秦昊の心臓が急激に鼓動を速める。彼は立ち止まり、自分の手が震えているのを感じた。周囲に人の気配がないことを確認すると、ベンチに腰掛けて鞄を開けた。

中から取り出したのは、普段使っているスケッチブックだ。数学の講義中に無意識に描いた落書きが、そこに残されている。秦昊は息を呑みながら、ページをめくり始めた。

最初の数ページは、講義の内容をメモしたものだ。微分方程式の解法、フーリエ変換の基本……しかし、中盤あたりから、彼の筆致は明らかに変わっていた。それは幾何学模様のような、細かい罅のような線が無数に描かれたページだった。秦昊はそのページをめくる手を止められない。

そして、その次のページに、彼は目を見開いた。

そこには、一人の女性が描かれていた。椅子に座らされ、両手を背中で縛られている。髪は乱れ、口には布のようなものが噛まされている。服は乱れて肩が露わになり、その肌に縄目の跡がくっきりと浮かび上がっていた。顔は下を向いて詳細は分からないが、その体つきと雰囲気から、明らかに夏知雪をモデルにしていることがわかった。

秦昊の手が震えた。ページを閉じようとしても、指がうまく動かない。頭の中が真っ白になり、呼吸が浅くなる。いつ描いたのかさえ思い出せない。確かに講義中、うわの空でペンを走らせていた記憶はある。しかし、まさかこんな露骨な絵を、しかも夏知雪をモデルにした絵を描いていたとは……

「どうしよう……どうすればいいんだ……」

秦昊は周囲を見回した。誰もいない。だが、いつ誰がこのノートを見るかわからない。寮に戻ればルームメイトがいる。彼らがこのノートを見つけたら? 講義中に隣の席の学生が覗き込んだら? あるいは、万が一、このノートが夏知雪の手に渡ったら?

彼女はすでに、自分が異常な性癖を持っていることを知っている。それだけでも十分に危険な状況だ。その上で、自分が彼女の姿をこんな風に描いていたことがバレたら――秦昊は想像するだけで寒気がした。

彼は急いでノートを鞄にしまい、立ち上がった。寮に戻るのが怖い。しかし、外にいるのも怖い。どこにいても、この秘密が露見する恐怖から逃れられない。

寮の部屋に戻ると、ルームメイトの張磊がゲームをしていた。

「おう、秦昊。遅かったな。教授に呼び出されてたんだろ? どうだった?」

張磊は気軽に話しかけてきた。秦昊は無理やり平静を装って答えた。

「ああ、特に何でもなかったよ。ただ、課題の進捗を聞かれただけ」

「そうかよ。お前、最近数学の授業中よくボーっとしてるよな。教授も気にしてるんじゃないか?」

秦昊の心臓がドキリとした。張磊はただの世間話のつもりで言ったのだろう。しかし、今の秦昊にはその一言すらも、自分の秘密が露見していることを示唆するように聞こえた。

「そんなことないよ……ちょっと寝不足なだけだ」

秦昊はそう言って、自分のベッドに向かった。鞄をベッドの隅に置き、その上に上着をかぶせる。ノートが誰の目にも触れないようにするためだ。

しかし、それでも安心できない。彼はベッドに横になりながらも、頭の中は不安でいっぱいだった。夏知雪はあの時、研究室で何を見たのか。あのノートのことを知っているのだろうか。知っているなら、なぜ何も言わなかったのか。知らないなら、それはそれで幸運だが、万が一知られた時のことを考えると……

「ああ、もうだめだ……」

秦昊は自分の両手を見つめた。この手で描いたあの絵。なぜあんなものを描いてしまったのか。自分でも理解できない。ただ、あの日、夏知雪の講義を受けている時、彼女の姿を見ていると、何かが彼の内側で疼いた。それは抑えきれない衝動であり、同時に恐怖でもあった。

その夜、秦昊はまともな睡眠を取ることができなかった。何度も悪夢にうなされ、汗でシーツを濡らした。夢の中で、夏知雪が自分に向かって歩いてくる。彼女の手にはあのノートがある。そして、彼女は微笑みながら言うのだ。

「秦昊くん、これ、あなたが描いたのね……」

その瞬間、秦昊は飛び起きた。心臓が激しく鼓動し、息が切れている。窓の外はまだ暗い。時計を見ると午前3時だった。

「……夢か」

彼は額の汗を拭いながら、深く息を吐いた。だが、夢でなかったとしても、現実はすぐそこまで迫っている。夏知雪の研究室での出来事は、決して夢ではなかった。

翌朝、秦昊は重い体を引きずって授業に向かった。今日は1限から数学の講義がある。つまり、夏知雪に会うことになる。彼は胃のあたりが重く、吐き気すら感じていた。

教室に着くと、すでに多くの学生が席に着いていた。秦昊はいつものように後ろの方の席を選んだ。できるだけ夏知雪の目に触れたくなかったのだ。

しかし、授業が始まり、夏知雪が教壇に立つと、彼の視線は自然と彼女に引き寄せられた。彼女はいつもと変わらず、凛とした立ち姿で講義を進めている。スーツのスカートから伸びる長い脚、白いブラウスの上からでもわかる豊かな胸のライン、そして何より、あの冷静沈着な眼差し。

秦昊は自分の鼓動が早くなるのを感じた。同時に、彼女の口から自分の名前が出るのではないかという恐怖に襲われた。

「この問題、誰か解いてみたい人はいるか?」

夏知雪が黒板に数式を書きながら言った。何人かの学生が手を挙げた。秦昊は俯いて、できるだけ目立たないようにした。

「では、秦昊くん、どうだろう?」

秦昊の心臓が止まるかと思った。彼はゆっくりと顔を上げると、夏知雪と目が合った。彼女の表情は変わらない。ただ、授業の一環として生徒を指名しただけのように見える。

「……はい」

秦昊は立ち上がり、黒板に向かった。手が震えていたが、なんとか問題を解き終えた。振り返ると、夏知雪が微かに頷いた。

「正解だ。座っていいよ」

それだけだった。普段と変わらない日常。しかし、秦昊にはそれが異常に感じられた。彼女はなぜ自分を指名したのか。それは偶然なのか、それとも何か意図があってのことなのか。

授業が終わると、秦昊は逃げるように教室を出た。その後も、一日中心ここにあらずの状態が続いた。食堂で食事をしていても味がしない。友人に話しかけられても、上の空で返事をするだけだ。

「秦昊、お前最近変だぞ。何かあったのか?」

昼休み、張磊が心配そうに尋ねてきた。

「何でもないよ……ちょっと体調が悪いだけ」

秦昊はそう言って、無理やり笑顔を作った。しかし、張磊は納得していないようだった。

「体調か……まあいいけどさ。でも、もし何かあったら言えよ。同じ部屋のよしみだ」

「……ありがとう」

秦昊はそう答えながらも、心の中は複雑だった。秘密を打ち明けたい気持ちと、それを口にすることへの恐怖が入り混じっている。自分が抱えているものが、ただの趣味や嗜好のレベルを超えていることを、彼は自覚していた。それは社会の規範から逸脱した、異常な欲望だ。もしそれが露見すれば、自分はどうなるのか。大学を追われるかもしれない。親に知られれば、勘当されるかもしれない。

その日から一週間、秦昊は地獄のような日々を送ることになる。

二日目。朝目覚めると、まずノートの場所を確認した。まだ鞄の中にある。安心すると同時に、それをどう処分すべきか考えた。捨てるべきだろうか。しかし、捨てるにもリスクがある。ゴミ箱から誰かに見つけられるかもしれない。燃やすのが確実だが、寮の部屋で紙を燃やすのは難しい。

「どうすればいいんだ……」

秦昊は頭を抱えた。授業に行くのも怖い。しかし、サボればかえって目立つ。仕方なく、重い足取りで教室に向かった。

今日の数学の講義も、夏知雪は普段通りだった。彼女は相変わらず凛とした態度で教壇に立ち、時折学生の質問に丁寧に答えている。秦昊は彼女の一挙手一投足に敏感に反応した。彼女が自分を見るたびに、心臓がドキドキと鳴る。

講義の途中、夏知雪がふと秦昊の方を見た。彼女の視線と秦昊の視線が交錯する。一瞬だったが、秦昊はその眼差しに何かを感じ取った。それは、単なる教師が生徒を見る目ではなく、もっと深い、何かを知っている者の目だった。

「まさか……彼女はあのノートのことを知っているのか?」

秦昊は自分の考えに恐怖した。しかし、もしかすると、研究室であの日、彼女は何かを見ていたのかもしれない。ノートの内容までは見えなかったとしても、自分が異常な反応を示したことは確かだ。彼女はそれを察知しているのではないか。

三日目。秦昊の不安はさらに増大した。朝、寮の廊下で担任の教授とすれ違った時、彼は声をかけられた。

「秦昊くん、ちょっといいかな」

秦昊の心臓が飛び跳ねた。ついに来たか。夏知雪が何か言ったのか。彼は恐怖で足がすくんだ。

「……はい」

「最近、数学の授業中の態度について、少し気になることがあるんだが」

担任の教授は穏やかな口調で言った。しかし、その言葉は秦昊にとって死刑宣告のように響いた。

「あの……すみません。最近ちょっと体調が優れなくて……」

「そうか。体調管理も大事だぞ。無理はするなよ」

教授はそれだけ言って去っていった。秦昊はその場に立ち尽くした。ただの注意だった。しかし、それが夏知雪の依頼によるものかもしれないと考えると、恐怖は増すばかりだった。

その日、秦昊は授業が終わるとすぐに寮に戻った。そして、鞄からノートを取り出し、どうすべきか真剣に考えた。結局、ノートを引き裂いて、トイレに流すことにした。しかし、それも完全な解決にはならない。頭の中に残っている記憶までは消せない。

四日目。秦昊は周囲の人間が自分を監視しているような錯覚に陥っていた。寮のルームメイトが何かを話しているのを見ると、それが自分の噂話をしているのではないかと疑った。

「おい、秦昊。お前、最近全然話さないけど、本当に大丈夫か?」

張磊が心配そうに尋ねてきた。

「うん、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてただけ」

「考え事? まさか彼女でもできたのか?」

張磊が冗談めかして言った。秦昊は慌てて否定した。

「ち、違うよ! そんなんじゃない!」

「そんなに慌てることはないだろ。誰にも言わないからさ、教えてくれよ」

張磊がニヤニヤしながら近づいてくる。秦昊は後ずさりした。

「だから違うって! ちょっと一人にしてくれ!」

秦昊はそう叫んで、部屋を飛び出した。張磊は驚いた表情で彼を見送った。

寮の外に出た秦昊は、キャンパスを無目的に歩き回った。秋の陽射しが暖かい。しかし、彼の心は冷えきっていた。誰にも相談できない。一人で抱え込むしかない。その孤独感が、彼をさらに追い詰めていく。

五日目。秦昊は限界に近づいていた。睡眠不足とストレスで、目の下にはくまができ、顔色も悪い。講義中も、上の空でノートすら取れない。

その日、数学の講義の後、夏知雪が秦昊を呼び止めた。

「秦昊くん、ちょっと待ってくれないか」

秦昊の心臓が止まるかと思った。周りの学生が彼を見る。彼はゆっくりと夏知雪の方に歩いていった。

「何でしょうか……」

「最近、授業中の様子がおかしいようだが、何かあったのか?」

夏知雪は穏やかな口調で尋ねた。その表情は、本当に心配しているように見えた。しかし、秦昊にはそれが偽装であるように思えた。

「い、いいえ……大丈夫です。ちょっと体調が……」

「そうか。無理はするなよ。それから……」

夏知雪は一呼吸置いて、続けた。

「もし何か悩みがあったら、いつでも相談に来ていいからな」

その言葉に、秦昊は全身の血が凍るような思いをした。相談に来ていい――それはつまり、研究室に来いという意味か。あの密室で、また何かされるのではないか。

「……ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」

秦昊はそう言って、逃げるようにその場を離れた。背後で夏知雪が何か言ったような気がしたが、振り返ることはできなかった。

六日目。秦昊はもう授業に出ることもできず、一日中ベッドに横になっていた。ルームメイトたちは心配して何度も声をかけてきたが、彼は「休ませてくれ」とだけ言って、毛布を頭からかぶった。

頭の中は、さまざまな想像でいっぱいだった。夏知雪が大学の上層部に自分を通報する場面。両親に連絡が行き、彼らが激怒する場面。警察が介入し、自分が逮捕される場面。それらすべてが、現実味を帯びて彼を襲った。

「もう終わりだ……全てが終わる……」

秦昊は自分の運命を呪った。なぜあんなノートを描いてしまったのか。なぜ夏知雪のあんな姿を想像してしまったのか。なぜ自分はこんな異常な欲望を持って生まれてしまったのか。

しかし、その一方で、彼は自分の中に渦巻く欲望を否定することもできなかった。あの縄の感触。夏知雪の肌の温もり。彼女の苦しそうな表情。それらは彼の想像の中で美しく輝いていた。

「俺は……どうかしてる」

秦昊は自分の手を見つめた。この手で彼女を縛りたい。同時に、その欲望に恐怖している。二つの感情が彼の中で激しく衝突していた。

七日目。もう一週間が経とうとしている。秦昊は朝、ルームメイトに無理やり起こされて、講義に向かった。今日の数学の講義は、週に一度の大講義だ。大教室には百人以上の学生が集まる。

秦昊は一番後ろの席に座った。前方の教壇には、夏知雪が立っている。彼女は今日も変わらず、凛とした姿で講義を進めている。秦昊はその姿を見ているだけで、胸が苦しくなった。

講義が終わり、学生たちがぞろぞろと教室を出ていく。秦昊も立ち上がり、出口に向かおうとした。その時、彼のスマートフォンが振動した。メッセージの着信だ。

画面を確認すると、送信者は夏知雪だった。秦昊は思わず息を呑んだ。彼女は何の用だろうか。震える手でメッセージを開く。

「今日の放課後、研究室に来てください。大事な話があります」

たったそれだけのメッセージ。しかし、秦昊にとっては死刑宣告のように重かった。ついに来たか。彼女はついに決断したのだ。

秦昊はその場に立ち尽くした。周りの学生が彼を押しのけて通り過ぎていく。彼だけが時の中で止まっていた。

「どうする……どうすればいいんだ……」

逃げ出したい。しかし、逃げても意味がない。いずれ彼女は大学に通報するだろう。だったら、直接話を聞いた方がいいのか。それとも、謝罪して許しを乞うべきか。

しかし、何を謝罪すればいいのか。ノートのことを知っているかどうかもわからない。まさか「縛る絵を描いてすみません」と謝るわけにもいかない。

秦昊は深く息を吸って、吐いた。決心はつかなかったが、彼女の呼び出しに応じないわけにはいかない。

放課後、秦昊は重い足取りで数学科の研究室に向かった。廊下には学生の姿は少なく、静かだった。彼の足音だけが寂しく響く。

夏知雪の研究室の前に着くと、彼はしばらく立ちすくんだ。中からは物音がしない。彼女はまだ来ていないのだろうか。それとも、すでに中で待っているのか。

秦昊は意を決してドアをノックした。

「どうぞ」

中から、夏知雪の声が聞こえた。秦昊はゆっくりとドアを開けた。

「失礼します」

彼は研究室に入った。夏知雪は机に向かって何か書類を整理していた。彼が入ってきたのを見ると、優しい微笑みを浮かべた。

「よく来たな。座ってくれ」

秦昊は指示に従って、ソファに腰掛けた。夏知雪も対面に座る。彼女の行動には、いつもの落ち着きがあった。それが秦昊をさらに不安にさせた。

「今日呼んだのは、お前に話したいことがあるからだ」

夏知雪はそう言って、机の上に一冊のノートを置いた。秦昊のノートだ。彼の顔色が一瞬で青ざめた。

「これ、お前のだな」

「は、はい……」

秦昊は声が震えるのを抑えられなかった。彼女は知っていたのだ。あの日から、ずっと。

「このノート、研究室に忘れていっただろう。昨日、掃除の人が見つけて、私のところに持ってきてくれた」

夏知雪は淡々と言った。秦昊は言葉を失った。忘れた?まさか。自分はいつも鞄に入れていたはずだ。しかし、もしかすると、あの日研究室を出る時に落としたのかもしれない。

「中を見せてもらった。お前、絵が上手いんだな」

夏知雪の言葉は、皮肉でも嫌味でもなく、純粋な称賛のように聞こえた。しかし、秦昊にはそれが逆に怖かった。

「あ、あれは……その……すみません!」

秦昊は頭を下げた。何を謝っているのかわからなかったが、とにかく謝らなければならないと思った。

「謝る必要はない。しかし、一つ気になることがある」

夏知雪の声のトーンが変わった。それは教師としての厳しさを含んだものだった。

「あの絵……モデルは私か?」

秦昊の全身が凍りついた。否定しようとしたが、言葉が出てこない。結局、彼は小さくうなずくことしかできなかった。

「……はい」

「そうか」

夏知雪は深く息を吐いた。しばらくの沈黙が流れる。秦昊は自分の鼓動が早くなるのを感じた。彼女は何を考えているのか。怒っているのか。それとも……

「秦昊くん。お前は、私のことをどう思っている?」

突然の質問に、秦昊は戸惑った。

「え……?」

「私のことを、どう思っているんだ。正直に話してくれ」

夏知雪の目は真剣だった。秦昊はその目を見つめ返すことができず、うつむいた。

「……先生は、すごく綺麗だと思います。それに、教え方も上手だし、学生からの信頼も厚いし……」

「そういう表面的なことじゃない。本当の気持ちを言ってほしい」

夏知雪は一歩踏み込んで尋ねた。秦昊は自分の心臓の音が耳に響くのを感じた。

「本当の気持ち……ですか」

彼は自分の中に渦巻く欲望を言葉にしようとした。しかし、それはあまりにも異常で、口に出すのが怖かった。

「俺は……先生に……先生を……」

言葉が詰まる。夏知雪は辛抱強く待っていた。

「先生を……縛りたいと思っています」

秦昊はやっとの思いでその言葉を口にした。言ってしまった。もう後戻りはできない。

夏知雪は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻した。

「そうか……なぜ、そう思うんだ?」

「なぜって……わかりません。でも、先生の姿を見ていると、そういう想像をしてしまうんです。先生を縄で縛って、自由を奪いたいって。そんな自分が怖いけど、それでも抑えられないんです」

秦昊は自分の弱さをさらけ出していた。もう隠しきれない。全てを話すしかない。

「先生の講義を受けている時も、先生の姿を見ていると、どうしてもそんなことばかり考えてしまうんです。自分でも気持ち悪いと思ってる。でも、やめられないんです」

秦昊の目から涙が溢れそうになった。しかし、夏知雪は優しく微笑んだ。

「そんなに自分を責めるな。お前の気持ちは、よくわかる」

「え……?」

「私も、お前と同じようなことを考えたことがあるからだ」

秦昊は信じられない思いで夏知雪を見つめた。彼女は真剣な表情で話を続けた。

「私も若い頃、誰かに縛られたい、支配されたいという欲望を持っていた。それは異常なことかもしれない。しかし、その欲望を抑え込むことはできなかった」

夏知雪の言葉は、秦昊の心に深く響いた。まさか、彼女も同じような欲望を抱えていたとは。

「だから、お前の気持ちはよくわかる。そして、そんな自分を責める必要はないと思っている」

「でも……でもこんなの、普通じゃない……」

「普通って何だ? 誰にでも心の奥には秘めた欲望がある。それを表に出せるかどうかの違いだ」

夏知雪は立ち上がると、窓の外を見た。夕日が部屋の中を赤く染めている。

「秦昊くん。お前が描いたあの絵、確かに私をモデルにしたものだな。そして、お前は私を縛りたいと思っている。それは事実だ」

「……はい」

「ならば、一つ提案がある」

夏知雪は振り返り、秦昊の目を真っ直ぐに見つめた。

「私を縛ってみないか?」

秦昊は言葉を失った。何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

「え……?」

「私はお前に縛られたい。お前は私を縛りたい。ならば、その欲望を現実のものにしてみないか?」

夏知雪の言葉は、誘惑と挑発に満ちていた。秦昊の心臓は激しく鼓動していた。

「でも……そんなこと……もし誰かに知られたら……」

「誰にも知られないようにすればいい。これは、お前と私だけの秘密だ」

夏知雪はそう言って、秦昊に近づいた。彼女の香りが彼の鼻腔を刺激する。

「怖いか?」

「……怖いです。でも、それ以上に……」

「それ以上に?」

秦昊は深呼吸をした。そして、自分の中の欲望に正直になることにした。

「それ以上に、先生を縛りたいです」

その言葉を聞いて、夏知雪は微笑んだ。それは、何かを許したような、それでいて何かを始めるような、複雑な笑みだった。

「よし。ならば、決まりだ」

夏知雪はそう言って、机の引き出しから一つの箱を取り出した。中には、何本もの縄が入っていた。

「この間、お前の反応を見て、もしやと思って用意しておいた」

秦昊はその縄を見つめて、自分の運命を受け入れた。もはや後戻りはできない。だが、それでも構わなかった。彼はずっと求めていたのだ。この瞬間を。

「始めようか、秦昊くん」

夏知雪の声は、優しく、そして確かに彼を導くようだった。

秦昊はゆっくりと立ち上がり、彼女の手から縄を受け取った。布の感触が、手のひらに伝わる。それは、運命の重さを持っていた。

大胆な試みの行動

第五話 大胆な試みの行動

秦昊は自室の机に向かい、何度も何度もあの日の記憶を反芻していた。夏知雪教授がノートを受け取った瞬間、ほんの一瞬だけ見せたあの赤面。目線が泳いだあの挙動。もし本当にただの絵だと無視するつもりなら、なぜわざわざ自分を呼び止めたのか。なぜノートを返すときに、あんなにもぎこちなかったのか。

彼は鉛筆をくるくる回しながら、窓の外の夕暮れを見つめた。橙色の光が部屋の中に差し込み、机の上に置かれたスケッチブックの端を照らしている。そこには先週描いた縛られた女性の絵が、消しゴムで擦られた跡とともに残っていた。

「普通の教授なら、あんな絵を見たら絶対に親に連絡するはずだ」

秦昊は低く呟いた。少なくとも高校の担任だったら、間違いなく保護者会で話題にしただろう。しかし夏知雪教授は何もしなかった。それどころか、自分に対する態度はむしろ柔らかくなったような気さえする。授業中の視線が以前より長く留まるようになったし、質問に答えた時も笑顔を見せるようになった。

「まさか……彼女も」

その考えが頭をよぎると、秦昊の心臓はドクリと大きく鳴った。手のひらに汗が滲む。もしそうだとしたら、この静かな大学で自分と同じ秘密を抱えた人間に出会ったことになる。しかも相手はあの美しい数学科の教授だ。しかしそれはあまりに出来すぎた話だった。

彼は深く息を吸い込み、もう一度あの日の光景を思い出す。夏知雪がノートを手渡した時、彼女の指先がわずかに震えていた。目が合った瞬間、彼女はすぐに視線をそらした。それは単なる恥ずかしさ以上の何かがあったように思える。

「もっと明確にしてみよう」

秦昊はそう決意した。次の宿題のノートに、これまでよりずっと露骨な絵を描くことにしたのだ。前回はただの線画だったが、今回はもっと細部まで描き込む。縄の交差する様子、肌に食い込む縄の跡、そして拘束された女性の表情——苦痛と快楽が混ざり合ったような、あの独特の表情を。

彼は机の引き出しから新しいスケッチブックを取り出した。白いページを開き、鉛筆を握る手が微かに震える。もし賭けに外れたらどうなるのか。親に連絡が行き、大学に呼び出され、場合によっては退学処分になる可能性もある。しかしそれ以上に、夏知雪教授に拒絶されることが怖かった。

「いや、彼女は違う」

秦昊は自分に言い聞かせながら、鉛筆を走らせ始めた。線は滑らかで迷いがない。何度も頭の中で描いてきたイメージが、そのまま手を通じて紙の上に現れる。まずは縄の基本的な構造から。両手を背中で交差させ、肘から肩にかけて複雑に巻き付ける。胸の前で交差する縄は、女性の身体の曲線を強調するように配置する。

彼は絵に没頭していった。時間を忘れて細部を描き込む。膝を折り曲げて固定する縄、足首を拘束する縄、そして首に巻かれたリード。全てが完璧に調和し、モデルとなった女性は完全に無力化されている。しかしその表情には恐怖ではなく、むしろ安堵にも似た感情が浮かんでいる。

秦昊は最後の仕上げに、背景に影を落とした。陰影をつけることで、立体感と緊迫感が増す。完成した絵を見つめながら、彼は深く息を吐いた。

「これならわかるはずだ」

翌日、数学の授業が終わった後、秦昊は宿題のノートを班長に手渡した。その瞬間、手がひどく震えているのを感じた。班長は何気なくノートを受け取り、他のノートと一緒に束ねて教壇へ持っていく。

秦昊は席に座ったまま、その光景を見守っていた。班長がノートの山を夏知雪教授の机の上に置く。教授は何気なくそれを見て、授業の準備を始めている。彼女の指がノートの束を整えるように撫でる。その中に自分のノートがあるのだ。

「次回の授業まで待たなければならないか」

秦昊は唇を噛んだ。一週間もの間、この絵が教授の目に触れずに放置されるのかと思うと、居ても立ってもいられなかった。もし誰かがノートを開いたらどうしよう。班長や他の学生が見てしまうかもしれない。

その日の午後、秦昊は図書館で時間をつぶしていた。しかし集中できず、同じページを何度も読み返すばかりだ。頭の中はあの絵のことでいっぱいだった。教授はもう見ただろうか。どんな反応を示すだろうか。嫌悪か、驚きか、それとも——

夜になっても彼の心は落ち着かなかった。ベッドに横になりながら、天井を見つめる。あの絵のディテールが頭の中で鮮明に再生される。もし教授が親を呼び出したら、自分はどう言い訳するつもりなのか。趣味の範囲だと主張できるか。いや、あれは明らかに性的な絵だ。言い訳の余地はない。

「でも彼女は呼び出さなかった。前回も」

秦昊は自分に言い聞かせる。しかし今回の絵は前回よりずっと露骨だ。線の数も、構図も、全てが明らかに意図的だ。教授がそれに気づかないはずがない。もし彼女が本当に何も感じていないのなら、確実に問題になる。

眠れない夜を過ごした翌朝、秦昊は早めに教室へ向かった。教授がまだ来ていないことを確認し、自分の席に座る。ノートはまだ教授の机の上にあった。どうやらまだ見ていないようだ。

授業が始まる。夏知雪教授が教室に入ってくる。今日は白いブラウスに黒いスカートという清楚な格好だ。髪は後ろで一つに束ね、眼鏡をかけている。彼女はいつも通り教壇に立ち、出席を取る。秦昊の名前が呼ばれた時、彼女の声がほんの少し高くなった気がした。

「秦昊くん」

「はい」

彼は短く答えた。目が合った瞬間、教授の頬が微かに赤らんだように見えた。しかしそれは気のせいかもしれない。彼女はすぐに次の名前を呼び始めた。

授業が進むにつれ、秦昊は教授の動きを観察し続けた。彼女がノートの束に手を伸ばすたびに、心臓がドキリとする。しかし彼女はあえて触れず、授業を進めていく。黒板に数式を書き、学生に質問を投げかけ、いつも通り淡々と授業を進めている。

終業のチャイムが鳴った。学生たちが一斉に立ち上がる。秦昊も席を立った。その時、教授が口を開いた。

「秦昊くん、ちょっと待ってくれないか」

周りの学生が振り返る。秦昊は驚いて立ち止まった。教授は机の上から一冊のノートを手に取り、彼の方へ歩いてくる。

「これ、君のノートだよね。ちょっと気になる部分があるんだけど」

彼女の声は低く、抑えられていた。秦昊は息を飲みながら、うなずいた。周りの学生がまだ教室に残っている中、教授は彼の腕をそっと掴んだ。

「こっちに来てくれる?」

彼女に導かれて、秦昊は教室の隅へ移動した。他の学生たちは次々と教室を出ていく。最後の一人が扉を閉めたのを確認してから、教授はノートを開いた。

そこにはあの絵があった。縛られた女性の全身像が、克明に描かれている。教授はしばらくそれを見つめ、そしてゆっくりと顔を上げた。

「これは……どういう意味なの?」

彼女の声には怒りはなかった。むしろ困惑と好奇心が混ざっているようだった。秦昊は必死に平静を装いながら答えた。

「趣味です。絵を描くのが好きで」

「趣味ね……」

教授はもう一度絵を見下ろした。指が紙の上をなぞるように動く。その動きは優しく、まるで触れるのをためらっているかのようだった。

「なかなか上手いわね。構図もいいし、陰影の付け方も自然だ」

秦昊は驚いた。まさか褒められるとは思わなかった。

「でも、どうしてこんな絵を描くの?」

教授の目が真剣に彼を捉えた。秦昊は一瞬言葉を失ったが、すぐに姿勢を正して答えた。

「縄の美しさに惹かれたんです。縄が人を包み込む形が好きで」

「縄の美しさ……」

教授はつぶやきながら、もう一度絵を見る。彼女の指が、縄が巻かれた部分を何度もなぞる。その様子を見て、秦昊は確信した。彼女は理解している。少なくとも、嫌悪感は抱いていない。

「教授も……興味がありますか?」

秦昊は勇気を振り絞って尋ねた。教授の目が大きく見開かれる。彼女の頬が一気に赤く染まった。

「な、何を言ってるの!そんなことあるわけ——」

しかし途中で言葉が止まった。彼女は唇を噛み、目線を落とした。長い沈黙が流れる。

「……確かに、私も少しだけ知識はあるわ」

その言葉はほとんど聞き取れないほど小さかった。しかし秦昊の耳にははっきりと届いた。彼の心臓が激しく打ち鳴らされる。

「でも、こんなことは学生と話すことじゃない。ごめん、もう帰っていいよ」

教授はノートを閉じ、秦昊に手渡した。彼女の手は微かに震えていた。

「あの……」

秦昊は言いかけてやめた。今はまだ踏み込む時じゃない。しかし確かな手応えを感じていた。教授も同じ世界に興味を持っている。その事実だけで、彼の胸は高鳴った。

その日から、秦昊の行動は大胆になっていった。次の授業では、ノートにさらに詳細な拘束図を描いた。縄の結び目や、体勢、モデルの表情まで綿密に描き込む。そして教授がノートをチェックする際、必ず開かれるページに挟んでおいた。

教授は毎回、その絵を見るたびに一瞬息を呑む。そして何も言わずにノートを閉じる。しかしその目は確かに絵を捉えていた。時々、彼女の視線が秦昊に向けられる。その目には何かが宿っていた。もしかしたら欲望かもしれない。あるいは期待かもしれない。

秦昊は勇気を出して、さらに進んだ試みをすることにした。ノートの最後のページに、自分と教授の名前を書いた小さなメモを挟んだのだ。内容は「もしご興味があれば、放課後に空き教室でお話ししませんか」という簡単なものだった。

ノートを提出した後、秦昊は不安で押しつぶされそうになった。あまりに直接的な誘いは逆効果かもしれない。しかし退くわけにはいかなかった。もう後戻りできないところまで来ている。

放課後、秦昊は空き教室で待った。時計の針がゆっくりと動く。十分が経ち、二十分が経った。もう来ないかもしれない。そう思った時、扉が静かに開いた。

そこに立っていたのは夏知雪教授だった。彼女は周りを確認するように見回し、中に入ると扉を閉めた。

「この件について話すのは、ここが最初で最後よ」

教授はそう言いながら、秦昊の前に立った。彼女の顔は緊張でこわばっていたが、目は真剣だった。

「いつから私が……興味があるって気づいたの?」

秦昊は正直に答えた。「最初の絵を見た時、普通なら親に連絡します。でもあなたはしなかった。それに、ノートを返す時に顔が赤くなっていました」

「そう……やっぱりバレてたのね」

教授は苦笑しながら、隣の椅子に腰かけた。彼女の指が膝の上で震えている。

「実は私、若い頃からこの世界に憧れていたの。でも教授という立場もあって、ずっと隠してきた。あなたの絵を見た時、すごく衝撃を受けた。誰かが同じ趣味を持っているって知って」

「理解してくれる人がいて、嬉しいです」

秦昊の言葉に、教授は優しく微笑んだ。

「でも、私たちの関係は複雑よ。教師と学生。もし誰かに知られたら、二人とも立場が危うくなる」

「わかっています」

秦昊は真っ直ぐに教授を見つめた。

「だからこそ、慎重に進めたいんです。まずはお互いのことをもっと知ることから始めませんか」

教授はしばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。

「わかった。でも約束してほしい。このことは絶対に誰にも言わないこと」

「約束します」

二人の間に新しい関係が芽生えた瞬間だった。秦昊はその日、興奮で一睡もできなかった。教授が自分の世界を理解してくれる。それだけでなく、同じ興味を共有している。これ以上の幸せはない。

次の日から、秦昊と夏知雪教授は放課後に空き教室で会うようになった。最初は互いの知識を共有することから始めた。秦昊がSMの理論について説明し、教授が縛りの技術について質問する。徐々に話題は深まっていった。

ある日、教授が自分の経験について話し始めた。

「私は昔、一度だけ本物の緊縛を体験したことがあるの。学生の頃、趣味の集まりに参加して」

その話を聞いた秦昊の心臓は激しく鼓動を打った。

「どんな感じでしたか?」

「言葉にできないわ。縄に包まれる感触、自由を奪われる感覚、全てを委ねる快感。まるで自分が自分でなくなっていくようで、それでいて初めて本当の自分に出会えた気がした」

教授の目は遠くを見つめていた。その表情は憧れと、かすかな恐怖が混ざっていた。

「また体験したいですか?」

秦昊の質問に、教授はゆっくりと頷いた。

「でも、信頼できる相手じゃないとダメなの。縄は簡単に人を傷つけられる道具だから」

「ならば」

秦昊は深く息を吸い込んだ。

「私が縛りましょうか」

教授の目が大きく見開かれる。数秒の沈黙が流れた。やがて彼女はほほえみながら首を振った。

「まだ早いわ。もう少しお互いを知ってからにしましょう」

その言葉には、しかし確かな期待が込められていた。秦昊はそれを感じ取り、さらに熱心に技術を磨く決意をした。

それからの数週間、秦昊は図書館で縄の結び方の本を借り、自宅で練習を重ねた。モデル代わりに椅子やクッションを使い、何度も何度も繰り返し縛り方を試した。教授に認められるためには、完璧な技術が必要だった。

一方、教授もまた変わっていった。授業中に秦昊を見る目が以前より柔らかくなり、時折微笑むようになった。他の学生の前では相変わらず厳格だが、二人きりになると、彼女は完全に違う人物に変わる。

ある放課後、秦昊は練習の成果を教授に見せた。彼は持ち込んだ縄を使って、椅子に結び目を作っていく。複雑な模様が次々と現れる。教授はその手さばきを食い入るように見つめていた。

「すごいわ。こんなに短期間で覚えたの?」

「はい。教授に認めてもらいたくて」

秦昊は正直に答えた。教授は少し照れたように笑った。

「本当に真剣なのね」

「真剣です。真剣そのものです」

秦昊は縄を手に、教授の前に立った。彼女の手を取ろうとしたが、教授はそっと手を引っ込めた。

「今日はここまでにしましょう。帰り道、暗くなる前に」

教授は立ち上がり、教室を出ていこうとした。しかし秦昊は引き留めるように声をかけた。

「教授、明日もここで会えますか?」

振り返った教授の顔は、少し赤くなっていた。

「……ええ、いいわよ。でも次の授業のノートは、もう少し普通の絵を描いてね。他の先生に見られたら困るから」

その言葉に秦昊は微笑んだ。教授は自分のことを心配しているのだ。まだ完全に信頼されているわけではないが、少しずつ距離が縮まっているのを感じていた。

翌日、秦昊はノートに普通の数学の問題だけを書いて提出した。教授はそれを見て、安心したような表情を浮かべた。しかしその日の放課後、彼女は秦昊に新しい宿題を出した。

「今度は、私のための特別な絵を描いてきてほしいの」

教授はそう言って、一枚のメモを秦昊に渡した。そこには「緊縛の段階を表す連続イラスト」と書かれていた。

「できるかしら?」

「もちろんです」

秦昊は即答した。その夜、彼は徹夜でその連続イラストを描き上げた。縄のかけ方の順序や、拘束の強さ、モデルの表情の変化まで、細かく描き込んだ。完成した作品は十数ページにも及んだ。

翌日、教授はそのイラストを見て目を輝かせた。

「本当に素晴らしい。こんなに細かく描けるなんて」

「教授が喜んでくれるなら、何度でも描きます」

秦昊の言葉に、教授はうつむいた。彼女の目が涙で潤んでいるように見えた。

「ありがとう。こんなに理解してくれる人がいるなんて、思ってもみなかった」

その瞬間、秦昊は教授を抱きしめたい衝動に駆られた。しかしぐっとこらえて、代わりにこう言った。

「教授、今度の週末はどうですか?もしよろしければ、私の部屋で実際に縛ってみたいんです」

教授は一瞬息を呑んだ。彼女の身体がかすかに震えている。長い沈黙の後、彼女はかすれた声で答えた。

「……考えさせて」

その言葉に希望を感じながら、秦昊はその日はそれ以上詰め寄らなかった。教授が自分で決断するのを待つことにしたのだ。

週末が近づくにつれて、秦昊の心は落ち着かなくなった。もし断られたらどうしよう。もし怖がらせてしまったら。しかし一方で、教授の目に宿ったあの熱を見ると、彼女もまた期待しているように思える。

金曜日の放課後、教授が秦昊を呼び止めた。

「明日の午後、あなたの部屋に行くわ」

その言葉は短かったが、秦昊の胸は高鳴った。教授は真剣な表情で続けた。

「ただし、ルールを決めておきたいの。まず、縛るのは手だけでいい。それ以上はしない。それから、もし私がやめてと言ったら、すぐにやめること」

「もちろんです。約束します」

秦昊は深くうなずいた。教授は安心したように微笑み、教室を去っていった。

その夜、秦昊は自分の部屋を徹底的に掃除した。縄も何度も確認し、使いやすいように整えた。そして翌朝、教授が来るのを待った。

約束の午後二時、インターホンが鳴った。秦昊は急いで玄関に向かい、扉を開ける。そこには緊張した表情の夏知雪教授が立っていた。今日はジーンズにセーターというラフな格好で、髪も下ろしている。

「お邪魔します」

教授はそう言いながら、部屋の中に入った。秦昊が招き入れると、彼女は部屋の中を見回した。数学の本やスケッチブックが並ぶ生活感のある部屋に、彼女は少しほっとした様子だった。

「素敵な部屋ね」

「ありがとうございます。狭いですが、落ち着きます」

秦昊は教授をソファに案内した。彼女が座るのを確認してから、自分も向かいの椅子に腰かけた。

「今日は、本当に縛っていただけるんですか?」

教授の声は少し震えていた。秦昊は静かにうなずいた。

「はい。教授が望むなら」

教授はしばらく考え込んでいた。そしてゆっくりと手を差し出した。

「お願いします」

その言葉に、秦昊はゆっくりと立ち上がった。机の上に用意してあった縄を手に取り、教授の前に立つ。彼女の手を優しく取ると、その指が微かに震えているのがわかる。

「怖くないですか?」

「……少しだけ」

教授は正直に答えた。秦昊はその手を握りしめた。

「大丈夫です。私がちゃんと導きますから」

彼はゆっくりと縄を教授の手首に巻き始めた。最初は緩く、徐々に締めていく。教授はその感触に息を呑んだが、抵抗はしなかった。

「もっと強くしてもいいですか?」

「……どうぞ」

秦昊は教授の手首を背中で交差させ、そのまま縄を巻き付けていく。しっかりと固定し、結び目を作る。教授の腕がわずかに動いたが、抜け出せないようになっている。

「自由を奪われる感覚はどうですか?」

「……怖いけど、それ以上に何かが解放されていく感じがする」

教授の声はさっきよりしっかりしていた。秦昊はそれを聞いて、さらに次の段階に進むことにした。彼女の腕を縛ったまま、次は肘を縛ろうとした。しかし教授が口を開いた。

「今日はここまでにしましょう」

その言葉に、秦昊はすぐに縄を解いた。教授は手首を揉みながら、ほっとした顔で微笑んだ。

「想像していたよりずっと気持ちよかったわ。でも、一度にいろいろするのは怖いから」

「わかっています。少しずつ慣れていきましょう」

秦昊は優しく答えた。教授は立ち上がり、窓の外を見つめた。

「次は、もっと違う縛り方を教えてくれる?」

「もちろんです。教授が望むなら、何度でも」

教授は振り返り、秦昊の目をまっすぐに見つめた。

「約束よ」

「約束します」

その日の別れ際、教授は秦昊の頬に軽くキスをした。それは予想外の出来事で、秦昊は一瞬息が止まった。教授は恥ずかしそうに笑い、そのまま部屋を出ていった。

秦昊は一人残され、自分の頬を触った。まだ彼女の唇の温もりが残っている。これは現実なのか。彼は自分の頬をつねってみた。痛い。現実だ。

「次はもっと……」

秦昊の心には、さらに大きな野望が芽生え始めていた。教授をもっと深く知りたい。もっと緊密な関係を築きたい。そして、いつかは彼女の全てを縛りたい。

その夜、彼は新しいスケッチブックに、次なる計画を描き始めた。それは大胆で、危険な計画だった——。

再び呼び出される

第6章 再び呼び出される

翌日、秦昊は数学の講義室に足を踏み入れた瞬間、教室の空気がいつもより重く感じられた。彼はいつも通り後ろから二番目の窓際の席に座ったが、心臓は胸の中で不規則なリズムを刻んでいた。机の上には前回のノート提出用紙がまだ空白のまま置かれている。昨日のあの瞬間、ノートに何を書いたのか、彼自身にもよくわからなかった。ただ、あの縛られた女性のスケッチを描いているとき、手が震えるほど興奮していたことだけは覚えている。

夏知雪教授が教壇に立った。いつものように白いブラウスに黒いタイトスカート、髪はきっちりとまとめられている。彼女の顔には何の変化も見られない。目は相変わらず鋭く澄んでいて、教室を見渡すたびに学生たちが背筋を伸ばす。秦昊は彼女の表情を注意深く観察しようとしたが、夏知雪はまるで昨日のことがなかったかのように、いつもの穏やかで厳しい口調で授業を始めた。

「前回のノートを採点してきたので、今から返却します。」

彼女の声は静かで、まるで水面に落ちる一滴の水のように教室に響く。秦昊はその言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。彼女は採点済みのノートを一冊ずつ手に取り、名前を呼びながら学生に手渡していく。一人、また一人と名前が呼ばれるたびに、秦昊の心臓は激しく鼓動した。彼は自分の名前が呼ばれるのを待ちながら、同時に呼ばれることを恐れていた。

「李陽。」

「はい。」

「王思雨。」

「ありがとうございます。」

名前が次々と呼ばれていく。教室は静かで、ページがめくれる音と、学生たちがノートを受け取るときの小さな声だけが聞こえる。秦昊は自分の手が微かに震えているのに気づいた。彼は机の下で両手を握りしめ、爪が掌に食い込む感覚で自分を落ち着かせようとした。

ノートが配られるたびに、彼の心はさらに沈んでいく。周りの学生たちはノートを開き、赤いペンで書き込まれたコメントに一喜一憂している。秦昊だけがその輪から外れていた。彼は夏知雪の手元を凝視し続けた。彼女の細くて白い指がノートを一枚一枚めくるたびに、彼の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。

ようやく最後のノートが学生の手に渡った。教室は一瞬静まり返る。秦昊はその静寂の中で、自分の心臓の音だけが頭の中で反響しているのを感じた。夏知雪は教壇の上で手を組み、ゆっくりと教室を見渡した。彼女の視線はやがて秦昊の座る後方の席に留まる。

「秦昊くん。」

彼女の声はまるで雪解けの水のように冷たく澄んでいた。秦昊はその名前を呼ばれた瞬間、全身が固まった。彼はゆっくりと顔を上げ、夏知雪の目を見ようとしたが、彼女の視線はやはり読み取れなかった。

「すみません、秦昊くんのノートだけ、まだ採点が終わっていません。授業が終わったら、私のオフィスに来てください。」

その言葉はあまりにも自然で、まるで日常的な業務連絡のようだった。しかし、秦昊にはその言葉の裏に何か別の意味が込められているように感じられた。彼は喉を震わせて、

「はい、わかりました。」

と答えるのが精一杯だった。声は思ったより小さく、ほとんど自分の耳にも届かないほどだった。

夏知雪はそれ以上何も言わず、すぐに授業に戻った。今日のテーマは定積分の応用だった。秦昊は黒板の文字を追おうとしたが、頭が全く働かなかった。かすかに浮かぶ数字や記号が、ただの線と丸にしか見えない。彼は代わりに夏知雪の姿を追った。

彼女はいつもと変わらない。黒板に向かって式を書き、時々振り返って説明を加える。声の調子も、身振りも、全てが完璧だ。しかし秦昊は、彼女の背中がわずかに緊張しているように見えた。特に、彼女が自分の方を向くとき、その目が一瞬だけ、何かを探るように揺らぐ。それはほんの一瞬で、すぐに元の教授の顔に戻る。

「さて、この問題を解いてみましょう。誰か黒板に書いてくれる人はいますか?」

夏知雪が問いかける。数人の手が上がったが、秦昊は身動き一つできなかった。彼の頭の中は真っ白で、まるで数学の記号が全て意味を失ってしまったかのようだった。

授業は淡々と進む。秦昊にとっては永遠のように感じられる二時間だった。彼はノートを開くことさえせず、ただ目の前の空気を見つめ続けた。時折、夏知雪の声が耳に入ってくるが、それは遠くのこだまのように聞こえる。

「秦昊くん、この部分はわかっていますか?」

突然、自分の名前が呼ばれて秦昊ははっとした。夏知雪が彼の方を向いて、穏やかな笑みを浮かべている。しかし、その目は鋭く、彼の心の奥底まで見透かそうとしているようだった。

「はい、大丈夫です。」

秦昊は慌てて答えた。彼の声は震えていたが、夏知雪は特に追及せず、そのまま授業を続けた。彼女の唇の端がわずかに上がったように見えた。秦昊はその瞬間、心臓が一瞬止まったかのような衝撃を受けた。

残りの時間はまるで拷問のようだった。秦昊は時計を何度も見た。針はゆっくりとしか進まず、一分一秒が一時間のように感じられる。彼の心は二つの思いで引き裂かれていた。一つは、早く授業が終わってほしいという願い。もう一つは、このまま時間が止まってしまえばいいのにという恐怖。どちらの感情も、彼をさらに不安にさせた。

講義の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、秦昊は全身から力が抜けるのを感じた。学生たちは荷物をまとめ、ぞろぞろと教室を出て行く。秦昊は席に座ったまま、動くことができなかった。彼は机の表面に浮かんだ木目を見つめながら、心の中の準備を整えようとした。

「秦昊、先に行くよ。」

友人の一人が声をかけてきた。秦昊は曖昧にうなずき、手を振って答えた。彼はできるだけ普通に見えるように振る舞おうとしたが、心臓はまだ乱れている。

教室が徐々に静かになっていく。学生たちの話し声が遠ざかり、ドアが開閉する音が何度か聞こえる。秦昊は数分間、その場に留まり続けた。彼の耳には、自分の呼吸音だけが聞こえる。机の上には、未使用のノートが置かれている。彼はそのノートを手に取り、じっと見つめた。昨日、あのスケッチを描いたときの感覚が鮮明に蘇る。ペンを握る手の震え、紙の上で線を引くときの迷いのない動き。あの瞬間、秦昊は自分が何か新しい世界の扉を開いてしまったのではないかと感じていた。

「大丈夫、大丈夫。」

彼は自分に言い聞かせるように何度もつぶやいた。心の中で、あらゆる可能性を考えてみる。夏知雪教授が自分のノートを見て、何を考えているのか。もし彼女が怒っているのなら、なぜすぐに説明を求めなかったのか。もし彼女が何かに気づいたのなら、なぜあんなに自然に授業を進めることができたのか。

頭の中で様々なシナリオが浮かんでは消える。最も可能性の高いのは、彼女が自分の描いたスケッチに驚いて、その意味を問いただそうとしているのだろう。しかし、それならばなぜ、授業中にあんなに平静を装うことができるのか。秦昊は混乱した。

彼は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。何度かそれを繰り返すうちに、心臓の鼓動が少し落ち着いてきた。彼は立ち上がり、カバンを肩にかけた。教室はもう誰もいない。乾いた床に自分の足音だけが響く。

ドアのところで一瞬立ち止まった。廊下は学生たちの姿で溢れている。彼はその群衆の中を歩きながら、教員オフィスへ向かう。足を一歩踏み出すたびに、心の中の緊張が高まっていく。

廊下の壁には、数学と物理学のポスターが貼られている。秦昊はそれらを何気なく見ながら、自分の心を落ち着かせようとした。しかし、考えれば考えるほど、頭の中は混乱する。

「教授はなぜ僕だけ呼び出したんだ。ノートを見て、何を思ったんだ。」

自分に問いかけながら、彼は階段を上り、二階の教員フロアへ向かう。廊下の突き当たりに、夏知雪のオフィスのドアが見えた。ドアは少し開いていて、中からかすかな光が漏れている。

秦昊はそのドアの前で立ち止まり、もう一度息を吸い込んだ。心臓がバクバクと音を立てている。彼は拳を何度か握ったり開いたりして、手の震えを抑えようとした。そして、意を決して、ドアをノックした。

「失礼します。」

声をかけてから、秦昊はゆっくりとドアを押し開けた。オフィスの中は、彼の想像とは少し違っていた。夏知雪教授は机に向かって座っておらず、窓際に立っていた。その手には、自分のノートが握られている。

彼女は秦昊の気配に気づいて、突然背中を硬くした。そして慌ててノートを机の上に置こうとしたが、その動作が少しぎこちなかった。秦昊はその瞬間、彼女の顔がほんのりと赤くなっているのを確かに見た。

「あ、秦昊くん。入ってください。」

夏知雪は声を震わせながら言った。彼女は机の前に戻り、椅子に座った。秦昊はその様子から、彼女が何か緊張していることを直感した。

「失礼します。」

秦昊はオフィスの中に入り、ドアを閉めた。部屋の中は、例のヨガのレッスンのときと同じ、すっきりとした空間だった。机の上には採点用のカラーペンと、数冊の参考書が並んでいる。そして、自分のノートが開かれたまま置かれている。

「座ってください。」

夏知雪が椅子を指さした。秦昊は素直にその椅子に腰かけた。彼の正面には、夏知雪の机がある。彼女は手を組んで、秦昊の目をまっすぐに見つめた。

「秦昊くん、昨日のノートの内容について、少し話したいことがあります。」

彼女の声はいつもより低く、少し抑揚がない。秦昊はその口調から、彼女が何かを隠しているように感じた。

「はい、何でしょうか。」

秦昊はできるだけ落ち着いた声を出そうとしたが、口の中が乾いて声が震えそうだった。

夏知雪は机の上のノートを手に取り、一ページ目を開いた。そこには、秦昊が描いたあのスケッチがそのまま残っている。縛られた女性の姿が、繊細なペン先で描かれていた。

「これは、あなたが描いたものですね。」

彼女は静かに問いかけた。秦昊はその問いに、一瞬言葉を失った。しかし、すぐに覚悟を決めてうなずいた。

「はい、私が描きました。」

その返答を聞いて、夏知雪の顔にもう一層赤みがさした。彼女はノートを閉じ、机の引き出しの中にしまった。

「この絵、とても上手ですね。でも、どうしてこんなものを描こうと思ったのですか?」

彼女の質問は、意外にも穏やかだった。秦昊はその問いに、正直に答えるべきかどうか迷った。しかし、彼女の目を見て、自分も同じことを感じているかもしれないと直感した。

「……わかりません。ただ、最近、縛るということに興味を持ち始めて。それがとても美しいと感じたんです。」

秦昊は口にした言葉の意味を自分でも驚きながら言った。彼の声は少し熱を帯びていた。

夏知雪はその言葉を聞いて、微かに目を細めた。彼女の指が机の上で軽く震えている。

「美しい、ですか。」

彼女はその言葉を繰り返し、何かを考えるように窓の外を見た。部屋の中には、沈黙が流れる。秦昊はその沈黙の中で、自分の心臓の音だけが聞こえるのを感じた。

「それでは、秦昊くん。もう一つ、あなたにお願いがあるんです。」

夏知雪は急に話し始めた。彼女の声は柔らかく、しかし確かな決意を秘めていた。

「何でしょうか。」

秦昊は身を乗り出した。彼の心は、再び高鳴り始めている。

「明日の放課後、時間はありますか。」

「はい、あります。」

「では、明日もう一度だけ、私のヨガのレッスンを見に来てください。その時に、あなたの言う「美しさ」について、もう少し詳しく教えてほしいんです。」

夏知雪はそう言って、ほのかに微笑んだ。その笑顔は、普段の厳格な教授のものではなく、別の顔を見せているようだった。

秦昊はその言葉に、全身に鳥肌が立つのを感じた。彼は夏知雪の目を見つめ、その奥にある同じ熱を感じ取った。

「はい、必ず行きます。」

秦昊は力強くうなずいた。

「では、今日はこれで終わりにしましょう。明日、また会いましょう。」

夏知雪はそう言って、椅子から立ち上がった。秦昊もそれに合わせて立ち上がり、オフィスを後にした。ドアを閉めた瞬間、彼の胸は大きな興奮で満たされた。

廊下を歩きながら、秦昊は自分の手の震えが止まらないのを感じた。心臓はまだ激しく鼓動している。しかし、その震えは恐怖ではなく、期待と興奮の震えだった。

「明日か……。」

彼はつぶやきながら、自分の部屋へと続く道を歩き始めた。空は夕暮れに染まり始め、彼の影が長く伸びていた。その影は、まるで何か新しい自分を映し出しているかのようだった。

秦昊は自分の部屋に戻ると、カバンをベッドの上に放り投げ、そのまま椅子に座った。彼は壁の時計を見つめながら、明日の約束の時間を心の中で繰り返していた。

「何から始めようか……」

彼は自分の手をじっと見つめ、その指で空気を撫でるように動かした。縛るときの感覚が、彼の指先に残っているかのようだった。

明日が、待ち遠しかった。

互いの打ち明け話

第七章 互いの打ち明け話

その日の午後、数学科の教授室のドアが静かに開かれた。秦昊は緊張した面持ちで中に入ると、室内の空気が一瞬で張り詰めたように感じた。窓際に立っていた夏知雪は、彼の姿を認めた瞬間、明らかに肩を震わせた。彼女は机の上の書類を手早く整理すると、無理に落ち着いた声を作って言った。

「あ、秦昊くん…どうしたの?何か困ったことでもあった?」

その声は普段の講義中の厳格な調子とは違っていた。少し高く、不安げに震えていた。彼女は自分の髪を無意識に弄りながら、視線をあちこちに泳がせていた。秦昊はその様子を目の当たりにして、先生もまた何か隠しているのではないかという確信を強めた。

「あの…先生。少しお話ししたいことがあって…」

秦昊の声は小さかったが、室内の静寂の中でよく響いた。夏知雪は慌てて窓辺から戻り、自分の椅子に座ると、机の上の紅茶のカップを手に取った。しかし、カップを口元に運ぶ手が微かに震えていた。

「ええと…勉強のことなら、いつでも相談してくれていいんだよ。それに、寮生活での困りごとがあれば、私に言ってくれたら…」

彼女は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。普段の講義ではあれほど明晰で論理的な言葉を使うのに、今はただの取り留めのない話題を並べているだけだった。秦昊はじっと彼女の目を見つめた。その瞳の奥には、何か慌てたような、逃げ出したいような色が浮かんでいた。

「先生、あの…この前のノートのことなんですが…」

秦昊がそう言った瞬間、夏知雪の指先がカップから離れた。カチャリと小さな音がして、彼女は慌ててテーブルにカップを置いた。

「あ、あのノート?ええ、きちんと見たよ。君の絵の才能は…本当に見事だね。でも、ああいう内容を学校に提出するのは…」

彼女は言葉を濁した。顔がほんのりと赤くなっていた。秦昊はその反応を見て、勇気を振り絞ることにした。

「先生。実は…あの絵には意味があるんです。僕が描きたいのは…ただの美しい女性じゃない。縛られている姿に…何か美しさを感じるんです」

秦昊の声は次第に熱を帯びていった。彼は自分の両手を握りしめ、汗で湿った手のひらを感じながら、真っ直ぐに夏知雪を見つめた。

「大学に入ったばかりの頃、何気なくインターネットを見ていた時に、SMに関する広告サイトにアクセスしてしまったんです。最初はただの好奇心でした。でも…そこに写っていた写真の女性たちが、縄で縛られて、苦しそうでありながらもどこか恍惚とした表情を浮かべているのを見て…僕は異常な興奮を覚えました」

夏知雪は黙って聞いていた。その瞳の色が少しずつ変わっていくのを秦昊は見逃さなかった。彼女の指が机の上で微かに震えていた。

「それから何度もそのサイトを見ました。最初は罪悪感がありました。でも、その感覚は消えませんでした。むしろ、日増しに強くなっていきました。そして…その興奮を発散させるために、僕は絵を描き始めたんです」

秦昊の声は震えていたが、もう後戻りはできなかった。

「あのノートの絵は…僕が描いた最初のものです。それを提出したのは…先生がどう反応するか知りたかったからです。先生も…同じような…」

「もういい!」

夏知雪が突然立ち上がった。椅子が後ろに倒れそうになり、彼女は慌ててそれを支えた。室内に響き渡った声に、秦昊はびくりと肩を震わせた。

「そんな話…私に聞かせてどうするつもりだ」

夏知雪の声は怒りを含んでいるようでありながら、どこか弱々しかった。彼女は机に手をつき、深く息を吸った。そして、ゆっくりと秦昊を見つめた。

「君は…私に何を期待しているんだ?」

その問いかけは、まるで自分自身に問いかけているかのようだった。秦昊は答えられなかった。ただ、胸の奥で高鳴る鼓動を感じながら、静かに首を振った。

「わかりません…ただ、自分の中のこの感情を誰かに知ってほしかったんです。そして…先生なら、何かわかってくれるんじゃないかと…」

沈黙が流れた。時計の秒針の音だけが、室内に規則正しく響いていた。夏知雪は窓の外を見つめていた。その瞳はどこか遠くを見ているようだった。

「秦昊くん…今夜、私の家に来なさい」

その言葉は、まるで決断を下したかのような重みを持っていた。秦昊は一瞬何を言われたのか理解できず、ただ呆然と彼女を見つめた。

「え?」

「今はまだ説明できない。でも…君の言いたいことはわかった。私にも…君の話を聞く義務があると思う。今夜の八時、私の家に来てくれ。住所は…」

夏知雪は机の引き出しから一枚の名刺を取り出し、そこに住所を書き加えた。彼女の手は震えていたが、文字はしっかりと書かれていた。

「これを…持っていけ。それで、今は授業に戻れ。もうすぐ次の講義が始まる」

秦昊は名刺を受け取り、深々と一礼した。そして、教授室を出ようとしたその時、夏知雪が後ろから声をかけた。

「秦昊くん…その…今日のことは、誰にも言うなよ」

その声は、切実な懇願のようだった。秦昊は振り返らずに頷き、静かにドアを閉めた。

廊下に出ると、秦昊は深く息を吸った。心臓はまだ激しく鼓動していたが、どこか清々しさも感じていた。彼は名刺に書かれた住所を確認した。それはキャンパスの外れにある高級住宅街の一画だった。

「夜に会うのか…」

秦昊はひとまず寮に戻ることにした。教室に戻る気分にはなれなかった。次の講義はどうでもよかった。ただ、今夜の約束が頭から離れなかった。

寮に戻ると、部屋には誰もいなかった。彼はベッドに腰掛け、机の上に置いてあるスケッチブックを手に取った。そこには、昨夜描いたばかりの女性の姿があった。縄で縛られ、苦しそうでありながらもどこか安らかな表情を浮かべる女性。その女性の顔は…無意識のうちに夏知雪の顔になっていた。

秦昊はその絵をじっくりと眺めた。そして、今夜、夏知雪の家で何が待っているのかを想像した。彼女はなぜ自分を家に呼んだのか。まさか…そんなはずはない。しかし、彼女の最後の言葉には、何か特別な感情が込められていたように思えた。

「先生も…何かを隠しているのかもしれない」

秦昊は絵を閉じると、ベッドに横になった。天井を見つめながら、彼はこれまでの出来事を振り返った。夏知雪はいつも優しく、しかしどこか距離を置いた態度で接していた。しかし、今日の彼女は明らかに違っていた。まるで、自分の中に潜む何かが露呈するのを恐れているかのようだった。

「もしかすると…先生も同じなのかもしれない」

秦昊の心臓がまた速くなった。彼は深く息を吸い込み、時間が過ぎるのを待った。

一方、教授室に残された夏知雪は、一人窓辺に立っていた。彼女は秦昊が去った後、しばらくその場を動くことができなかった。心臓の鼓動が耳の奥で響き、手のひらには冷や汗が滲んでいた。

「私は…何を言ってしまったんだ」

彼女は自分の口にした言葉を後悔していた。しかし、同時にどこかでほっとしている自分もいた。秦昊があのノートを提出した時、彼女はすぐに何かを察知した。あの縛られた女性の絵に込められた情熱。それは、彼女自身が長年隠し続けてきた欲望とぴったり重なるものだった。

「私も…同じ穴のむじなだ」

夏知雪は苦笑した。彼女は机の引き出しを開け、鍵のかかった引き出しの中から一本の麻縄を取り出した。それは、彼女が何年も前に自ら買い求めたものだった。彼女はその縄を手に取り、そっと撫でた。その感触に、彼女の身体が微かに震えた。

「なぜ、こんなことになってしまったんだ」

彼女は学生時代のことを思い出していた。最初にSMの世界に触れたのは、大学院生の頃だった。ある論文を書くために、セクシュアリティに関する資料を調べているうちに、この世界に足を踏み入れてしまった。最初はただの学術的な興味だった。しかし、次第にその描写に惹かれ、自分自身も同じことを試してみたいという欲望が芽生えた。

最初の体験は、インターネットで知り合った男性とのものだった。彼女は初めて縄で縛られ、完全に支配される快感に酔いしれた。その日から、彼女は週末ごとにその男性の家に通い、調教を受けるようになった。しかし、その関係は長くは続かなかった。相手の男性が結婚したことで、自然に関係は終わった。

それから数年、夏知雪はその欲望を封印していた。教授としての立場、社会人としての常識、それらが彼女の本当の自分を押し殺していた。しかし、たまに押し寄せる衝動を抑えきれず、自分を縛ってみることもあった。しかし、自分自身で縛るだけでは満足できなかった。彼女は誰かに縛られたい、支配されたいという欲望を決して捨てきれなかった。

「秦昊くんは…私と同じ目をしていた」

今日、秦昊の目を見た瞬間、彼女はわかった。あの目は、自分自身が誰かに見られた時の目だった。狂気と情熱が混じり合った、危険な輝き。それは、彼女が彼の絵に見たものと同じだった。

そして、彼女は彼を家に呼ぶことを決めた。なぜそんな決断をしたのか、自分でもよくわからなかった。しかし、何かが彼女を突き動かした。それは、長年封じ込めてきた欲望の解放だったのかもしれない。

「彼は…私が縛られるのを見たいのだろうか」

夏知雪はその想像に身体が熱くなるのを感じた。彼女はすぐにその考えを頭から追い出そうとした。しかし、心の奥底では、その夜のことを夢想している自分がいた。

「私は…教授だぞ」

彼女は自分に言い聞かせた。しかし、その言葉は空しく響くだけだった。

夜の準備をしなければ。夏知雪は部屋を片付け、特別な照明を用意した。彼女は自分のクローゼットから、特別な時にしか着ないシルクのドレスを取り出した。黒色で、身体のラインを強調するようなデザインだった。そして、下着にはわざと縛られているかのようなデザインのものを選んだ。

「何をしているんだ…私は」

彼女は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。29歳の大人の女性。大学教授としての立場。しかし、今の彼女の目には、狂気的な輝きが宿っていた。

「これでいい…」

彼女は唇を軽く噛みしめ、夜の八時を待った。玄関のチャイムが鳴るその瞬間まで、彼女は時間をどう過ごしていいのかわからなかった。ただ、ソファに座り、窓の外の街灯を見つめながら、秦昊が来るのを待っていた。

午後八時ちょうど、玄関のチャイムが鳴った。夏知雪は息を深く吸い込み、立ち上がった。ドアの前に立つと、一呼吸おいてから、ゆっくりと扉を開けた。

そこには、緊張した面持ちの秦昊が立っていた。彼は普段のラフな服装ではなく、少し襟の整ったシャツを着ていた。髪もきちんと整えてある。その姿に、夏知雪は少しだけ微笑んだ。

「いらっしゃい」

彼女はできるだけ落ち着いた声で言い、彼を中へ招き入れた。秦昊はおずおずと玄関をくぐり、室内を見回した。部屋はシンプルでありながら、洗練されたインテリアが調和していた。ソファ、本棚、そして大きな机にはたくさんの本が積まれていた。

「座ってくれ」

夏知雪は彼をリビングのソファに案内した。秦昊はおとなしく座ったが、その目は不安げに部屋の中を彷徨っていた。夏知雪はキッチンに向かい、二杯の紅茶を入れた。彼女はトレイにカップを乗せ、ソファの前に置いた。

「さて…」

彼女は向かいのソファに座り、秦昊を見つめた。二人の間に沈黙が流れた。時計の音だけが、規則正しく刻まれていた。

「僕が…何を話せばいいのか…」

秦昊が最初に口を開いた。彼の声は、緊張で震えていた。

「何も話す必要はない」

夏知雪は静かに言った。彼女は立ち上がり、秦昊の前に立った。彼は彼女を見上げた。その目には、期待と不安が混ざり合っていた。

「ただ…私の目を見てくれ」

夏知雪は彼の目を見つめた。その瞳は深く、何かを語りかけているようだった。秦昊はその目に吸い込まれるように、じっと彼女を見返した。

「君がノートに描いた絵…あれは、君の心の中を表しているんだな」

彼女の声は優しかった。秦昊はゆっくりと頷いた。

「先生は…あの絵が嫌いですか?」

秦昊の問いかけに、夏知雪は微笑んだ。それは、どこか悲しげな微笑みだった。

「いや、嫌いではない…むしろ、理解できる」

彼女はそう言うと、自分の部屋へと歩いていった。しばらくして、戻ってきた彼女の手には、一本の麻縄が握られていた。秦昊はそれを見て、息を呑んだ。

「これ…」

「これは、私が何年も前から持っているものだ」

夏知雪は縄をテーブルの上に置いた。彼女の手は震えていたが、その目はしっかりと秦昊を見つめていた。

「私も…君と同じだ」

その言葉は、彼女の口から自然に溢れ出た。秦昊は目を見開いた。信じられないという表情で、彼女を見つめた。

「先生…」

「でも、私は教授だ。こんなことを口にするのは恥ずかしいと思ってきた。しかし、君の絵を見て…自分を抑えきれなくなった」

彼女の声は震えていた。しかし、その瞳は真摯だった。

「今夜、君をここに呼んだのは…私の本当の姿を見せたかったからだ」

夏知雪はそう言うと、椅子に座った秦昊の前に跪いた。その行動に、秦昊は一瞬して何が起こったのか理解できなかった。

「先生!何を…」

「黙っててくれ」

夏知雪は彼のズボンの裾を掴み、顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。

「私は…君に縛られたいんだ」

その言葉は、部屋の中に響き渡った。秦昊は一瞬、言葉を失った。そして、ゆっくりと膝をつき、彼女の顔を両手で包んだ。

「僕も先生を…縛りたい」

秦昊の声は低く、熱を帯びていた。彼はテーブルの上の麻縄を手に取り、その感触を確かめた。

「でも…本当にいいんですか?後悔はしない?」

秦昊の問いかけに、夏知雪は涙を拭いながら、力強く頷いた。

「私は…もう後悔しない」

彼女の返事を聞いた秦昊は、ゆっくりと立ち上がった。そして、夏知雪の手を取り、彼女を立たせた。二人は見つめ合い、言葉のない約束を交わした。

「それでは…始めよう」

秦昊がそう言うと、夏知雪は微笑んだ。その表情には、苦しみと安堵が入り混じっていた。彼女はゆっくりと目を閉じた。

「ここで、縛るんですか?」

秦昊は彼女の耳元でささやくように言った。

「はい…ここで、あなたの好きなように」

夏知雪の声は、震えながらも確かな意思を感じさせた。秦昊は彼女の細い手首を掴み、縄を巻き始めた。

「痛くないですか?」

「大丈夫です…」

彼女の声は、少しだけ高く震えていた。秦昊はゆっくりと、丁寧に縄を巻いていった。彼の手つきは、初めてとは思えないほど確かだった。それは、長い間描き続けてきた想像の産物だった。

部屋の中は、二人の息遣いだけが聞こえていた。縄が肌に触れる音、それが絡まっていく音。その一つ一つが、二人の間にある緊張感を高めていった。

そして、秦昊は最後の縄を締めた。夏知雪の両手は背中で縛られ、彼女の身体は自由を奪われていた。しかし、その目はどこか安らかだった。

「ありがとう…」

彼女の声は、感謝に満ちていた。秦昊は彼女の髪をそっと撫でた。

先生が…こんな形で自分をさらけ出すなんて…」

秦昊の言葉に、夏知雪は微笑んだ。

「私も…思わなかった。でも、これでよかったんだ」

彼女はゆっくりと床に座り込んだ。秦昊もその隣に座り、彼女の肩を抱いた。

「今夜は、ここでこうして…一緒にいよう」

秦昊の提案に、夏知雪は静かに頷いた。二人はそのまま、言葉のない時間を過ごした。縄は彼女の身体を優しく拘束し、秦昊は彼女を見守っていた。

その夜が明けるまで、二人は互いの存在を確かめ合うように、ただ静かに寄り添っていた。そして、新しい朝が訪れる頃、夏知雪の心には一つの決意が芽生えていた。それは、もう二度と自分を偽らないということ。そして、秦昊という青年と共に、自分の中の欲望と向き合っていくということだった。

秦昊もまた、夏知雪の変化を感じ取っていた。彼は彼女の目を見つめ、静かに言った。

「先生…これからも、よろしくお願いします」

その言葉に、夏知雪は涙を浮かべながらも、力強く頷いた。縄は解かれ、二人の間には新たな絆が生まれていた。それは、教師と生徒の枠を超えた、独特な信頼関係だった。

窓の外からは、朝の光が差し込んでいた。新しい一日が始まろうとしていた。しかし、二人にとっては、新しい人生の始まりでもあった。

夏知雪は自分の腕に残る縄の跡を撫でながら、これは決して消えることのない記憶になるだろうと思った。そして、秦昊という青年が、自分にとって特別な存在になることを確信していた。

秦昊は彼女の部屋を出る時、振り返って言った。

「次は…いつ来てもいいですか?」

その問いかけに、夏知雪は優しく微笑みながら答えた。

「いつでも…待っている」

彼女のその言葉は、これからの関係を約束するものだった。秦昊は満足げに頷き、静かにドアを閉めた。廊下に出ると、彼は深く息を吸い込んだ。そして、手に持った麻縄の感触を確かめながら、一つの確信を持った。

「僕は…これから先、先生と共に歩んでいくんだ」

その思いが、彼の胸に強く刻まれていた。

数日後、大学の廊下で二人はすれ違った。夏知雪は普段通りの厳格な教授の顔で秦昊に会釈をした。しかし、その目は一瞬だけ、特別な輝きを放っていた。秦昊もまた、同じように会釈を返した。

その瞬間、二人の間には言葉にはできない絆が流れていた。それは、この先どんな困難があっても揺るがない、強固な信頼関係の始まりだった。

夏知雪は教授室に戻ると、机の引き出しから日記帳を取り出した。そして、新しいページにこう書き記した。

「今日、私は自分自身を見つけた。それは、想像以上の幸福だった。秦昊くんと共に歩む道を選んだことで、私はもう一人じゃない。これからも、この関係を大切に育てていこう…」

彼女はその日記を閉じ、窓の外を見つめた。空は青く澄み渡っていた。それは、新しい人生の始まりを象徴しているかのようだった。

秦昊もまた、寮の部屋でスケッチブックに向かっていた。彼は今日の日の光景を描き留めていた。縄に縛られている女性の美しさ。しかし、その中心にあるのは、自由を得た魂の輝きだった。

「これでいいんだ」

彼はそう呟きながら、新たな一枚を描き始めた。描かれているのは、自由な空を飛ぶ鳥の群れ。そして、その底には、縄が置かれていた。それは、束縛と解放の両方が描かれた、一つの象徴的な絵だった。

その夜、二人は再び夏知雪の部屋で会った。今度は、互いに何のためらいもなく、自分の欲望を認め合った。秦昊が縄を手に取ると、夏知雪は微笑みながら、自ら身体を差し出した。

「今夜は…もっと激しく縛ってほしい」

彼女のその願いに、秦昊は力強く頷いた。縄が彼女の身体を複雑に絡め取っていく。苦しみと快感が入り混じった彼女の表情に、秦昊は深い満足感を覚えた。

「私…あなたに縛られるのが、本当に好きなんだ」

夏知雪の声は、もう震えていなかった。それは、確かな意思に裏打ちされた告白だった。

「僕も…先生を縛るのが、大好きです」

秦昊はそう言いながら、彼女の髪を撫でた。二人の間には、言葉にできない感情が溢れていた。

その夜が終わる頃、二人は再び一つの決意を固めていた。それは、この関係を隠し続けるのではなく、いつかは公にしていくという決意だった。しかし、今はまだ時ではない。互いの立場を守りながら、ゆっくりと進んでいくことが重要だった。

「先生…これからも、よろしくお願いします」

秦昊がそう言うと、夏知雪は微笑みながら答えた。

「こちらこそ…秦昊くん」

その言葉に、二人は静かに笑い合った。窓の外からは、夜明けの光が差し込んでいた。新しい一日が始まる。それは、二人にとって新たな一歩を踏み出す日でもあった。

後日、それがどのような形になるのか、二人はまだ知らなかった。しかし、少なくとも今は、互いの存在が大きな支えになっていた。夏知雪は自分のオフィスで、秦昊は自分の描いた絵を眺めながら、それぞれが新しい道を歩み始めていた。

それは、ただの教授と学生の関係を超えた、深い絆で結ばれた二人の物語の始まりだった。この先に待っているものが何であれ、二人は共に歩んでいくことを選んだ。

夏知雪は日記にこう書き加えた。

「私はもう、自分を偽らない。この選択が、正しかったかどうかはわからない。でも、少なくとも今は、心から幸せだと思う」

秦昊のスケッチブックには、新しい絵が一ページ加えられていた。そこには、縛られている女性の顔が、優しい微笑みを浮かべていた。

二人の夜が、これからも続いていくことを示すかのように。

夜の家庭訪問

# 第八章 夜の家庭訪問

夜の帳が完全に下りた街を、秦昊は自転車で走っていた。九月の終わりとはいえ、まだ残暑の名残が昼間はあるが、夜になると急に冷え込む。彼は薄手のパーカーの上にウインドブレーカーを羽織り、ポケットには昼間に夏知雪からもらったメモ用紙が折りたたんで入っている。

「夜、家に来なさい」

その一言だけが、簡潔に、しかし確かな意志を込めて書かれていた。住所は大学の近くの高級マンション。秦昊はその住所をスマートフォンのマップアプリに入力し、自転車のペダルを漕ぎながら、なぜか心臓が高鳴っているのを感じていた。

昼間のあの出来事——夏知雪の腿を縛った感触が、指先にまだ残っているような気がする。彼女の白くしなやかな肌に食い込む麻縄の感触、そして彼女の口から漏れたあの甘い吐息。秦昊は自転車を漕ぎながら、思わず唇を噛んだ。

どうして自分がこんなことになっているのか、自分でもよくわからない。ただの内向的で絵を描くことが好きな大学一年生だったはずなのに、なぜ教授の—しかもあの厳格で知られる夏知雪教授の—家に呼ばれているのか。

マンションは大学の正門から徒歩十分ほどの場所にあった。白を基調としたモダンな外観で、エントランスにはオートロックとコンシェルジュがいる。秦昊は自転車を駐輪場に止め、インターホンを押した。

「はい」

スピーカーから聞こえてきた声は、昼間と同じ涼やかで知的な響きを持っていた。しかしどこか、昼間とは違う柔らかさも含まれているような気がする。

「あ、先生。秦昊です」

「ああ、上がって。部屋番号は802よ」

オートロックの電子音が鳴り、秦昊は重厚なガラスのドアを押し開けた。エレベーターに乗り、8階のボタンを押す。鏡に映る自分の顔は、少し強張っている。彼は深呼吸をして、髪の毛を整え直した。

エレベーターのドアが開き、廊下を歩く。壁には間接照明が柔らかく灯り、高級感のある雰囲気を醸し出している。802号室の前で立ち止まり、秦昊はもう一度深呼吸をしてから、チャイムを鳴らした。

「先生、秦昊です」

扉の向こうから、軽やかな声が返ってくる。

「はーい、今開けるわね」

しばらくして、スリッパと木の床が擦れるサラサラという音が聞こえてくる。そして、ドアが内側に開かれた。

秦昊は、その場で固まってしまった。

目の前に立っていたのは、間違いなく夏知雪だった。しかし、その姿は学校で見る彼女とは全くの別物だった。彼女は胸元が大きく開いた薄手の白いシャツを着ており、下着をつけていないことが透けて見える。シャツの裾は短く、かろうじてお尻を覆う程度の丈で、その下からは白くしなやかな太ももが露わになっている。足元は素足にスリッパを履いているだけで、履いていなかった。

「……あの…」

秦昊は言葉を失った。目をどこにやっていいのかわからない。視線が泳ぎ、結局彼女の顔に固定するしかなかった。

夏知雪はそんな彼の様子を見て、口元に笑みを浮かべた。普段の授業中の厳格な表情はどこにもなく、そこには大人の色香を漂わせる艶やかな女性が立っている。

「何ぼんやりしてるの?早く入って」

彼女はからかうような口調で言い、秦昊を家の中に招き入れた。玄関には、予め用意してあったらしいスリッパが置いてある。秦昊は靴を脱ぎ、言われるままにスリッパに履き替えた。

「荷物はそこに置いていいわよ」

夏知雪はそう言いながら、リビングへと歩いていく。その後ろ姿を見て、秦昊は再び息を飲んだ。彼女の歩くたびに、短いシャツの裾がひらひらと揺れ、白い太ももがちらりと見える。彼女の脚は長く、そして驚くほど形が良い。ヨガをしているという話は聞いていたが、その美貌はまさにプロポーションの賜物だった。

「どうしたの?早くおいで」

振り返って夏知雪が言う。秦昊は慌てて視線をそらし、リビングへと足を踏み入れた。

部屋の中は、彼女のイメージ通りの清潔で整然とした空間だった。白とアイボリーを基調としたインテリアで、大きな窓からは街の夜景が見える。ソファはふかふかのクリーム色のものがあり、その前にローテーブルが置かれている。壁には抽象画が飾られ、本棚には数学の専門書がびっしりと並んでいた。

「座ってて。今準備するから」

夏知雪はそう言うと、キッチンへと消えていった。秦昊はソファに腰掛け、キッチンの方を見る。オープンキッチンになっていて、夏知雪がエプロンを着ける姿が見える。彼女は冷蔵庫から次々と料理を取り出し、電子レンジで温め始めた。

「先生、お手伝いしましょうか?」

秦昊が声をかけると、夏知雪は振り返って微笑んだ。

「いいえ、もうほとんどできてるから。あなたは座ってて」

そう言って彼女は、温めた料理を次々とテーブルに並べていく。麻婆豆腐、エビチリ、青菜の炒め物、そして中華スープ。どれも家庭料理だが、プロが作ったように彩りが美しい。

「すごい…先生、料理されるんですね」

秦昊が感嘆の声を漏らすと、夏知雪は軽く笑った。

「一人暮らし長いからね。食べることは大事よ」

彼女はそう言いながら、食器棚からグラスを取り出した。そして、秦昊に向かって問いかける。

「酒は飲める?」

「え?あ…はい、少しなら」

秦昊が答えると、夏知雪は満足げに頷き、戸棚から赤ワインのボトルを取り出した。ラベルを見ると、かなり高級そうな銘柄だ。彼女は手際よくデキャンタにワインを注ぎ、しばらく空気に触れさせる。

「今夜は特別よ。あなたと、ちゃんと話がしたいから」

夏知雪はそう言って、デキャンタとグラスをテーブルに運んだ。そして秦昊の向かい側に座り、グラスにワインを注ぐ。深いルビー色の液体が、グラスの中で揺れた。

「乾杯しましょう」

彼女がグラスを掲げる。秦昊もそれに倣い、静かにグラスを合わせた。

「今夜は、こうして来てくれてありがとう」

「いえ…こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」

秦昊がそう言うと、夏知雪は微笑みながらワインを一口含んだ。秦昊も同じように口をつける。渋みと甘みが絶妙に調和した、芳醇な味わいが口の中に広がった。

「いただきます」

二人は箸を取り、料理を食べ始めた。麻婆豆腐は程よい辛さで、肉と豆腐の旨味が凝縮されている。エビチリはプリプリの食感が絶品で、甘酢あんが絶妙に絡んでいた。

「美味しい…本当に美味しいです、先生」

秦昊が思わず本音を漏らす。夏知雪は嬉しそうに目を細めた。

「それは良かった。作り甲斐があるわね」

彼女はそう言いながら、自分の料理にも箸をつける。二人はしばらく無言で食事を楽しんだ。しかし、その沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ心地よいものだった。

秦昊は、改めて夏知雪の顔を見た。学校で見る彼女はいつもきっちりとメイクをしているが、今夜はすっぴんに近い自然な化粧だ。それでも肌は白く艶やかで、目元ははっきりとしている。髪は後ろで一つに結んでいるだけだが、それすらも彼女の魅力を引き立てているように思えた。

「何見てるの?」

突然、夏知雪が顔を上げて言った。秦昊は慌てて視線をそらす。

「い、いえ…その、先生が今日はいつもと違うなと思って」

「違う?」

「はい…学校ではもっとこう、厳しいというか、近寄りがたい雰囲気があるというか…」

秦昊が正直に言うと、夏知雪はくすくすと笑った。

「そうね。学校では教師だから、ちゃんとしなきゃいけないものね。でも、家ではただの女よ」

彼女のその言葉に、秦昊の心臓がドキリと跳ねた。ただの女——その言葉が、彼の中で何かを呼び覚ます。

「秦昊は、どうして数学科に入ったの?」

夏知雪が話題を変えるように尋ねた。秦昊は少し考えてから答える。

「もともと絵を描くのが好きで、美術系に進もうかと思ったこともあったんですけど…親に反対されて。で、数学は割と得意だったので、なんとなくこの学科に」

「なんとなく、ね」

夏知雪は微笑みながら、ワインをもう一口含む。

「でも、絵を描くのは今も続けてるんでしょ?」

「はい。趣味でやってます」

「どんな絵を描くの?」

「そうですね…人物画が多いです。特に、女性の背中とか、手のラインとか…そういう細かいところを描くのが好きで」

秦昊がそう言うと、夏知雪の目が一瞬、鋭く光ったように見えた。

「じゃあ、今度私も描いてもらおうかしら」

「え?」

秦昊は思わず声を漏らした。夏知雪はからかうような口調で続ける。

「冗談よ。でも、もし機会があればね」

彼女はそう言って、再び料理に箸を伸ばす。秦昊は自分が今、顔を赤らめているのがわかった。彼女の冗談が、ただの冗談ではないような気がしてならなかった。

食事が進むにつれ、話題は自然と広がっていく。秦昊の出身地や趣味、大学での生活について。夏知雪も自分の学生時代の話や、研究の話、そしてなぜ数学者になったのかという話をしてくれた。

「私はね、小さい頃から数字が好きだったの。数字は嘘をつかないから」

夏知雪はそう言って、寂しげな笑みを浮かべた。

「でも、大人になるとわかるのは、数字だって人の解釈次第でどうにでもなるってこと。同じ数字でも、見る人によって意味が変わる」

「先生は、何かそういう経験を?」

秦昊が尋ねると、夏知雪は一瞬口を閉ざした。そして、ゆっくりとワインを飲み干してから、話し始めた。

「昔ね、ある人に数学を教わったことがあるの。その人は私の師匠で、とても厳しい人だった。でも、数字に対する愛情は誰よりも深くて…その人からたくさんのことを学んだわ」

「その人は、今は?」

「もうこの世界にはいない」

夏知雪の声が、わずかに震えた。秦昊はそれ以上追求するのをやめた。彼女が今、自分に心を開いて話してくれている。そのことを素直に受け止めるべきだと思った。

「すみません、変なことを聞いてしまって」

「いいえ、気にしないで」

夏知雪はそう言って、立ち上がった。

「デザートを用意するわ。ちょっと待ってて」

彼女がキッチンに向かう。秦昊はその後ろ姿を見ながら、再び彼女の白い太ももが目に入ってしまった。彼は慌てて視線をそらし、代わりに部屋の中を見渡した。

本棚には数学の専門書の他に、哲学書や心理学の本も並んでいる。中にはSMに関する本も混ざっているように見えた。秦昊は思わず目を凝らすが、はっきりとは確認できない。

「はい、どうぞ」

夏知雪が戻ってきて、テーブルに小さな皿を置いた。そこには、手作りのティラミスがのっている。ココアパウダーがふりかけられた、見た目も美しいデザートだ。

「先生、こんなこともできるんですね」

秦昊が感心して言うと、夏知雪は得意げに微笑んだ。

「趣味の一つよ。ストレス解消になるし」

彼女は秦昊の向かいに座り、自分の分のティラミスもテーブルに置いた。そして、スプーンを手に取り、一口すくって口に運ぶ。

秦昊も同じように食べてみる。口の中でとろけるような甘さと、コーヒーのほろ苦さが絶妙に調和していた。

「美味しい…」

「そう?それは良かった」

夏知雪は満足げに頷き、ワインの残りをグラスに注ぎ足した。そして、秦昊を見つめて言う。

「ねえ、秦昊。あの時——昼間の時、どう思った?」

秦昊は一瞬戸惑った。昼間のこと——つまり、数学科の資料室で、彼女の腿を縛ったあの瞬間のことだ。

「どう…とは…」

「感じたことを、正直に話してほしい」

夏知雪の目が、真剣なものに変わった。秦昊はワインの力を借りて、緊張を和らげようとしたが、逆効果だった。心臓が激しく打ち始める。

「…正直に言うと、すごく緊張しました」

「緊張?なぜ?」

「だって…先生は教師で、僕は学生で…それに、あんなこと…」

秦昊は言葉を濁した。夏知雪は軽く笑った。

「あんなこと、ね。縛られるのが気持ち良かった?」

直接的な質問に、秦昊の顔が一気に赤くなった。

「そ、それは…」

「いいのよ、隠さなくても。ちゃんと見てたから、あなたの反応」

夏知雪はそう言って、スプーンでティラミスを弄びながら続ける。

「あなたの手が震えてた。でも、それ以上に——目が、燃えてたわ。まるで、何かを発見したような目だった」

秦昊は言葉を失った。彼女の言う通りだった。あの時、彼は確かに——自分の中で何かが目覚めるのを感じた。女性の体を縛るという行為に、強く惹かれている自分がいた。

「先生は…どうなんですか?」

秦昊が勇気を振り絞って尋ねる。

「縛られるのが…好きなんですか?」

夏知雪は一瞬、驚いたような表情を見せた。しかしすぐに、その表情は深い微笑みに変わった。

「そうね…好き、と言っていいのかしら。ただ、自分でも説明できない欲求があるの。自分を誰かに委ねたい。相手の思うままに操られたい。そういう、言葉にできない欲望が」

彼女の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。

「でも、それを理解してくれる人はなかなかいない。軽蔑する人もいるし、ただの変態扱いする人もいる。だから、私はそれをずっと自分の中に隠してきた」

「じゃあ、何で僕に…?」

秦昊の質問に、夏知雪は真っ直ぐに彼の目を見つめた。

「あなたが、初めてだったから。私の前で、あんなに真剣に縄を扱った人は。あなたの目には、好奇心と同時に、敬意があった。相手を傷つけるのではなく、美しく縛り上げたいという想いが、感じられたの」

秦昊は息を飲んだ。彼女の言葉が、自分の心の奥底に響いてくる。

「それに…あなたの手の感覚が、すごく優しかった。荒々しくなく、繊細で、でも確かな力で縛り上げる。そのギャップに、私の心が震えたの」

夏知雪はそう言いながら、自分の腕を撫でるように触れた。その仕草は、まるで縄の感触を思い出しているかのようだった。

「だから、今夜あなたを呼んだ。もっと話がしたかった。あなたのことを、もっと知りたかった」

秦昊の心臓が、ドクドクと激しく打っている。彼女の言葉の一つ一つが、自分の中の何かを刺激する。

「先生…僕も、もっと知りたいです。先生のこと。そして…自分の中に芽生えたこの感覚を」

秦昊がそう言うと、夏知雪の目が優しく細められた。

「ありがとう、秦昊。そう言ってくれて、嬉しいわ」

彼女は立ち上がり、秦昊の隣に座った。距離が急に縮まり、秦昊は彼女の体温を感じる。彼女の髪から漂う甘い香りが、彼の思考を惑わせる。

「もう一杯、どう?」

夏知雪がワインのボトルを手に取り、秦昊のグラスに注ぐ。彼女の手が、秦昊の手に触れた。その一瞬の接触が、電気のように彼の全身を駆け巡った。

「先生…」

秦昊の声が震えている。夏知雪は彼の顔を覗き込み、そっと耳元で囁いた。

「雪って呼んでいいわよ。二人きりの時は」

その言葉に、秦昊の理性が崩れ落ちる音がした。