# 第一章:犬を飼うことで争う
六月の夕暮れ、マンションの三階にあるリビングに、開け放した窓から生暖かい風が流れ込んでいた。林静はキッチンで夕食の支度をしながら、玄関の鍵が開く音を聞いた。息子の林浩が帰ってきたのだ。
「お母さん、すごいニュースがあるんだ!」
林浩はランドセルも置かずに、真っ直ぐキッチンに飛び込んできた。その瞳は異様に輝いていて、頬には興奮の赤みが差している。十八歳の大学生とはいえ、彼が本当に何かを欲しがるときの表情は、幼い頃と何も変わらなかった。
「何? そんなに慌てて。手を洗いなさい、ご飯ができるから」
林静はフライパンの中の野菜炒めを手早く混ぜながら、息子の興奮をいなそうとした。しかし林浩は彼女の腕を掴み、包丁を持った手を止めさせた。
「聞いてよ、お母さん。犬を飼いたいんだ!」
その一言で、林静の手が止まった。彼女はゆっくりと火を消し、振り返って息子の顔を見た。林浩の目は真剣そのものだった。
「またそんなことを言い出して」
「またじゃないよ! 今度は本気なんだ。友達の家で子犬が生まれてね、一匹もらえることになったんだ。もうずっと考えてたんだ、犬を飼うことについて」
林浩の声は熱を帯びていた。彼はスマートフォンを取り出し、子犬の写真を見せようとした。しかし林静は手を振ってそれを遮った。
「だめよ、林浩。犬を飼うのはそんなに簡単なことじゃない」
「わかってるよ! 散歩もするし、餌もやるし、しつけだってちゃんとする。俺だってもう大人だ」
「大人だからこそ、自分の行動に責任を持たなきゃいけないのよ。あなたは今、大学で忙しいじゃない。アルバイトも始めたばかりでしょ」
林静の声は冷静だった。彼女はフライパンをシンクに置き、エプロンをぬぐいながらリビングに移動した。林浩も後を追う。
「アルバイトだって週に二回だけだし、時間は十分にあるよ。それに、犬を飼うってずっと夢だったんだ」
「夢と現実は違うの。犬を飼うってことは、十年近く面倒を見ることになるのよ。朝の散歩、夜の散歩、餌やり、病院代、しつけ教室……全部、あなた一人でできるの?」
「できる!」
林浩は拳を握りしめて叫んだ。その剣幕に、林静は思わず一歩後退した。
「お母さんはいつもそうだ。俺のやりたいことを全部否定する。子供の頃からずっとそうだ!」
「私はあなたを心配しているだけよ」
「心配? 違うよ、支配したいだけだ。俺の人生を、自分の思い通りにしたいだけなんだ!」
林浩の声が震えていた。彼の目には涙が光り始めている。林静は唇を噛みしめ、ソファの端にゆっくりと腰を下ろした。
「林浩、落ち着いて話そう」
「落ち着いてなんて話せるか! もう決めたんだ。来週、子犬を迎えに行く。お母さんが反対しても、俺はやる」
「無責任なことはやめなさい!」
林静の声が思わず大きくなった。彼女は立ち上がり、息子の前に立ちはだかった。
「あなたはいつもそうだ。何かを始めるのは簡単だと思っている。でも、生き物を飼うってことは、命を預かるってことなんだよ。あなたはまだ、その重みがわかっていない」
「わかってる! わかってるって言ってるだろ!」
林浩はリビングのテーブルを拳で叩いた。コップが倒れ、水がテーブルクロスに染みを作る。部屋の中に、嫌な沈黙が流れた。
林静は深く息を吸い込み、倒れたコップを起こした。彼女の手は微かに震えていた。四十歳になっても、息子と本気でぶつかるときのこの感情の高ぶりには慣れなかった。
「林浩、お母さんはね……」
「もういい! どうせまた説教されるだけだ。俺の気持ちなんて、全然わかってくれないんだから!」
林浩は振り返ると、自室のドアを乱暴に閉めた。バタンという大きな音が、マンションの壁に反響する。
残された林静は、リビングの真ん中に立っていた。窓から入る風が、カーテンを揺らす。夕日が沈みかけ、部屋の色が徐々に暗くなっていった。
彼女はソファに崩れるように座り込み、両手で顔を覆った。頭の中には、息子の怒った顔と、子犬の写真が交錯する。どうしてここまでこじれてしまったのだろう。育て方を間違えたのだろうか。
いや、そうじゃない。林静は顔を上げた。彼女は自分の信念を曲げるわけにはいかなかった。林浩はまだ、責任というものを本当には理解していない。大学生になって少し自由を得たことで、何でも自分の思い通りになると思い始めている。
しかし、このまま対立を続ければ、息子との関係はさらに悪化するだろう。林静は天井を見上げた。白い漆喰の天井には、ひび割れが一本走っている。以前から気になっていたのに、修理する時間がなかった。
「どうしたら……いいんだろう」
彼女は小さく呟いた。答えは誰も教えてくれない。キッチンからは、さっきまで炒めていた野菜の焦げた匂いが漂ってきていた。今夜の食事は、もう食べる気にはなれそうになかった。
林静は立ち上がり、暗くなった窓の外を見た。街灯がぽつぽつと灯り始めている。隣の部屋からは、テレビの音が漏れてきている。普通の家庭の、普通の夜。ただ自分たち親子だけが、見えない溝の上で揺れているような気がした。
彼女は深くため息をつき、林浩の部屋のドアを見つめた。あの向こうにいる息子は、今何を考えているのだろう。恨んでいるのだろうか。それとも、自分の部屋の中でもまだ怒りに震えているのだろうか。
何かを変えなければならない。しかし、どう変えればいいのか、林静には全くわからなかった。ただ胸の奥で、何かが少しずつ軋むような痛みを感じていた。それは、母親としての苦しみだった。愛するがゆえに、突き放さなければならないという矛盾が、彼女の心を締め付けていた。