# 錯位の身体
## 第1章 魂の入れ替わり
意識が浮上する。沈清雪は重い瞼を開けた。視界に映るのは、見慣れた天蓋付きベッドの白いレースではない。錆びた鉄格子と、薄暗い灯りの下で蠢く無数の影だった。
耳障りな喧騒が鼓膜を打つ。男たちの下卑た笑い声、金属の擦れる音、そしてどこかから聞こえる女の啜り泣き。
「……ここは?」
掠れた声が唇から漏れる。それは自分自身の声音ではない。もっと低く、翳りのある、どこか甘やかな響きを帯びた声だった。
恐怖が一気に背筋を駆け上がる。沈清雪は跳ねるように起き上がろうとして、手足を拘束する冷たい金属の感触に息を呑んだ。
首筋に、手首に、足首に——錆びた鉄の枷が嵌められている。
「何……これ……」
震える手を持ち上げる。そこにあるのは、かつて自分が誇った白玉のような繊細な指ではない。節くれ立ち、幾重もの傷跡が走る荒れた手だ。爪は短く切り揃えられ、その周囲には固まった汚れがこびりついている。
心臓が激しく打ち鳴らされる。嘘だ。これは夢だ。そう思い込みたいのに、鉄格子の向こうから漂う排泄物と汗と血の混じった悪臭が、あまりにも現実的だった。
沈清雪——いや、今やこの体の主である彼女は、震える指で自分の顔を撫でた。頬骨の位置が違う。鼻筋の通りが違う。唇の感触さえ、全くの別物だ。
そして——胸元に触れたとき、彼女の指は異物にぶつかった。
「……なに……これ……」
薄汚れた布の下、左胸の頂点に冷たく硬い金属の輪が嵌められている。乳輪を貫通するように通されたリング。触れるたびに鈍い痛みが走る。
さらに指を滑らせると、皮膚の下に盛り上がった文字の跡があった。焼き印だ。左の乳房の下に、二つの漢字が刻印されている。
「……隷属……」
声にならない悲鳴が喉の奥で潰える。
鎖骨の下には、淫らな文様の刺青が這っている。蛇が絡みつくように、淫靡な蔓草が巻き付くように、肌の上に青黒く刻まれたその図柄は、この体が——この女が——所有物であることを喧伝していた。
「違う……違う……私は沈清雪よ……沈氏グループの令嬢で……顧霆琛の婚約者で……」
自分に言い聞かせるように呟く。しかし、その声は誰の耳にも届かない。いや、届いたとしても、それはただの奴隷の女が何か叫んでいるだけに過ぎない。
記憶が断片的に蘇る。昨夜——確かに昨夜は自室で眠りについたはずだ。あの広いベッドで、シルクのシーツに包まれて。その後の記憶はない。気がつけば、この地獄だ。
「まさか……魂が……入れ替わった……?」
荒唐無稽だ。しかし、現実を前にして、それ以外の説明が思いつかない。
この体が誰のものか——彼女には見当がついていた。奴隷市場で時折見かける、あの女だ。名を蘇媚という。最も卑しい身分の性奴隷だ。数週間前、華やかなパーティーの帰り道、彼女は一度だけその女奴隷と目が合ったことがある。鉄格子の向こうで、濁った瞳がじっと自分を見つめていた。その時のことを、今思い出した。
「あの女に……私の体が……」
全身の血が逆流する感覚。吐き気がこみ上げる。
枷が擦れて手首が痛む。この体のあちこちには古い傷跡が刻まれている。鞭で打たれた痕、刃物で切られた痕、煙草の火を押し付けられた痕。この女——蘇媚は、どれだけの虐待を受けてきたのか。
「助けて……誰か……私をここから出して……」
声は鉄格子に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。いや、届いたとしても、奴隷の女が泣き叫ぶ声など、誰も気にしないのだ。
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同じ時刻。
沈家の大邸宅、三階の主寝室。
重厚なカーテンの隙間から、朝日が斜めに差し込む。すべてが上等なもので飾られたその部屋で、女はゆっくりと目を開けた。
最初は何が起きたのか理解できなかった。しかし、目の前に広がる天井のクリスタルシャンデリア、身体の下で感じるシルクのシーツの滑らかな感触——それらは、自分がこれまで一瞬たりとも味わったことのない贅沢だった。
「……ここは……?」
声が違う。清らかで、気高く、少し冷たく響く。女——蘇媚は、自分の喉から出た音色に驚いた。
彼女は恐る恐る両手を持ち上げた。白く、細く、形の良い指。手入れの行き届いた爪には上品なパールピンクのマニキュアが施されている。この手は——奴隷の女のものではない。
「まさか……本当に……?」
蘇媚の顔に、ゆっくりと表情が広がっていく。それは驚愕ではなく、歓喜だった。
彼女は跳ね起きると、ベッドの脇にある姿見の前に駆け寄った。
鏡の中に映るのは、絶世の美女だった。絹のような黒髪、雪のように白い肌、楚々として立つ気高い姿。その冷たく美しい面差しは、まさにあの沈清雪そのもの。
「は……はは……」
最初は小さな笑い声だった。やがてそれは、抑えきれない哄笑へと変わる。
「なった……なったんだわ……私が……あの沈清雪になった!」
蘇媚は自分の顔を撫で、腕を撫で、胸を揉むように触る。そのすべてが、自分が求めていたものだ。あの奴隷市場で、鉄格子の向こうにいる高貴な人々を見上げるたびに、彼女は思っていた。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。なぜあの女たちは何不自由なく生きているのかと。
「これで終わりだ……あの地獄は終わりだ……」
蘇媚はベッドルームを見渡す。広さだけでも二十畳はあろうかという空間には、アンティークのドレッサー、クローゼット、そして大きなベッド。壁には高価そうな絵画が掛けられ、床にはペルシャ絨毯が敷かれている。
「これが……私の部屋……私の家……」
ドアの向こうから、ノックの音が聞こえた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?朝食の準備ができておりますが」
メイドの声だ。尊大な態度は微塵もなく、慎ましやかで従順な口調。
蘇媚は一瞬、背筋を伸ばした。奴隷としての習慣が、誰かに仕える立場になることを予想させる。しかし、今の自分は違う。今の自分こそが、仕えられる側の人間なのだ。
「……入って」
できるだけ落ち着いた声を出すために、彼女は努力した。声が少し震えていたが、メイドは気づかなかったようだ。
ドアが開き、二人のメイドがトレイを持って入ってくる。銀製の皿には湯気を立てるオムレツと、焼きたてのクロワッサン、そしてフルーツの盛り合わせ。その香りに、蘇媚の胃が小さく鳴った。奴隷の食事はいつもパンくずか粥だけだった。こんな朝食は、夢の中だけのものだ。
「お嬢様?どうかなさいましたか?」
メイドの一人が、首をかしげて尋ねる。
「……なんでもない。置いておいて」
蘇媚は優雅に——優雅に振る舞おうと努力しながら——ベッドに腰掛けた。この体の動かし方がまだわからない。だが、すぐに慣れる。自分はもう奴隷ではないのだから。
「あ、それからお嬢様。本日、顧様がお見えになるご予定ですが」
「顧様?」
「はい。顧霆琛様です。お忘れですか?お嬢様の婚約者でございます」
蘇媚の心臓が大きく跳ねた。顧霆琛。あの大手企業グループのトップで、冷酷非情なビジネスマンとして名高い男だ。奴隷市場でも彼の噂は聞いたことがある。
「……わかった。準備をして待つわ」
メイドたちが部屋を出ていくのを見送りながら、蘇媚は鏡の中の自分を見つめた。
「顧霆琛……そう、あなたの婚約者……いや、今や私の婚約者だ」
彼女の唇に、蠱惑的な笑みが浮かぶ。この高貴な体を手に入れた以上、権力も金も——すべてが自分のものになる。あの冷徹な社長ですら、この美貌の前では無力だろう。
もっとも、蘇媚はまだ知らなかった。顧霆琛という男が、どれほど危険な存在であるかを。
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奴隷市場の檻の中で、沈清雪は冷たい金属の床に蹲っていた。
彼女の体を覆うのは、薄汚れた一枚の布だけ。そこには「売却済・性奴隷」という文字が墨で書かれていた。
「おい、起きろ」
乱暴な声と共に、鉄格子がガチャリと開く。顔を上げると、醜悪な顔の奴隷商人が立っていた。
「今日からお前は『極楽楼』行きだ。あそこは上客が多い。上手くやれよ」
「いや……私は違うの!私は沈清雪!あなたたち、私を誰だと思って……」
「うるさい!」
鋭い鞭の一撃が頬を打つ。痛みと衝撃で視界が歪む。唇の端から血が滲んだ。
「お前は蘇媚だ。生まれつきの奴隷の女だ。その体に刻まれた印が何よりの証拠だ」
商人はそう言って、彼女の胸元のリングを指で弾いた。鈍い痛みが走る。
「それを外したくば、金を稼げ。客を喜ばせれば、いつかは自由にしてやる。だが、その前に少しばかり——お前の価値を上げてやらなきゃな」
商人は手を叩く。すると、屈強な男たちが現れ、沈清雪の腕を掴んだ。
「離して!お願い!助けて!」
無数の視線が彼女に注がれる。奴隷市場の他の檻の中からも、薄暗い廊下の影からも。男たちの視線は、獲物を見つけた獣のようにギラついている。
引きずられるようにして運ばれた先は、妓楼「極楽楼」の裏手にある小部屋だった。
そこには、薄手の布地で作られた扇情的な衣装が並べられている。ほとんど透けて見えるような紅い紗のドレス、腰から下がる鈴の飾り、そして——金の蝶がついた、乳房を露出させるための装飾具。
「これを着ろ」
女将らしき中年の女が、無表情で衣装を差し出す。
「いや……嫌だ……」
「嫌なのではない。嫌ならば、もっと金を払ってもらうしかない。お前のような奴隷が、何を偉そうに言うと思っているんだ」
女将の指図で、屈強な女たちが沈清雪の薄汚れた布を引き剥がす。
「やめ……やめて!」
抵抗する間もなく、新しい衣装を着せられる。紅い紗のドレスは胸の部分が大胆に開いており、乳輪のリングと焼き印が露わになる。腰の鈴は一歩歩くごとにシャンシャンと鳴り、淫らな音を響かせる。
そして最後に——首輪が嵌められた。革製のそれには、小さな札が下がっている。
「『蘇媚——極楽楼所属——初夜権、競売予定』」
女将が無機質に読み上げる。
「今夜はお前の披露目だ。上客たちがお前を待っている。しっかり踊って、男たちの気を引け」
「踊る……?」
「そうだ。踊れないのなら、身体で覚えさせてやる」
女将が手を叩くと、部屋の隅から三味線の音が流れ始める。
沈清雪——いや、今や蘇媚として生きることを強いられる女は、震える体を支えながら、鏡の中の自分を見た。
そこに映るのは、見知らぬ顔。奴隷の女。
しかし、その瞳だけは——確かに自分のものだった。恐怖に染まりながらも、決して消えない誇りが、その奥に灯っている。
「必ず……必ず取り戻す……私の体を……私の人生を……」
彼女の呟きは、三味線の音に掻き消された。
扉の向こうで、男たちの歓声が聞こえ始める。今夜——奴隷の女としての、最初の夜が始まろうとしていた。