その夜、蘇婉清は林逸の腕に抱かれて眠りに落ちた。穏やかな寝息が部屋に満ち、二人は都会の喧騒から離れた夢の中に漂っていた。
突如、視界が白く染まった。
眩い光が部屋全体を包み込み、蘇婉清は驚いて目を開けたが、何も見えなかった。ただ無限の白だけが広がっていた。体が浮遊する感覚。重力を失い、時空の裂け目に呑み込まれるような錯覚。
「林逸!林逸!」
叫んだが、声が自分の耳にすら届かない。手を伸ばしても、誰にも触れられない。
永遠にも思える数秒が過ぎた。白光が消えた瞬間、蘇婉清の背中に硬い感触が走った。石床だった。冷たく、湿った匂いが鼻をつく。古びた線香と、かびた木材の香り。
彼女はゆっくりと目を開けた。
そこは見知らぬ宮殿の一室だった。朱塗りの柱、彫刻が施された天井、青銅の灯火が揺らめき、壁に不気味な影を落としている。窓はなく、ただ重々しい帳が風もないのに微かに揺れている。
「林逸…?」
震える声で呼ぶと、すぐ近くからうめき声が聞こえた。
「婉清…ここは…どこだ?」
林逸がよろよろと立ち上がった。顔色は青白く、額には冷や汗が浮かんでいる。彼の服装はまだパジャマのままで、蘇婉清も同じだった。二人は現代の寝巻き姿で、この古代の空間に放り出されていた。
「わからない…でも、ここは絶対に私たちの部屋じゃない」
蘇婉清は立ち上がり、震える手で帳を掴んだ。外からは足音が聞こえる。複数の人のものだ。規則正しく、重い。
「誰か来る」
林逸は彼女の手を握り、部屋の隅へと引っ張った。二人は柱の陰に身を潜め、息を殺した。
扉が軋みながら開いた。
入ってきたのは、鎧を着た屈強な男たちだった。手には槍を持ち、目つきは鋭い。先頭の男が室内を見回し、すぐに二人を発見した。
「そこにいる者は何者だ!」
声は低く、威圧的だった。林逸は一歩前に出て、蘇婉清を背後に隠そうとした。
「私たちは迷い込んだだけだ。帰り方を教えてくれ」
だが、侍衛は嘲笑した。
「迷い込んだ?ここは禁裏だ。ただの者が立ち入れる場所ではない。捕らえろ!」
一斉に二人に襲いかかる。林逸は抵抗しようとしたが、相手は四人もいる。蘇婉清が叫んだ。
「待って!私たちは何もしていない!」
しかし、侍衛は聞く耳を持たなかった。林逸の腕を捻り上げ、地面に押し付ける。蘇婉清も別の侍衛に両腕を掴まれた。
「離せ!離してくれ!」
林逸がもがくが、無駄だった。侍衛の一人が彼の後頭部を殴りつけ、彼は意識を失った。
「林逸!」
蘇婉清の叫びが部屋に響く。その瞬間、別の侍衛が彼女の前に立ちはだかった。
「この女は後宮へ送れ。皇帝陛下がお待ちだ」
「何を言ってるの?私は誰の妃にもならない!」
だが、言葉は無視された。彼女は力づくで引きずられ、薄暗い廊下を連れて行かれた。足元には冷たい石の感触。頭の中は混乱と恐怖で満ちていた。
一方、林逸は気絶したまま、兵士たちに担がれて別の方向へ運ばれた。目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋だった。簡素な寝台と机。壁には剣が掛けてある。
「ここは…?」
立ち上がろうとすると、全身が痛んだ。戸が開き、一人の武官が入ってきた。
「目が覚めたか。お前はこれから御前侍衛隊に編入される。名前は?」
「林…林逸です。でも、私は帰りたいんだ。妻も連れ戻したい」
武官は冷笑した。
「妻?あの女はもう後宮に入った。皇帝の妃となるのだ。お前がどうこう言える立場ではない。お前は皇帝を守る盾となるべきだ。それ以上は口を閉ざせ」
林逸の顔色が一瞬で青ざめた。妻が…後宮に?皇帝の妃に?
「そんな…そんなことが…」
拳を握りしめたが、力は入らなかった。何もできなかった。逆らえば殺される。それだけは直感で理解できた。
蘇婉清は後宮の一室に閉じ込められていた。部屋は絢爛豪華だった。金の刺繍が施された寝具、銀の香炉、鏡台には翡翠の櫛が置いてある。だが、彼女の心は冷え切っていた。
「なぜ…なぜ私がこんな目に…」
涙がこぼれ落ちる。あの白い光のせいだ。あれがすべてを狂わせた。
扉が静かに開き、宦官が入ってきた。
「妃殿下、皇帝陛下が今夜お呼びになられます。お支度を」
蘇婉清は首を振った。
「私は妃ではない。妻がいるんだ。帰してくれ」
宦官は無表情で続けた。
「そのようなことは申し上げませぬよう。陛下のご命令です。逆らえば、命はありませんぞ」
彼女は唇を噛みしめた。林逸はどこにいる?無事なのか?何も分からない。ただ、自分がこの宮殿の檻に囚われたことだけは確かだった。
夜が更ける。遠くから太鼓の音が聞こえる。蘇婉清は窓の外を見た。満天の星が、まるで嘲笑うかのように瞬いている。
あの白い光は、二度と元の世界へ戻してはくれないのだろうか。