警察署の取調室は殺風景だった。白い壁、蛍光灯の冷たい光、そして机を挟んで向かい合う二人の男。陳黙は目の前の男――張峰を鋭く睨みつけていた。手錠をかけられた張峰は、それでも口元に不気味な笑みを浮かべている。
「お前の負けだ、張峰。催眠術を使って金持ちの女たちを操り、財産を奪った罪は重い。裁判所はお前を十年以上の刑に処すだろう」
陳黙の声は冷徹だった。自らの手で逮捕した犯罪者は数多いが、この男は特別だった。常識を超えた力で人々の心を弄び、尊厳を踏みにじる。そんな男を裁けることに、陳黙は正義の充足感を覚えていた。
「ふん……陳黙警部。覚えておけよ。お前が俺にしたこと、決して忘れない。いつか、必ず報いを受けさせる」
張峰の低い声が取調室に響く。その瞳には狂気にも似た執念が宿っていた。
「刑務所の中で大人しくしていろ。出てくる頃には、お前の力も錆びついているはずだ」
陳黙は立ち上がり、書類をまとめた。張峰は刑務官に連行されながら、最後まで陳黙を睨み続けていた。
数時間後、陳黙は自宅の玄関を開けた。途端に、温かな香りと明るい声が彼を包む。
「おかえりなさい、黙さん!」
妻の趙雨桐がエプロン姿で駆け寄ってきた。優しい笑顔に、陳黙の心は自然と緩む。
「ただいま。今日はいい匂いがするな。何を作ってるんだ?」
「黙さんの大好きな煮魚と、野菜たっぷりの味噌汁よ。さあ、手を洗ってちょうだい」
雨桐の滑らかな手が彼の腕を取る。その温もりが、警察署での張峰の冷たい視線を一瞬で洗い流した。
リビングに入ると、ソファで宿題を広げている妹の陳小蝶が顔を上げた。高校の制服のまま、元気な声を上げる。
「兄さん、おかえり! 今日もすごかったんだって? テレビでやってたよ、催眠犯罪者を逮捕したって!」
「まあな。お前もちゃんと勉強してるか?」
「もちろん! でも兄さん、あんな危ない奴と戦うなんて、心配だよ……」
小蝶は眉をひそめる。活発だが、家族思いの一面もある。
「心配ない。俺は警察官だ。正義のためなら、どんな危険も恐れない」
陳黙がそう言って笑った時、玄関のチャイムが鳴った。
雨桐が応対に出ると、そこには母の林雪薇と姉の蘇清漪が立っていた。
「黙、帰ってたのね。ニュースで見たわ。あなたが逮捕した男って、本当に危険な奴なんでしょう?」
母・林雪薇は冷艶な雰囲気をまとったスーツ姿の女社長。ビジネス界では名の知れた辣腕だが、家族の前では優しさも見せる。その瞳は今、息子を心配する色を帯びていた。
「母さん、大丈夫です。俺はプロですから」
「でもね、黙。どんなに油断しないようにしなさい。その男、何か企んでる気がして……」
姉の蘇清漪は大学教授らしい落ち着いた口調で言う。清楚なワンピースに知的な眼鏡。その声には一抹の不安が滲んでいた。
「清漪姉さんまで。大げさだよ。あいつはもう刑務所行きだ。逃げ出せやしない」
陳黙は軽く笑ってみせたが、心の奥で微かな違和感がよぎった。張峰の最後の言葉が、耳の奥でこだまする。『いつか、必ず報いを受けさせる』――。
しかし、そんな思いを打ち消すように、小蝶がぴょんと跳ねながらテーブルを囲む。
「さあ、みんなでご飯にしよう! 雨桐お姉さんの手料理、楽しみだな!」
「そうね。今日は特別に、私が持ってきたワインを開けましょう」
林雪薇がエレガントにボトルを取り出す。蘇清漪も笑顔でナプキンを広げた。
食卓は暖かい笑い声と会話に満ちていた。雨桐は優しく料理を取り分け、小蝶は学校の出来事を楽しそうに話す。母は会社の話をし、姉は大学での研究について語る。そのすべてが陳黙にとって、かけがえのない時間だった。
心の中で、彼は確かに呟いた。
『これが俺の守るべき幸せだ。正義のためなら、何度でも戦おう。張峰の言葉なんて、きっと空言に過ぎない』
しかし、その確信は、知らず知らずのうちに未来の暗い陰に蝕まれようとしていた。
壁の時計が、午後八時を告げる。外はすっかり暗くなり、街灯の光だけが静かに通りを照らしていた。陳黙は食卓の温かさに包まれながら、あの取調室の冷たい光を遠い記憶にしようとした。
だが、その夜、彼のスマホに一通のメッセージが届く。差出人は不明。文字は短く、こう書かれていた。
『始まったぞ、陳黙。家族の時が、刻み始めた』
陳黙は一瞬、凍りついた。送信者を調べようとするが、既に発信元は消去されている。テーブルの向こうで、家族たちは何事もなく談笑している。
『気のせいだ……刑務所の張峰が連絡できるはずがない』
自分に言い聞かせて、彼はスマホをポケットにしまった。しかし、心の奥底で、何かがざわつき始めていた。それは、彼の信じる正義と家族の平和が、もうすぐ揺らぎ始める予兆だった。