旅立ちの朝、俺はリビングのソファでくつろぎながら、母の艶影がバタバタと準備をする音を聞いていた。
「旅行って言ってもね、本当にただの旅行なんだろうね?」
俺が軽く笑いながら言うと、母はキッチンから顔を出し、目だけで睨んだ。
「あなたの考えなんて、お見通しよ」
そう言いながらも、彼女の口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。隠しきれない期待が滲んでいた。
「でも、まあいいわ。久しぶりに一緒に出かけられるのは嬉しいしね」
彼女はそう言って、クローゼットからバッグを取り出した。その中に、こっそりと麻縄を入れる仕草を、俺は見逃さなかった。彼女なりの承諾の証だ。
成田空港に着き、飛行機を乗り継いで東京へ。搭乗口で俺は母の手をそっと握った。
「緊張してる?」
「そんなわけないでしょ。飛行機なんて何度も乗ってるわよ」
強がる母の手のひらは、ほんの少し汗ばんでいた。
機内で隣に座り、彼女の耳元でささやく。
「今夜は、日本のホテルで特別なことをしようね」
母は顔を赤らめて、俺の腕を軽く叩いた。
「ばか。そんなこと、大きな声で言わないで」
だが、その声には抗う響きはなかった。
東京に到着すると、予想外の光景が広がっていた。到着ロビーから出口まで、多くの人がマスクをしている。空気が少しひんやりとしていて、乾いた感じがする。
「あら、花粉症が流行ってるみたいね」
母も自分のバッグからマスクを取り出して装着した。俺もそれにならう。
「これ、むしろいいカモフラージュになるな」
俺がつぶやくと、母は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに意味を理解して、口元をマスクの下で歪めた。
「本当に、あなたってば……」
タクシーで新宿のホテルに向かう。高層ビルの24階にある部屋は、東京の街並みを一望できる。母は窓辺に立ち、眼下に広がる街を眺めていた。
「すごい眺めね」
彼女の横顔を、タワーマンションのガラスに映る自分の姿と重ねて見る。47歳とは思えないなめらかな肌。白いブラウスの下に、まだ充分な張りを保った胸の膨らみが透けている。
「荷物を置いたら、どこか行きたいところがあるんだ」
「え?どこ?」
「ディズニーランド」
母は意外そうに目を丸くした。
「本当に?大人二人で?」
「もちろん。童心に帰ろう」
実際は、俺にとってはただの時間つぶしだ。夜を待つための、楽しい前戯のようなものだ。
舞浜駅で降り、ゲートをくぐると、色とりどりのアトラクションと、どこからともなく流れる音楽が迎えてくれた。母は予想以上に興奮して、子どもみたいに目を輝かせている。
「あのコーヒーカップ、久しぶりに乗ってみたい!」
彼女の手を引いて、アトラクションを巡る。スペースマウンテンでは、暗闇の中で母が怖がって俺の腕にしがみついてきた。その瞬間、彼女の体が密着し、ふわりと香水の香りが漂う。
「大丈夫だよ、俺がいるから」
耳元でそっと言うと、彼女はぎゅっと目をつぶって、俺の胸に顔を押し付けた。
お昼はパーク内のレストランで、ミッキー型のプレートに盛られたカレーを食べた。母はスマホを取り出して写真を撮る。
「これを友達に見せたら、笑われるわね」
「いいじゃないか。親子で楽しんでるってさ」
母がカレーをスプーンですくい、口に運ぶ。その指の動きに、俺は無意識に見とれてしまった。
午後はキャッスルを背景に写真を撮り、スーベニアショップでお揃いのキーホルダーを買った。夕方になると、パレードが始まった。母は俺の肩にもたれかかりながら、色とりどりのフロートを見つめている。
「幸せだね」
彼女がつぶやいた声は、風にかき消されそうなほど小さかった。
「もっと幸せにしてやるよ」
俺が言うと、母は俺の顔を見上げた。その目には、期待と不安とが入り混じっていた。
夜8時、パークを出る。帰りの電車の中で、母は疲れて俺の肩に頭を預けていた。微かに聞こえる寝息に、俺は口元に笑みを浮かべる。
ホテルに戻ると、エレベーターの中で母がぼんやりと言った。
「たまにはこういうのもいいわね」
「今夜は、もっと特別な体験をしよう」
俺の言葉に、母の体が一瞬固まった。エレベーターの鏡越しに、彼女の顔色が変わったのを見た。
部屋のドアを開け、中に入る。ライトをつけると、ベッドの上に無造作に置かれた母のバッグが目に入った。その中には、あの麻縄が入っている。
俺は母の肩に手を置き、耳元でささやいた。
「準備はできてるんだろ、母さん」
彼女はうつむきながら、しかしはっきりと頷いた。
「……ええ」
その声は、震えていたけれど、どこか確かな意志を宿していた。