満開の桜の下、夜気が冷えて地面に落ちた花びらが濡れている。
凛音は白い着物に黒い草履、足袋の先に血痕が一滴滲んでいる。向かい合う雪乃の刀はすでに半ば抜かれていた。二人の間には音もなく時間が流れる。
「来い」
凛音の声は冷たく、唇の端がわずかに上がる。彼女はゆっくりと刀を抜き、刃先を月明かりに傾けた。
雪乃は歯を食いしばる。その目には迷いと決意が同居していた。彼女は踏み込み、一気に間合いを詰める。二振りの刀が交錯し、甲高い金属音が静寂を裂いた。
一合、二合。凛音の動きは滑らかだった。しかし雪乃の刃は容赦なく、彼女の防御を崩しにかかる。三合目、雪乃は低い姿勢から脇腹を刺しに来た。
凛音はあえて避けなかった。自分の体を刃の前に差し出すように、腹をさらす。
鈍い衝撃。雪乃の刀が凛音の下腹部を深く貫いた。布が裂け、肉が裂け、内臓が温かい空気に触れる。血が着物を真っ赤に染め、足袋の上に滴り落ちる。
「凛音……なぜ避けない!」
雪乃の声が震える。彼女は刀を抜こうとしたが、凛音がその手を掴んで止めた。
凛音は自分の腹を見下ろした。傷口から腸がわずかに覗き、出血が止まらない。しかし彼女の顔には苦痛の色が一瞬浮かんだかと思うと、すぐに陶酔の微笑みに変わった。
「……また、この感覚だ」
凛音は自分の指で傷口の縁を撫でた。血が指先を伝い、へそから新たな滴がにじみ出る。彼女の体がかすかに震え、息が漏れる。
「こんなに鋭くて……苦しいのに、どうしてこんなに気持ちいいのだろう」
雪乃は呆然と立ち尽くす。凛音の腹の傷が、見る見るうちに塞がり始めていた。肉が再生し、皮膚が伸び、やがて傷痕すらも消えていく。ただ血だけが、彼女の着物と地面を汚し続けていた。
「お前は……不死者なのか」
雪乃の声は掠れていた。凛音はゆっくりと顔を上げる。その瞳には深い哀しみと狂おしいほどの快楽の残滓が混ざっていた。
「違う。ただ死ねないだけだ。何度も、何度も、こうやって傷ついては蘇る。もう何度目かも忘れた」
凛音は自らの腹をもう一度撫で、血のついた指を舐めた。鉄の味が舌に広がる。
「これが初めてじゃない。千鶴が始めた実験のせいで、私は永遠にこの苦しみから解放されない」
その言葉と同時に、暗がりから微かな衣擦れの音がした。
凛音も雪乃もそちらを見る。桜の巨木の影に、白い巫女装束の女が立っていた。千鶴だった。彼女は手に巻物を持ち、筆を走らせている。
「素晴らしい再生速度だ。記録を更新したな、凛音」
千鶴の声は朗らかだった。まるで花見を楽しむように、彼女は微笑む。
「出血量に対して修復時間が三割短縮されている。感覚の鋭敏化も持続しているようだ。苦痛と快楽の境界が曖昧になるのは、不死神功の副次作用としては興味深い」
凛音は千鶴を睨んだが、その目には憎しみだけでなく、どこか依存のような色も浮かんでいた。
「もういい。帰ろう」
雪乃が凛音の袖を引く。手が震えていた。
「こんなことを続けていたら、お前は……!」
「私はもう戻れないのだ、雪乃」
凛音は静かに言った。着物の血が夜露に溶け、桜の花びらがその上に降り積もる。
「千鶴の実験台として、私は何度も死んできた。そのたびに敏感になり、快楽に溺れる自分がいる。それを止めたいと思う一方で、止めるのが怖い。死にたいのに、死ねない。そして、死ねないからこそ、死にたくなる」
彼女は肩を落とし、草履の先で地面の花びらを弄った。
「もし次に会う時があれば、また決闘をしよう。その時は、もっと深く刺してくれ」
雪乃は何も言えず、ただ唇を噛んだ。
千鶴は満足げに巻物を閉じ、闇の中へ消えていった。凛音はその背中を一瞥し、やがて雪乃に背を向けて歩き出す。桜の花びらが風に舞い、彼女の血の跡をなぞるように散っていった。
その夜、凛音は独り、傷が完全に癒えた腹を抱えて膝を抱えた。蘇った後の鋭敏な感覚が全身を駆け巡り、彼女はそれに身を委ねるように震えた。苦しみと快楽の狭間で、彼女はもう一度、夢の中で自らの命を絶つ想像をした。しかし、その指はいつしか自らの腹を撫で、そしてまた傷をつけるための刀を探していた。
千鶴は記録の最後に一言書き加えた。
「被験体・凛音、快楽への依存度が進行。次回の実験は感覚閾値の限界を測るべし」
月が雲に隠れ、桜の花びらが一層激しく舞い落ちた。