# 第一章:渇望の目覚め
午後の日差しがカーテンの隙間から差し込み、リビングの床に細長い光の帯を作っていた。林雪は一人きり、仏間の隣にある押し入れの前に座り込んでいた。今日で四十歳になった。節目の誕生日というのに、息子の陳陽は大学の講義で朝から出かけており、祝いの言葉さえも昨夜のうちに済ませてしまった。
「ふう……」
彼女は深く息を吐き、押し入れの奥から出てきた段ボール箱を前にした。もう十年以上も開けたことのない箱だ。埃っぽい空気が鼻を刺激する。扉の蝶番が錆びついたようなきしむ音を立てながら、蓋を開けた。
一番上には古びた写真アルバムがあった。黄ばんだビニールのカバーをめくり、最初のページに貼られた写真に目を留める。二十三歳の自分が映っていた。短いスカートに黒いストッキング、髪を後ろで束ね、無理やり作った笑顔を浮かべている。その横には、今は亡き男——彰が立っていた。
彰。三十代半ばだった彼の顔が、はっきりと思い出される。太い眉に窪んだ目、薄い唇。三年間、彼にすべてを支配されていた。最初は恐怖と抵抗だけだったが、次第にその痛みと屈辱に、身体が——心が——慣れていった。
林雪の指が、写真の中の自分のストッキングに触れた。まるで昨日のことのように、あの束縛の感覚が蘇る。手首や足首に巻かれた縄の感触。皮膚を打つ鞭の音。口を塞がれ、言葉も発せず、ただ彼の意のままにされる無力さ——そして、それを受け入れることで生まれる奇妙な安堵。
胸の奥が熱くなる。膝の上に置いた手が微かに震えた。
もっと深く。もっと強い痛みを。もっと徹底的に壊して欲しい。
だが、彰はもういない。交通事故であっけなく死んだ。あの事故の知らせを受けた時、林雪はなぜだか予想外の涙を流した。解放された喜びよりも、失った喪失感の方が強かったことを、今でも覚えている。
その後、妊娠していたことに気づいた。彰の子だ。彼女は一人で産み、育てる決心をした。陳陽——それが息子の名前だ。二十年近く、彼女は普通の母親として生きてきた。息子を塾に通わせ、学校の行事に参加し、弁当を作り、生活費をやりくりしてきた。
でも、ずっと抑え込んできた欲求は、決して消えてはいなかった。むしろ、時間と共に澱のように沈殿し、濃くなっていったのだ。
林雪は立ち上がり、手にした写真アルバムを抱えたまま、階段を上った。二階の廊下を歩き、息子の部屋の前で立ち止まる。扉は半開きになっていた。彼女は無意識にドアノブに手をかけ、中を覗き込んだ。
整理整頓が苦手な青年の部屋だ。ベッドの上には脱ぎ捨てたシャツ、机の上には参考書やノートが乱雑に積まれている。目を引いたのは、ベッドの脇にかけられた洗濯物の山——そこに、自分の黒いストッキングが混ざっていることに気づいた。
あれは、確か三日前に洗濯かごに入れたはずのものだ。
林雪の心臓が一際強く鼓動した。彼女は自分の部屋に戻り、机の引き出しを開けた。新しいストッキングのパッケージを取り出し、これは一昨日にスーパーで買ったばかりだ。封を切り、腿まで伸びる黒いストッキングをゆっくりと履く。
鏡の前に立つ。四十歳とは思えない、まだ張りのある脚。ストッキングが包み込むラインを、自分の目で確認する。高校の頃から細身を保ってきた身体には、年齢以上の若々しさがある。
「陽は……いつもここを見ている」
そう言って、彼女は自分の腿を撫でた。最初は偶然だと思っていた。アパートの狭い廊下ですれ違う時、キッチンで料理をする後ろ姿を見ている時、ソファでテレビを見る時。息子の視線がしばしば、自分の脚——特にストッキングを履いた部分に留まることに、気づいていた。
それを単なる青年の好奇心と片付けるには、視線の熱量が違っていた。
「もし……」
喉の奥で声が漏れた。もし、陽があの男の血を引いているなら。もし、あの男の嗜好を受け継いでいるなら。もし、あの男を超える加虐者が、息子の中に眠っているなら。
背筋を悪寒——それとも期待——が走る。
その時、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
陳陽の声だ。林雪は慌ててスカートの裾を整え、部屋を出た。
「おかえり、陽。講義は終わったの?」
階段を降りながら、できるだけ自然な声で言った。二階の踊り場で、息子と目が合う。二十歳になったばかりの青年は、母親を見上げて一瞬固まった。
「あ、ああ……今日は早く終わったんだ」
彼の視線が、一瞬だけ林雪の脚に落ちてすぐに逸らされた。耳の先が赤くなっている。
「コンビニで何か買ってこようか?」
「いいえ、もうご飯は準備してあるから」
林雪は微笑み、自分の部屋に戻った。ドアを閉めると、全身の力が抜けて壁に寄りかかった。
確信した。陽は、あのストッキングを見ている。
彼女の唇が、自然と弧を描いた。
「よし……」
計画の第一歩は成功だった。これからは、少しずつ、もっと明確に——息子の視線を、もっと深い欲望へと誘導していく。彼女は引き出しから、古いビデオテープを取り出した。ラベルには「2003年、東京」とだけ書かれている。中身は、彰が撮影した——彼女が奴隷として調教される様子を収めた記録だ。
いつか、陽に見せる日が来るかもしれない。いや、必ず見せる。そうして、彼を——本当の自分に目覚めさせる。
夕食の準備を始める林雪は、鼻歌交じりに台所に立っていた。今日は、息子の好物ばかりを並べよう。そして、食卓でも、黒いストッキングの脚を、わざと彼の視界に入る位置に置くのだ。
彼女の身体の奥底で、渇望が静かに燃え始めていた。