第5章 洛州への帰還
指輪の輝きが収まると、葉凌は見知らぬ路地裏に立っていた。月蕊児の身体で感じるこの世界は、以前とはまったく違う。空気の匂いさえも、女の鼻で嗅ぐと違って感じられる。彼は自分の胸元を押さえ、心臓の鼓動が異常に速いのを感じた。この身体に慣れるまで、まだ時間がかかりそうだ。
路地の出口から差し込む光が、彼の影を長く伸ばしていた。葉凌は深呼吸を一つし、月蕊児の歩き方を思い出しながら、ゆっくりと大通りへと歩みを進めた。
洛州の街並みは相変わらず賑やかだった。両側の商店には様々な看板が掲げられ、通りには香辛料や焼き菓子の匂いが混ざり合っている。葉凌は月蕊児として初めてこの街を歩くことになる。彼女の記憶を頼りに、目的の書肆を探さねばならない。
しかし、彼が大通りに出た瞬間、周囲の空気が変わった。
「おい、あれを見ろ」
「まあ、あの女、男物の服を着ているぞ」
「しかも結構いい布地だ。どこかの商家の娘か?」
「いやいや、あの歩き方、どう見ても男の真似をしているだけだ」
「あれは……月蕊児様ではないか?」
ひそひそ声が四方から聞こえてくる。葉凌は内心で舌打ちをした。確かに、今の自分の格好は問題だ。月蕊児の体でありながら、男物の服を着ている。それも皇都で仕立てた上等なものだが、明らかに女の体には合わない。ゆったりとした肩幅、だぶついた腰回り、無理に締めた帯がかえって不格好だ。
「見ろ、あの胸の膨らみ……明らかに女なのに、男の服なんて」
「月蕊児様と聞けば、確かにあの方ならやりかねない。あの方は前から型破りなお方だからな」
「それにしても、いくらなんでも見苦しい」
「公衆の面前で男装とは、月国皇城の女官の恥だぞ」
葉凌は無視を決め込み、足早に歩き続けた。しかし、視線はますます集まる。月蕊児の知名度が高すぎるのも困りものだ。彼女は洛州でも名の知れた存在で、街の者なら誰でもその美貌と風変わりな性格を知っている。
「月蕊児様!」突然、若い男の声が響いた。葉凌が振り返ると、趙無極が数人の取り巻きを連れて立っていた。彼の目には明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
「なるほど、男装して街をうろつくとは、ますます退廃されたな」趙無極がゆっくりと近づいてくる。「どこの男に貢いでいるのか知らんが、その格好はさすがに品性を疑われるぞ」
周囲の人々が立ち止まり、囃し立てるように視線を向ける。葉凌は内心で冷笑した。この趙無極、月蕊児を追いかけていたくせに、今ではその姿を見下している。なんとも都合の良い男だ。
「私の服装に何か問題でも?」葉凌は月蕊児の声で、できるだけ優雅に答えた。「私が何を着ようと、あなたの関知するところではないわ」
「問題だらけだ」趙無極は嘲笑しながら言った。「月国の女官がそんな格好で街を歩くとは、お家の恥も知らぬのか?それとも、お前の主である公主様の顔に泥を塗るつもりか?」
月清公主の名が出て、葉凌はわずかに眉をひそめた。確かに、月蕊児は月清公主の侍女だ。その立場を考えれば、あまり派手な真似はできない。しかし、今の葉凌には、それよりも優先すべきことがある。
「あなたに公主の名を語る資格はない」葉凌は冷たく言い放った。「それに、私はただの散歩だ。何か法に触れたか?」
「法には触れなくとも、風紀には触れる」趙無極が一歩前に出る。「どうだ、俺の屋敷で着替えを用意させよう。その恰好のまま街を歩くのは、見ている方が恥ずかしい」
周囲から笑い声が漏れる。葉凌は唇を噛み締めた。この屈辱は確かに辛いが、今ここで騒ぎを起こせば、月蕊児の立場を危うくする。いや、それ以上に、記憶読み取りの功法を探すという目的が妨げられる。
「結構です」葉凌はできるだけ平然と言った。「私は私の用事を済ませる。お構いなく」
そう言って背を向けると、趙無極の声が追いかけてきた。やはり無視を決め込み、葉凌は人混みの中へと消えた。背後からはなおもひそひそ声が聞こえる。男装の女が、月蕊児が、と囁く声が風に乗って耳に届く。
目的の書肆は、洛州の西の外れにあった。『墨香閣』というその店は、決して大きくはないが、貴重な書物を取り扱っていると噂だ。葉凌は店の前に立つと、一度だけ周囲を確かめてから戸を押した。
中は薄暗く、墨と紙の匂いが立ち込めている。棚には古びた書物がぎっしりと詰まっていた。店主であろう老人が、カウンターの向こうで微睡んでいる。
「すみません」葉凌が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。その目が、葉凌の姿を見て一瞬、驚きに輝いた。
「これは……月蕊児様ではございませんか」老人は慌てて立ち上がる。「どのようなご用で?」
「いくつか、古い書物を探しているのだが」葉凌はできるだけ落ち着いた声音で言った。「特に、記憶に関わる功法の記録はないか?」
老人は顎に手を当てて考え込んだ。「記憶の功法……確かに、そういった書物はございます。ただし、非常に古いものです。代価も相応にいただきますが」
「構わない」葉凌は指輪を撫でながら言った。「金ならある。ただし、内容は確かなものか?」
「ええ、先代から受け継いだものですから」老人は奥の棚へと歩いていき、一冊の分厚い本を取り出した。「こちらが『魂識転生録』というもので、記憶の転写や読み取りに関する記述が多く含まれております」
葉凌は本を受け取り、ざっとページをめくった。確かに、古文で書かれた複雑な図や注釈が並んでいる。これは使えそうだ。
「これを買い取る」葉凌は金貨を何枚かカウンターに置いた。「ただし、他言は無用だ」
「承知しております」老人は金貨を受け取りながら、何かを考えるように葉凌を見つめた。「月蕊児様、一つだけお尋ねしても?」
「何だ?」
「なぜ、男物の服をお召しに?以前のあなた様なら、そんなことはなさらなかったでしょうに」
葉凌は一瞬言葉に詰まった。老人の目は鋭く、何かを見抜いているようだった。いや、まさか。ただの偶然の質問だ。
「気まぐれだ」葉凌は短く答え、本を懐に抱えて店を出た。
外に出ると、日は少し傾きかけていた。まだ時間はある。この本を手掛かりに、変身を完璧にする方法を見つけ出せばいい。葉凌は足を速めながら、月蕊児の住まいへと向かった。
しかし、街を歩くたびに浴びせられる視線は、決して和らぐことがなかった。男装の女、風紀を乱す者、月蕊児。その言葉の一つ一つが、葉凌の胸に小さな棘のように刺さる。だが、それも必要な代償だ。目的のためなら、どんな屈辱も耐え忍ぶ。
やがて彼は小さな路地に差し掛かり、月蕊児が借りている家の前に立った。鍵を開け、中に入る。ほっと一息つくと、自分が無意識のうちに息を止めていたことに気づいた。
葉凌は机に向かい、買い求めた本を開いた。古いインクの匂いが鼻をくすぐる。指で文字をなぞりながら、彼は読み進めていった。
ここからが本当の始まりだ。変身を完璧にするために、記憶を読み取る術を身につける。そうすれば、月蕊児としても、葉凌としても、自由に動けるようになる。そして、いつかは……。
窓の外から、再び街のざわめきが聞こえてくる。あの視線と囁きは、まだ続いている。しかし、葉凌はもう気にしなかった。彼はただ、本の文字に没頭していく。月蕊児の細い指が、ページをめくるたびに、かすかな音を立てていた。