# 火星の約束 第一章:秘密の亀裂
窓の外からは春の柔らかな日差しが差し込み、リビングの床に淡い光の模様を描いていた。林薇はソファに座って雑誌をめくっていたが、その視線は時折、隣に座る小唐に向けられた。
小唐は上の空だった。手にしたスマートフォンの画面に釘付けになり、指が時折素早く動いては止まる。その様子はどこか落ち着かず、彼の眉間には微かな緊張の皺が寄っていた。
「小唐、何かあったの?」
林薇が声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「え? あ、いや、何でもないよ」
そう言うと、彼は慌ててスマートフォンをポケットにしまった。その動作はあまりに不自然で、林薇の胸に小さな疑問の種が落ちた。
午後三時を過ぎた頃、小唐がシャワーを浴びると言って浴室に向かった。水音が聞こえ始めたのを確認して、林薇は静かにソファから立ち上がった。彼が置き忘れたスマートフォンが、コーヒーテーブルの上で無防備に横たわっている。
彼女の心臓がドキドキと鳴った。彼のプライバシーを侵すことに罪悪感を覚えながらも、あの落ち着かない様子が気になって仕方なかった。指先がスマートフォンに触れる。ロック画面には、二人で撮った写真が表示されていた。
幸い、パスワードは彼の誕生日だった。画面が開かれ、林薇は履歴を開いた。
一瞬、彼女の呼吸が止まった。
「寝取られ……サイト」
言葉が喉の奥で詰まる。画面に並ぶサムネイルは、どれもが衝撃的だった。タイトルには「妻の寝取られ体験」「彼女が他の男に抱かれる姿」などの文字が踊っている。履歴は何ページにもわたっていた。
林薇の手が震えた。頭の中が真っ白になり、目の前が霞む。彼女は無意識のうちに口元を手で覆った。吐き気にも似た衝動が胃のあたりからせり上がってくる。
浴室の水音が止まった。
林薇は慌ててスマートフォンを元の位置に戻し、ソファに座り直した。心臓は激しく鼓動し、耳の中で血の音が聞こえるようだった。
小唐がタオルで髪を拭きながらリビングに現れた。彼は何も気づかず、冷蔵庫から麦茶を取り出している。
「小唐」
林薇の声は思ったより落ち着いていた。しかしその内側では、嵐が荒れ狂っていた。
「さっき、スマホ見たよ」
小唐の手が止まった。彼の手に持ったグラスから水滴が落ち、床に小さな染みを作る。
「……何て言ったの?」
「寝取られサイトの履歴がたくさんあった。どういうこと?」
沈黙が部屋を支配した。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
小唐はゆっくりとグラスを置き、顔を上げた。その目は林薇を見つめているが、焦点が合っていないように見えた。彼の唇が震えている。
「ごめん……言おうと思ってたんだ」
「言おうと思ってた? どれくらい前から見てたの?」
「一年……いや、もっと前からかもしれない」
小唐の声はか細く、今にも消え入りそうだった。彼はソファに腰を下ろし、両手を組んだ。指の関節が白くなっている。
「どうして? 私とじゃ足りないの? それとも、私じゃ満足できないの?」
林薇の声には怒りが混じっていた。だがそれ以上に、傷ついた感情が滲んでいた。
「違うんだ、薇。君じゃないんだ。問題は僕の方なんだ」
小唐は顔を上げ、苦渋に満ちた表情で語り始めた。
「僕は……自分に自信がない。君と初めて体を重ねた時からずっと、自分が不十分だって感じてた。他の男なら、君をもっと満足させられるんじゃないかって、ずっと考えてたんだ」
「何を言ってるの?」
林薇の声が震えた。
「僕のモノが……小さいんだ。君と他の男がやってる姿を想像すると、なぜか興奮してしまう。僕はこんな自分が嫌だ。でも、止められないんだ」
彼の目に涙が浮かんでいた。それは本心からのものだった。林薇はその涙を見て、怒りが少しだけ和らいだ。しかし、理解できない気持ちの方がまだ強かった。
「そんなの……おかしいよ」
「わかってる。自分でもおかしいってわかってるんだ。でも、これが僕の本当の姿なんだ」
小唐は顔を両手で覆った。その肩が小さく震えている。
その夜、二人の間には重い沈黙が漂っていた。夕食はほとんど手をつけられず、テーブルの上に並んだ料理は冷めていった。
林薇はベッドに横たわり、天井を見つめていた。隣では小唐が横向きになって寝ている。彼が本当に眠っているのか、それとも眠れないふりをしているのか、彼女にはわからなかった。
思考がぐるぐると頭の中を回る。愛する人の隠された性癖。その事実は、彼女の心に深い亀裂を入れた。
(なぜ? なぜあんなことが必要だと思うの?)
彼女の指が無意識のうちに腹部を撫でた。自分には魅力がないのだろうか。もっと努力すれば、彼を満足させられるのだろうか。様々な疑問が次々と浮かんでは消えた。
しかし、同時に別の感情も芽生えていた。それは好奇心のようなものだった。自分が他の男と関係を持ったら、本当に小唐は興奮するのだろうか。そんな考えが頭をよぎった時、林薇は自分の頬が熱くなるのを感じた。
(馬鹿なこと考えないで。私は小唐を愛してる。それだけよ)
彼女はそう自分に言い聞かせた。だが、心の奥底で何かが確かに動き始めていた。
翌朝、林薇は早くに目覚めた。小唐はまだ眠っている。彼女はキッチンでコーヒーを入れ、窓の外の朝日を見ながら考えをまとめた。
彼が起きてくるのを待って、彼女は口を開いた。
「小唐、話があるの」
彼はコーヒーカップを握りしめ、うつむいたまま「うん」とだけ答えた。
「昨日のことだけど……私、もっとちゃんと話したい。あなたの気持ちを理解したいの」
小唐が顔を上げた。その目には驚きと感謝の色が浮かんでいた。
「本当に? 僕のこと、嫌いにならなかったの?」
「嫌いになるなんてできないよ。だって、あなたは私の大切な人だから。でも、全部話してほしい。隠し事はもうしないで」
小唐の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼は声を詰まらせながら語った。
「ありがとう。僕は……ずっと告白する勇気がなかった。君に嫌われるのが怖かったんだ。こんな変態的な趣味を持っている自分が、君に受け入れてもらえるわけがないって思ってた」
「確かに驚いたし、戸惑っている。でも、あなたを否定したりしない。一緒に考えていこう」
林薇はそう言いながらも、心の中は複雑だった。愛ゆえに彼を受け入れようと決意した。しかし、その決意がどこまで続くのか、彼女自身にも確信はなかった。
小唐は涙をぬぐいながら、精一杯の笑顔を作った。
「僕は君を愛している。だからこそ、君には幸せでいてほしい。たとえそれが、僕以外の誰かとでも」
「そんなこと言わないで」
林薇は首を振った。しかし、彼の言葉は彼女の心に深く刻まれた。
その日から、二人の間には見えない亀裂が走り始めた。それは愛情を壊すものではなく、むしろ別の形で彼らを結びつけるものだったのかもしれない。
だが、林薇はまだ知らなかった。この亀裂がやがて大きな渦となり、彼女自身をも飲み込んでいくことを。