林雪桜は、父の遺体の冷たさをまだ指先に覚えていた。マンションの一室、書斎の椅子にぐったりと凭れた父の首には、ネクタイが巻きついていた。自殺だった。会社の経営破綻、借金の山、追い詰められた末の選択。通夜も告別式もない、ひっそりとした火葬。参列者は母と自分と、そして取り立てに来たヤクザの男たちだけだった。
「社長令嬢様、お気の毒さま」
山田龍一は、焼き場の前で煙草をくゆらせながら、にたりと笑った。白いスーツに金のネックレス。ヤクザの親分というより、場末の興行主のような風体だった。彼は雪桜に、分厚い契約書の束を突きつけた。父が生前、事業資金として借り入れた金の借用書。利子が膨れ上がり、元本は優に十億を超えていた。
「あなたの親父さんが残した借金だ。きっちり返してもらうぜ」
雪桜は震える声で言い返した。「私にそんな大金、払えません。大学も中退しましたし、働ける場所なんて」
「働ける場所はあるさ。むしろ、お前にぴったりの仕事を紹介してやる」
山田の目が、雪桜の全身を舐め回すように這った。十八歳の少女は、名家の令嬢らしい育ちの良さをまだ残していた。長い黒髪、白い肌、憂いを帯びた大きな瞳。着ている喪服は安物だが、立ち居振る舞いに品があった。
「飛田新地って知ってるか?大阪でも有名なソープランド街だ。あそこに、知り合いの店がある。お前なら若くて綺麗だから、すぐに人気が出る。一発五万、一日五本こなせば、半年も経たずに借金の一部は返せるだろうよ」
雪桜は絶句した。自分が売春を強要される?そんなことが現実に起こるなんて、信じられなかった。
「嫌です…私、そんなことできません」
「できない?」山田の声が冷たく尖った。「じゃあ、代わりに妹さんを売るか?お前の妹はまだ中学生だってな。あの年頃の娘は、全然知らない男に抱かれると純粋でいい値がつくんだ。大阪の裏風俗では、そういうのが高く売れる」
「やめてください!妹は…妹は関係ない!」
「なら、お前がやれ。選択権はお前にあるんだぞ、林雪桜」
雪桜の涙が、頬を伝って落ちた。父の死、借金、妹の安全。全てを背負わされた自分が、哀れでならなかった。だが、家族を守るためには、どんな屈辱にも耐えなければならなかった。
「わかり…ました」
「よし、決まりだ。今すぐ店に連れて行く。着替えと荷物は後で持って行かせるから、今はついて来い」
山田は雪桜の腕を掴み、無理やり車に押し込んだ。車中、雪桜は窓の外をぼんやりと眺めていた。大阪の街並みが流れる。派手な看板、ネオン、行き交う人々。自分はこれから、あの世界に足を踏み入れるのだ。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。
車は大阪・飛田新地の入り口で止まった。昼間でも薄暗い路地には、赤や紫の提灯が連なり、軒先には派手な着物を着た女たちが座っていた。甘ったるい香水の匂いが、雪桜の鼻を刺激した。
山田は迷わず、一軒の店の前に立った。「あそこだ。『椿』って店だ。女将の佐藤って言うんだが、厳しいけど腕は確かだ。お前を一人前に育ててくれる」
雪桜は足を踏み入れた。畳の上に、低いテーブル。壁には艶めかしい絵が飾ってある。奥から、四十代半ばの女将が現れた。着物姿で、腰に細い帯を締めている。顔には笑みを浮かべていたが、目つきは鋭かった。
「山田の旦那、今日はどないな御用で?」
「この娘を預ける。林雪桜、十八歳。お嬢様育ちだが、身体はしっかりしてる。しっかり仕込んでやってくれ」
佐藤は雪桜を一瞥し、軽く鼻で笑った。「はあ?こんなおぼこい娘、本当にやる気なんですか?客が逃げますよ」
「大丈夫だ。俺が責任を持つ。とにかく、一週間で一人前にしてくれ。借金の形だ」
佐藤はため息をつきながらも、引き受けた。「わかりました。旦那の言いつけやからな。こっちへ来い、娘さん」
雪桜は佐藤に連れられ、店の奥にある小さな部屋に通された。六畳ほどのスペースに、鏡台と簡素な布団。窓には、外から見えないように格子が嵌められていた。
「とりあえず、ここがお前の部屋や。今日からここで生活しながら、基本的なことから教える。まずは座り方、歩き方、客に対する言葉遣い。それから、身体の見せ方、触らせ方、舐めさせ方。全部覚えなあかんで」
佐藤の口調は淡々としていたが、どこか諦めにも似た響きがあった。彼女もかつては、同じように売られてきたのだろうか。雪桜はそんな想像をしたが、すぐに現実に引き戻された。
「あんたの借金の話は聞いとる。親が自殺して、妹がいるんやろ?可哀想やけど、この世界ではそんなこと言うてられへん。客は、あんたの悲しみなんて知らん。むしろ、悲しみを帯びた女ほど、男は興奮する。それを利用して、金を取るんや」
佐藤は、棚からいくつかの道具を取り出した。ローション、コンドーム、バイブレーター。それらをテーブルに並べながら、雪桜に説明を始めた。
「まず、最初の客は新人向けの安いコースや。口と手で処理してもらう。体を許すのは、向こうが金を積んできた時だけや。基本は、決して自分から動かん。客に主導権を握らせて、その上でこっちのペースに引き込む。それがプロや」
雪桜は震える手で、コンドームの箱を手に取った。見たこともないものばかり。これから、自分の身体で金を稼ぐ。妹を守るために。父の借金を返すために。そう思っても、涙が止まらなかった。
「泣くな。泣いたら、化粧が崩れる。客の前では、笑顔を見せなあかん。どんなに辛くても、どんなに嫌でも、金を払う客に泣き顔を見せるのはプロ失格や」
佐藤はそう言うと、雪桜の顔を鏡の前に向かせた。「お前は綺麗や。顔もスタイルも悪くない。すぐに常連がつくやろ。そしたら、稼ぎも増える。借金も少しずつ減る。生きるためには、出来ることをやるしかないんや」
雪桜は、鏡に映る自分の顔を見た。涙でぐしゃぐしゃになった、哀れな顔。昔、ピアノやバレエを習っていた頃の面影は、もうどこにもなかった。今の自分は、ただ生きるために体を売る女。それだけだった。
「覚悟は決まったか?」佐藤が、鋭い目で問い詰める。
「…決まりました」
雪桜は、震える声で答えた。その日から、彼女の新しい人生が始まった。飛田新地の薄暗い路地裏で、一人の令嬢が、ゆっくりと朽ちていく日々を。