# 儚き仙奴
## 第一章 禁術初現
青雲山脈の深奥に位置する大竹峰。その山腹に佇む一軒の静かな洞府の中、林逸は古びた机に向かって座っていた。
机の上には、先日偶然市場で見つけた一冊の古書が開かれている。表紙もなく、著者も不明。紙は黄ばみ、ところどころ虫に食まれている。しかし、その文字はかすれてはいるものの、確かに読むことができた。
「これは……まさか」
林逸の瞳が急に見開かれる。彼の指が震えながら古書の一節をなぞった。
「『迷魂咒』……失伝されたはずの禁術……」
彼はすぐに周囲を確認した。密室である。誰の目もない。それでも彼は声を潜めて、まるで誰かに聞かれることを恐れるかのように、慎重にページをめくった。
古書には、人の精神に直接働きかける術式が詳細に記されていた。特に最後の章——「心魂禁制の法」と題された部分には、対象者の記憶を保ったまま、その意思だけを操る方法が克明に記されている。
「こんなものが、なぜ……」
林逸は息を呑んだ。彼は知っていた。この禁術は、百年前に青雲門が厳禁とし、すべての記録を焼却処分したはずのものだ。もし師門にこの古書の存在が知られれば、即座に廃嫡、あるいはもっと重い罰が待っている。
しかし——彼の目はページから離れなかった。
古書には、術の詳細なほかにも、施術者の能力に応じて効果が変わること、そして何より、対象者の精神力が強ければ強いほど、その制御は難しいが、一度成功すれば絶対的な支配が可能になる——と記されていた。
「精神力が強いほど……か」
林逸の脳裏に、一人の女性が浮かんだ。
陸雪琪——小竹峰の峰主直弟子。青雲門七峰の中でも最も若くして剣仙の位に達した天才。彼女の冷たい瞳と、その背中に差す天琊神剣の光芒は、門下の弟子たちにとって畏敬と憧れの対象だった。
しかし、林逸は知っている。彼女の高慢な態度、誰も寄せ付けない冷たさが、どれだけ彼の自尊心を傷つけてきたかを。
「陸雪琪……お前はいつも俺を見下していたな」
林逸の指が、古書の一節をなぞる。
「術を完成させるには、七日間の練磨が必要。その間、術者は対象者の気息、容姿、行動を徹底的に記憶しなければならない……」
彼はそっと古書を閉じた。洞府の中は静まり返り、かすかな風の音だけが聞こえる。
「俺は……やるべきか?」
自問が洞穴の中に溶けていく。しかし、彼の瞳にはすでに決意の光が宿り始めていた。
翌日から、林逸の行動は変わった。
彼は毎日、小竹峰の修行場に足を運んだ。遠くから、あるいは木の陰から、陸雪琪の姿を追い続けた。彼女の朝の剣舞、午後の修行、夕暮れの丹房での作業——すべてを観察し、記憶した。
「呼吸のリズム……一挙一動に無駄がない……」
林逸は古書の教えに従い、密かに彼女の行動パターンを記録した。彼女が剣を振るうたびに翻る衣の音、微かに香る清冽な花香、疲れた時に軽く眉をひそめる仕草——すべてが彼の記憶に刻まれていく。
五日目——林逸は陸雪琪が一人で山道を歩いているところを偶然見かけた。夕暮れの薄暗い光の中で、彼女の白い衣が風に揺れている。彼は息を潜め、その背中を見つめ続けた。
「美しい……」
思わず漏れた言葉に、彼自身が驚いた。しかし、すぐに首を振る。
「いや、俺はただ——術のためだ」
そう自分に言い聞かせながらも、彼の視線は彼女の細くしなやかな首筋、風に乱れる黒髪、そしてその冷たく澄んだ横顔に釘付けになっていた。
七日目——林逸はついに古書に記されたすべての準備を整えた。洞府の密室に、彼は小さな祭壇を設けた。その上には、水晶の珠、朱筆、符紙、そして——陸雪琪の髪の毛一本。
「これで術は完成する……」
彼は深く息を吸い込み、古書を開いた。そして、その神妙な文字を声に出して唱え始めた。
部屋の中に、不気味な風が吹き荒れる。水晶の珠が微かに震え、朱筆が宙に浮かび上がる。林逸の額には汗がにじみ、全身から白い湯気が立ち上る。
「我、ここに誓う……魂の果てまで、その意志を我に従え——」
最後の一節を唱え終えた瞬間、水晶の珠が鋭い音を立てて割れた。同時に、遥か遠く——小竹峰の方向から、かすかな悲鳴が聞こえたような気がした。
林逸は立ち上がり、窓を開けた。夜空に浮かぶ月明かりが、彼の顔を照らす。
「成功した……のか?」
彼の手はまだ震えていた。禁術を成功させたという興奮と、自分が踏み越えてはならない一線を越えてしまったという恐怖が入り混じっている。
しかし——その目はすでに、次の段階を見据えていた。
「陸雪琪……お前はもう、俺のものだ」
静かな夜の帳の中、林逸の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。