# 第13章
小竹峰の朝はいつもより早く訪れる。雲海が峰々を包み込み、その隙間から差し込む初日の光が、山頂に立つ陸雪琪の白い衣を淡く照らしていた。
彼女はいつも通り、卯の刻には起床し、冷水で顔を洗い、髪を整え、白衣を身に纏う。すべてが日常の一部であり、特別な感慨もなく、ただ淡々と日々の修行に臨む。昨夜もまたいつも通り、静かに座禅を組み、周囲の霊気を体内に巡らせていた。
何の異変もなかった。
いや、正確に言えば、彼女は何の異変も感じていなかった。
「雪琪師叔」
背後から声をかけられ、陸雪琪は振り返る。そこには小竹峰の弟子の一人が立っており、恭しく頭を下げていた。
「何か用か」
「はい、大竹峰の田師叔がお見えになりました」
陸雪琪の眉がわずかに動く。田灵儿が小竹峰に来ることは珍しい。大竹峰と小竹峰は同じ雲の下にあれど、日常的に行き交うことは少ない。
「分かった、すぐに行く」
陸雪琪はそう言うと、軽く息を整え、山道を下っていった。
迎客殿に足を踏み入れると、赤い衣をまとった田灵儿がすでに待っていた。彼女の瞳はいつもと同じく明るく、しかしどこかその奥に深い影を宿しているようでもあった。
「雪琪姐、久しぶりだね」
田灵儿は笑顔で近づいてきた。その声は明るく、無邪気な響きを持っている。
「うん、久しぶりだ。何か用か」
「うーん、ちょっと修行で聞きたいことがあって。大竹峰の修行方法と小竹峰の修行方法は違うから、一度教えてもらえたらと思って」
陸雪琪はしばし考えた。確かに小竹峰の剣法は独特であり、大竹峰の弟子が興味を持つことは不思議ではない。
「分かった。では、ここで少し手合わせをしよう」
「わあ、ありがとう!」
田灵儿は嬉しそうに拍手をする。その仕草は確かに田灵儿そのものだが、陸雪琪はなぜか一瞬、視界の端で何かが歪んだような感覚を覚えた。しかし、すぐにそれは朝日の光の加減だろうと思い直した。
二人は小竹峰の演武場に移動した。田灵儿は天琊神剣を抜き、軽やかに振るう。その剣筋は清らかで、曇りがなく、確かに大竹峰の真髄を伝えていた。
「雪琪姐、ここはどうやって力を集中させるんだっけ?」
「丹田に意識を沈め、剣先に気を結ぶ。力を込めすぎず、抜きすぎず」
陸雪琪は模範を示すように自分の剣を振る。白い弧が空中に描かれ、風を切る音が澄んだ響きを残す。
その時、田灵儿の動きが一瞬止まった。その瞳が、何かを見据えるように遠くを見つめる。
「雪琪姐、実はね……」
「何だ?」
「ちょっと、平然のやつがお前に用事があるって言ってたんだ。時間を作ってやってほしいって」
その瞬間、陸雪琪の心に一つの名が浮かんだ。平然。大竹峰の六番弟子。彼女にとってはただの年下の師弟の一人であり、特に印象に残る存在ではなかった。しかし今、その名を聞いた時、なぜか胸の奥に微かなざわめきが走った。
「平然が?」
「うん、何か大切な話があるんだって。でも、私には何かは教えてくれなかった。雪琪姐が忙しいなら無理にとは言わないけど……」
陸雪琪は少し考えた。確かに特に断る理由もない。大竹峰の師弟同士の付き合いとして、一度顔を合わせるくらいは問題ないだろう。
「分かった。時間を決めて知らせる」
「ありがとう!」
田灵儿の笑顔は一層輝いたように見えた。しかしその瞬間、陸雪琪は田灵儿の瞳の奥に、まるで鏡のような冷たい光を見た気がした。しかし、すぐにそれは消え去り、ただの陽光の反射のように思えた。
「では、私はこれで失礼するね」
田灵儿はそう言って去っていく。その後ろ姿を見送りながら、陸雪琪は何かがおかしい、と感じた。しかし、その違和感の正体を掴むことができない。まるで水の中の月のように、捉えようとすればするほど、すり抜けていった。
その頃、大竹峰の一室で、平然は静かに目の前の香炉を見つめていた。白い煙が立ち上り、室内に甘い香りを漂わせている。彼の手元には一枚の符が置かれており、その表面には細かい文字が刻まれていた。
「順調だ……」
彼は小声でつぶやく。その声には、微かな愉悦の色が混じっていた。
彼は香炉の中の香を新しいものに取り替えた。この香は特別に調合されたもので、微量の霊薬と催眠効果を持つ草材が含まれている。陸雪琪がこの香を嗅ぐたびに、彼女の心の中の仕切りが徐々に薄れていく。今の段階では、まだ目に見える変化は現れていないが、確実にその効果は蓄積されていた。
「雪琪師叔は強い。だからこそ、時間をかけてじっくりと……」
平然はそう言いながら、香炉の煙が窓の外へと流れていくのを見つめた。
翌日、陸雪琪は大竹峰へ向かった。表向きの理由は、田灵儿に続けて修行の指導をするためだった。しかし、心のどこかで、彼女は平然という存在に引き寄せられているような不思議な感覚を抱いていた。
大竹峰の山門をくぐると、まず目に飛び込んできたのは、庭で修行に励む張小凡の姿だった。彼は真剣な表情で剣を振っている。それが何かを思い出させるような、遠い記憶のようなものを呼び起こす。しかし、その記憶はすぐに霧の中に消えた。
「雪琪姐!」
田灵儿の声が聞こえる。彼女は赤い衣をひらひらさせながら走り寄ってくる。
「ああ、来てくれたんだね。平然が待ってるよ。こっちこっち」
陸雪琪は田灵儿の案内で、大竹峰の奥にある小さな静室へと向かった。そこは普段は誰も使わない場所で、周囲には竹林が茂り、静寂に包まれている。
「ここだよ。私はここで待ってるね」
田灵儿はそう言って、陸雪琪を押し出すように静室の戸を開けた。中は薄暗く、一つの香炉から白い煙が立ち上っている。その中央に、平然が座っていた。
「ようこそ、雪琪師叔」
平然は立ち上がり、恭しく頭を下げた。その仕草は実に丁寧で、礼儀正しいものだった。しかし、その目はわずかに細められ、陸雪琪の一挙一動を見逃さないように注視している。
「何の用だ」
陸雪琪は簡潔に問う。彼女の口調はいつも通り冷たく、無駄な感情を含ませない。
「実は、修行についての質問があります。どうしても雪琪師叔の助言が必要でして」
平然はそう言いながら、何気なく香炉の香を一つまみ増やした。その香りが一層濃くなり、空間に拡がっていく。
「修行の質問? それは田灵儿からも聞いたが、具体的には何だ」
「はい。私は最近、体内の霊気の流れに乱れを感じています。特に玄関の穴のあたりに、滞りがあるように思います」
平然の言葉は穏やかで、まるで本当に悩みを打ち明けるかのようだった。陸雪琪は彼の言葉に耳を傾けながら、無意識のうちに香炉のそばへと歩み寄っていた。
「その症状は、霊気の巡りが不足している証拠だ。丹田を温め、気を全身に巡らせよ」
「なるほど。では、どのような方法で丹田を温めれば良いのでしょうか」
平然はさらに質問を重ねる。それは自然な師弟間の問答であり、何の不自然もない。しかし、その一つ一つの言葉が、陸雪琪の意識の奥深くに、見えない糸を巻き付けていくかのようだった。
「静かに座禅を組み、呼吸を整え、内視を行え……」
陸雪琪は自然と指導の言葉を口にする。その声は自分のものだが、どこか遠くから聞こえてくるようでもある。
その時、彼女の頭の中に、かすかに別の声が響いた。
(……違う……ここは……)
しかし、その声はすぐに沈黙した。まるで誰かが彼女の意識に蓋をしたかのように。
「雪琪師叔、少し休憩しませんか? こちらの香は疲れを癒す効果があります」
平然がすすめる香を、陸雪琪は無意識に嗅いでいた。甘く、微かに苦い香りが鼻腔を通り抜け、直接脳髄に染み込んでいく。
「うん……」
彼女は小さく答え、座禅を組んだ。目の前の世界が少しぼやけ始めている。しかし、それは疲れのせいだと思った。何の疑いもなく、彼女は目を閉じた。
平然は静かに立ち上がり、陸雪琪の背後に回った。彼の手には一枚の符があり、その表面には複雑な模様が刻まれている。
「雪琪師叔、今から重要な話をします。よく聞いてください」
平然の声が低く、穏やかに、しかし明確に響く。その声は陸雪琪の耳を通り、直接彼女の心の奥深くに届く。
「あなたの中には、もう一人のあなたがいます。しかし今のあなたは、それを知る必要はありません。すべては私が導きます。あなたの意識は、今、私の言葉に従うだけです」
陸雪琪の眉がわずかにひそめられる。何かが引っかかる。しかし、その抵抗はすぐに香の甘い香りに包まれ、消えていった。
「はい……分かりました……」
その言葉は、彼女自身の口から発せられた。しかし、それは本当に彼女の意思なのか、確信が持てない。
平然は満足げに笑みを浮かべた。彼は符を空中に掲げ、軽く振る。符は一瞬にして炎に包まれ、灰となって香炉の中に落ちた。
「雪琪師叔、もう少しお休みください。目が覚めたら、今日のことは忘れましょう。ただ、私の言葉は心の奥に残ります」
平然の声が、まるで子守唄のように陸雪琪を包む。彼女の意識は次第に薄れ、深い眠りへと落ちていった。
目が覚めた時、陸雪琪は静室の中で一人座っていた。香炉の香はすでに絶え、部屋には冷たい空気だけが残っている。
「……ここは?」
彼女は首をかしげ、周囲を見渡す。大竹峰の静室。自分がなぜここにいるのか、記憶がはっきりしない。ただ、何かの用事があったはずだと思い、立ち上がった。
「おや、雪琪姐、起きたの?」
静室の戸が開き、田灵儿が顔をのぞかせる。その表情は無邪気そのものだ。
「どうやら、私、疲れていたようだ」
陸雪琪はそう言って立ち上がる。特に不調はない。ただ、頭の奥に薄いもやがかかっているように感じるが、修行の疲れだろうと思った。
「もう夕方だよ。今日はもう戻った方がいいよ」
田灵儿の言葉に、陸雪琪は頷いた。確かに、そろそろ小竹峰に戻るべきだろう。彼女は田灵儿に別れを告げ、山道を下っていった。
その後ろ姿を見送りながら、田灵儿の目が一瞬だけ冷たい光を宿した。しかし、すぐにそれは消え、再び無邪気な少女の表情に戻る。
静室の中、平然は一人で座禅を組んでいた。彼の手元には一冊の古い書物が開かれており、そのページには催眠術に関する詳細な記述が並んでいる。
「第一段階、完了」
彼は小声でつぶやく。進捗は50%。予定通りだ。
陸雪琪は自分の中にもう一人の自分が存在することに気づいていない。いや、気づくことができない。平然は、第一人格が第二人格の存在を完全に隔絶するように暗示をかけ、さらに二つの人格を瞬時に切り替える方法も仕込んでいる。今、彼女の中にいるのは完全に第一人格だけであり、第二人格は深い眠りに落ちている。いつでも呼び覚ますことができるが、彼女自身にはそのことが分からない。
「雪琪師叔、あなたは少しずつ、私のものになる」
平然の声が静室に響く。その声には、確かな自信と愉悦が込められていた。
夕日が竹林を通り、部屋の中に長い影を落とす。その影が、まるで何か大きな生き物のように蠢いているかのようだった。