星曆三二一年、帝都アクエリアスの夜空に浮かぶ三つの月が、貴族街の邸宅群を青白く照らし出していた。史家の屋敷は正面玄関から既に豪奢な装飾が施され、今夜の宴席が格別の催しであることを物語っている。
劉星児は銀糸で刺繍された薄紫のドレスを纏い、一歩一歩を優雅に玄関へと進めた。後ろには侍従が二人続き、彼女の裾を丁寧に持ち上げている。十七歳の王女は、幼い頃から宮廷の作法を叩き込まれて育った。その立ち居振る舞いは、まさに帝国の誇るべき姫君そのものだった。
「第三皇女殿下、劉星児様の御到着でございます!」
取り次ぎの声が大広間に響き渡ると、室内の貴族たちが一斉に視線を向けた。星児は少しだけ顎を上げ、微笑みを浮かべながら歩を進める。その瞳の奥には、しかし、表向きの優雅さとは別の何かが潜んでいた。
史家の当主、史明徳がすぐに近づいてきた。年の頃は五十前後、肥満気味の体を格式ばった礼服で包み込み、手には酒杯を持っている。
「これはこれは、星児様、お越しくださいまして誠に光栄に存じます。どうぞ、お好きなものをお召し上がりください」
「史卿、お招きに預かりありがとうございます。今夜は特に賑やかですね」
「はい、ご覧の通り、連邦から捕らえた捕虜奴隷も何名か展示しております。よろしければ後ほどご覧ください」
星児の心臓が一瞬だけ跳ねた。奴隷展示。そういう趣向の宴席か、と内心で呟く。表面上は穏やかな笑みを保ったまま、彼女は広間の奥へと進んだ。
シャンデリアから降り注ぐ光は金色に輝き、大理石の床に幾重もの影を落としている。貴族たちは思い思いに酒杯を傾け、連邦の敗北や奴隷貿易の益々の隆盛を語り合っていた。その笑い声は、星児の耳にはどこか空虚に響いた。
彼女は手にしたグラスの中身を一口含みながら、何気なく広間の隅へと目を向けた。そこには一際華やかな装飾が施された台座が並び、数体の奴隷が鎖で繋がれている。どれも若い女たちで、その多くは連邦から拉致されてきた者たちだった。
星児は足を止めた。瞳が一瞬、大きく見開かれる。
台座の一番奥にいた二人の女奴隷。一人はショートヘアで体格がしっかりとしており、もう一人は長い髪を後ろで束ね、顔を俯けている。その長い髪の女奴隷が、ふと顔を上げた。
星児の全身が硬直した。
似ている。いや、そうではない。あの顔立ち、あの輪郭——まるで姉の劉悦だ。
星児は自分が酒杯を落としそうになったのを必死に堪えた。姉は三年前、人質として連邦に派遣された。そして二ヶ月後、連邦の急襲により行方不明となった。帝国の情報部は「死亡の可能性が高い」と報告した。両親も、星児自身も、やがて姉の死を受け入れた。
しかし今、あの女奴隷の腕にあるもの——それは間違いなく、姉が幼い頃に落馬してできた三日月形の傷跡だった。
星児の呼吸が浅くなる。彼女はゆっくりとその場を離れ、広間の端にあるバルコニーへと足を向けた。夜風が頬を打つ。彼女は手すりに両手をつき、荒くなる息を整えた。
「ありえない……あの人が、姉上なわけがない……」
声が震えた。しかし、もう一度確認せねばならない。星児は決意を固め、再び広間へと戻った。
奴隷展示エリアには、数人の貴族が集まっていた。一人の若い貴族——張偉が、鎖に繋がれた女奴隣たちを品定めしている。彼の瞳には獣欲が宿り、口元に嫌らしい笑みが浮かんでいた。
「これはこれは、よい品ばかりだな。史卿の目利きは確かだ」
「張偉様、お褒めいただき光栄に存じます。こちらの二人は特に珍しく、連邦の軍将校だった者と、その副官でございます」
史明徳が指し示した先には、先ほど星児が見た二人の女奴隷が立っている。長い髪の女は再び俯き、ショートヘアの女は鋭い目つきで周囲を睨みつけていた。
星児はゆっくりと近づいた。心臓は激しく鳴っているが、表には一切出さない。彼女は優雅な態度を崩さず、微笑みを浮かべた。
「史卿、こちらが例の連邦出身の奴隷でございますか?」
「はい、星児様。ご興味がおありでしたら、どうぞごゆっくりご覧ください」
星児は長い髪の女奴隷の前に立った。彼女は相変わらず顔を上げない。星児はそっと手を伸ばし、彼女の顎に指をかけた。
「顔を上げなさい」
その声は柔らかだが、命令の色を帯びていた。女奴隷がゆっくりと顔を上げる。
星児の息が止まった。
間違いない。この目、この鼻筋、この薄い唇——姉の劉悦そのものだ。ただし、その瞳にはかつてあった自信と誇りの光が完全に消え失せ、代わりに虚ろな従順の色が浮かんでいる。
「あなたの名前は?」
「……ルーシーと申します、ご主人様」
声もまた、姉のものだった。しかし、その口調は全くの別人だった。かつて宮廷で笑い合った姉の声は、もうどこにもない。
星児の指が微かに震えた。彼女は長く息を吐き出し、平静を装って手を離した。
「史卿、私、この二人の女奴隷に興味が湧きました。お譲りいただくことは可能でしょうか?」
その言葉に、史明徳の顔が一瞬曇ったが、すぐに笑顔を作った。
「もったいなきお言葉。しかし星児様、こちらは今夜の宴席の目玉として準備したものでございまして……」
「値段はいくらでも出します。それとも、私の頼みをお聞き入れいただけないと?」
星児の瞳が一瞬で冷たくなった。王女としての威厳が全身からあふれ出る。史明徳はたじろぎ、すぐに頭を下げた。
「い、いいえ、滅相もございません。星児様のお望みとあらば、喜んでお譲りいたします。すぐに書類を整えさせますので、しばしお待ちください」
「ありがとうございます、史卿」
星児は優雅に一礼し、再び長い髪の女奴隷——いや、姉の劉悦——を見つめた。姉は何も言わず、ただ俯いている。
「連れて行きなさい」
星児が言うと、侍従たちが前に出た。鎖が外され、二人の女奴隷は星児の後ろに控えるように連れられた。
星児は広間の中央へと戻りながら、内心で思いを巡らせていた。姉がなぜこんな姿にされているのか。奴隷として三年間、何が起こったのか。そして——自分は姉を解放すべきなのか、それともこのまま「所有」するのか。
ふと、星児の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
解放——それは簡単な選択だ。しかし、姉の瞳にあったあの従順な光は、何かを思い出させた。自分が幼い頃、父王に従順に仕える母后の姿を。
星児は自分が何を考えているのか、はっきりとは理解していなかった。ただ、胸の奥で何かがざわつき、そのざわつきが快感にも似た感覚を伴っていることだけは確かだった。
宴席が終わり、星児は用意された車両に乗り込んだ。後ろの車両に二人の女奴隷が乗せられる。彼女は窓の外を見つめ、流れていく夜景をぼんやりと眺めた。
明日、この二人の女奴隸をどうするか。それはまだ決まっていない。しかし、少なくとも今夜は——姉の帰還を静かに祝おう。
星児の瞳が、月明かりの中で一瞬、妖しく輝いた。