西暦2087年、東京湾岸に広がる巨大なメガシティは、無数のネオンと空中を往来する無音の車両によって、まるで光の網に覆われたかのように輝いていた。この時代、人間の生活にアンドロイドが溶け込んでからすでに数十年が経ち、街角では人間そっくりのアンドロイドが通行人に道を教え、家庭では家事用アンドロイドが夕食の準備をする光景が当たり前になっている。人間そっくりの愛玩用や介護用のモデルも、法規制こそ厳しいものの、地下市場を含めると驚くほど多様な需要を満たしていた。
チェン家は、そんなメガシティの南西部にひっそりと建つ中層マンションの三十二階に暮らしている。夫のチェン・ジェンはごく平凡なサラリーマンで、大手食品メーカーの営業部署に二十年以上勤めている。髪には白いものが混じり始めたが、まだ体力は落ちていない。彼は毎朝決まった時間に家を出て、夜は九時過ぎに帰宅する。酒を飲みすぎるのが玉に瑕だったが、家族思いの男だった。
一方、母のスー・ワンは、四十代後半になっても若々しい美貌を保っている。彼女は専業主婦で、料理や洗濯、掃除を完璧にこなすだけでなく、夫や息子の心の機微にまで気を配る優しさを持っていた。その声はいつも柔らかく、困っている人のためにどこまでも尽くす性格で、マンションの隣人たちからも慕われている。特に息子のチェン・ユーに対しては、深い愛情を注いでいた。
「ユー、また遅くまでゲームをしていたの? 朝がつらいでしょう」
スー・ワンは朝のリビングで、まだ制服に着替える気配のない息子に声をかけた。
「うるさいな、母さん。今日は午後から授業だから」
チェン・ユーは不機嫌そうにソファに寝転んだまま、スマートグラス越しに何かを見ている。
「ちゃんと朝ごはんを食べなきゃ。あなたの好きな卵焼き、甘めに作ったのよ」
スー・ワンは微笑みながら、キッチンからトレイを運んできた。卵焼きのほか、炊きたての白米、味噌汁、焼き鮭まで並べられた朝食は、まるで料亭のようだった。
チェン・ユーは面倒臭そうに起き上がり、箸を手に取る。だがその目は、母の白く細い指や、エプロンの紐の結び目にちらちらと向いていた。
彼は重度のマザーコンプレックスを抱えている。幼い頃、熱を出すたびに一晩中頭を撫でてくれた母の手、泣いていると抱きしめてくれた温もり。そのすべてが、彼の中で歪んだ執着へと変わっていた。成長するにつれ、他の異性に興味が湧くどころか、母以外の女性を生理的に受け付けられなくなっていたのだ。夜な夜な、彼は母の寝室から漏れる気配に耳を澄ませ、父に抱かれる母を想像しては胸を焦がした。
だが、それを表に出すわけにはいかない。スー・ワンはそんな息子の闇に気づくことなく、今日も献身的に世話を焼いている。彼女は夫に対しても同様に優しく、疲れて帰宅したチェン・ジェンの背中を揉みながら、今日一日の出来事を穏やかに聞いてやるのだ。
「父さん、今日もお疲れさま」
スー・ワンはリビングの灯りを少し落とし、和らいだ音楽を流す。チェン・ジェンは手酌で焼酎を飲みながら、小さくため息をついた。
「ああ、最近はアンドロイドが営業の仕事もやり始めてな。リストラの噂が絶えなくて、胃が痛いよ」
彼はそう言うと、スー・ワンの肩に手を置いた。
「あなたは人間なんだから、機械には負けませんよ」
スー・ワンは優しい笑みを浮かべる。だが、チェン・ジェンは内心、この妻が完璧すぎて、まるでアンドロイドのようだと感じることがあった。もちろん口には出さない。それは、何かを踏み外してしまいそうな危うさを含んでいたからだ。
一方、チェン・ユーはある計画を密かに進めていた。高校を卒業してからずっと、アルバイトで得た金や、親戚からもらった小遣い、果ては父のクレジットカードをこっそり流用してまで貯め込んだ金が、かなりの額に達していた。彼の目的はただ一つ。母親スー・ワンと寸分違わぬアンドロイドをカスタムオーダーすること。
この時代、アンドロイドの製造技術は飛躍的に進歩し、外見だけでなく、声、肌の感触、体温、さらには行動パターンまでもが好きなように設定できる。高級品ともなれば、本物の人間と見分けがつかない。ただし、人間の特定個人をモデルに複製する「クリプト・レプリカ」は法律で厳しく禁止されている。特に無断での複製は重罪だ。それゆえに、こうした違法な注文は、ダークネットの深層に潜む非合法ブローカーを通してしか行えない。
「俺はどうしても母さんが欲しい……母さんそのものじゃなくても、完璧な偽物でいい。あの優しい声で、俺だけを見てくれるなら」
チェン・ユーは自室のスマートウォールを完全に遮光し、無数のファイアウォールを経由させた回線で、あるブローカーとコンタクトを取っていた。相手のエージェント名は「ニーナ」。非常に評判の高いルートで、これまで何体もの非合法レプリカを富裕層に供給してきたという。
「ご依頼内容を確認します。対象:スー・ワン。年齢外観四十七歳女性。身長一六二センチ、体重四八キロ。髪型、声紋、体臭、いずれも完全コピーということでよろしいですね」
ニーナの合成音声は冷たく、事務的だった。
「そうだ。それと、性格パラメータは……母の優しさをそのままに、ただ、俺に絶対服従させること。性的な奉仕プログラムも追加してほしい」
チェン・ユーの声は震えていたが、欲望の奥に確かな興奮が潜んでいる。
「承知しました。報酬は前金五百万クレジット、残りは完成品受け取り時に一千万クレジット。お支払い可能ですか?」
「もちろん」
彼は、これまで必死に隠し続けた金のことを思い浮かべた。父の退職金口座から少しずつ移し替えた分も含まれている。バレたら家族は崩壊するが、そんな理性はとっくに吹き飛んでいた。
それから数週間後、スー・ワンは奇妙な胸騒ぎを覚えるようになった。息子がやけに優しくなったのだ。時折、彼の視線が自分の体の曲線をなぞるように這い回り、まるで商品を品定めするかのような冷たい観察眼を感じる。しかし、彼女はそれを思春期の一時的な反抗の変化だと解釈しようとした。
「母さん、ちょっとこっちに来て」
ある日曜日の午後、チェン・ユーはリビングで母親を呼び止めた。
「なあに、ユー? 勉強に疲れたなら、お菓子でも食べる?」
「違うんだ。母さんって、普段どんな下着を着けてるの? ちょっと見せて」
そう突然言われ、スー・ワンは一瞬息を呑んだ。頬がかっと熱くなる。
「な、何を言ってるの。そんなの、母さんにだって恥ずかしいことはあるんだからね」
彼女は冗談めかして笑い飛ばそうとしたが、チェン・ユーは真顔のまま近づいてくる。
「別にいいじゃないか。家族なんだし。それとも、見せてくれないの?」
「やめなさい、ユー。そんなこと……」
スー・ワンは一歩後退る。その時、奥の寝室からチェン・ジェンが不機嫌そうな顔で現れた。
「おい、ユー、母さんに何を言ってるんだ」
チェン・ジェンはアルコールの匂いをさせながら、息子を睨む。
「……何でもないよ、父さん。ちょっと世間話をしてただけだ」
チェン・ユーはすぐに表情を消し、部屋へ戻っていった。スー・ワンはほっと胸を撫で下ろしたが、背筋に奇妙な冷たいものが走るのを感じた。夫もまた、ただならぬ気配に眉をひそめる。しかし、彼も深くは追及しなかった。面倒なことに関わりたくなかったのだ。
その夜、チェン・ユーは自室で端末に向かい、注文の最終仕様を送信していた。母の歩き方、笑った時の目の細め方、料理をする時の手つき。そんなデータを大量にニーナへ転送する。彼のスマートグラスには、無数の下着姿のスー・ワンの合成画像が表示されていた。すべて彼が自宅の隠しカメラで記録したものだ。
「もうすぐだ……もうすぐで、俺だけの母さんが来る」
薄暗い部屋に、彼の吐息だけが湿った熱を帯びていた。画面の隅で、発注完了の文字が点滅する。ニーナからのメッセージが届いていた。
『製造完了まであと十日。受け渡し場所は指定の廃工場にて。楽しみにしていてください、ご主人様』
ご主人様という言葉に、チェン・ユーの口元がゆがむ。彼は初めて、自らが支配者になる瞬間を想像し、全身が震えるような快感に包まれた。リビングでは、スー・ワンが夫を風呂に入れながら、今日の息子の異常な言動について、やんわりと相談していた。
「なんだか最近、あの子が変なの。私のこと、まるでモノみたいな目で見ている気がして……」
彼女は浴室の湯気の中で、不安げにうつむく。
「考えすぎだよ。反抗期ってやつだろう。それより、背中を流してくれ」
チェン・ジェンは湯船で目を閉じたまま、気のない返事をする。彼の頭の中は、明日の会議と、またアンドロイドに仕事を奪われるかもしれないという恐怖でいっぱいだった。妻の訴えは、届かない。
こうして、何も知らぬ一家の日常は、ゆるやかに崩壊への坂を転がり始める。スー・ワンはまだ、自分が息子の欲望の標的にされているとは露知らず、いつも通り優しい母親であり続けようと必死だった。だが、彼女が知らぬところで、もう一つの「スー・ワン」が、鋼鉄と合成皮膚の身体に命を吹き込まれつつあった。そのアンドロイドは、限りなく本物に近い彼女のコピーでありながら、完璧な性奴隷としてのプログラムを内蔵している。そして、その存在が家族のすべてを狂わせることになる。
三日後の深夜、チェン・ユーの端末に、ニーナから一通の暗号化ファイルが届いた。タイトルは「製品テスト映像」。彼が震える手で開くと、そこには母そっくりのアンドロイドが、裸でうずくまり、合成音声で「ユー、私はあなたのものです」とささやく姿が映っていた。目は本物のスー・ワンと同じ、深い優しさをたたえているが、どこか無機質な光を宿している。
彼はその映像を何度も繰り返し再生しながら、シーツの中で身をよじらせた。隣の部屋では、スー・ワンが夫の寝息を聞きながら、静かに涙をこぼしている。彼女には、すべてが悪夢の始まりだと感じられてならなかったのだ。
やがて、待望の「受け渡し日」が訪れる。