夕風と少年

站点:NovelAI.one内容:前8章在线试读ID:945c8cf1更新:2026-07-26 08:24
長いフライトを終え、到着ロビーに足を踏み入れた瞬間、むっとする湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。林逸は大きなスーツケースを引きずりながら、人混みの中をゆっくりと進んでいく。見知らぬ顔ばかりの群れの向こうから、時折日本語と北京語が入り混じったアナウンスが流れてくる。それさえも、十年ぶりに帰ってきたこの国では、ひどく新
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空港での初対面

長いフライトを終え、到着ロビーに足を踏み入れた瞬間、むっとする湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。林逸は大きなスーツケースを引きずりながら、人混みの中をゆっくりと進んでいく。見知らぬ顔ばかりの群れの向こうから、時折日本語と北京語が入り混じったアナウンスが流れてくる。それさえも、十年ぶりに帰ってきたこの国では、ひどく新鮮に感じられた。

出国ゲートを抜けると、手に「林逸」と書かれたプラカードを持った女性が目に入る。彼女は人垣の少し離れたところに立ち、落ち着いたベージュのワンピースを風に揺らしていた。年のころは三十代半ばといったところか、化粧は控えめなのに、その顔立ちのせいで周囲から浮き立つような気品がある。林逸は一瞬、歩みを止めた。胸の奥が、妙に騒つくのを感じる。

彼が近づいていくと、女性もこちらに気づいたらしく、プラカードを下ろし、微かに口元をほころばせた。

「林逸くん……よね?」

声は低く落ち着いていて、けれど少しだけ緊張を帯びている。

「はい。蘇……お義母さん、ですか?」

彼はつい、その呼び方を口にしてしまってから、少し気恥ずかしくなる。

蘇晩晴は軽くうなずいた。

「そう。初めまして、晩晴です。お父さんが急な会議で来られなくて、ごめんなさいね。」

「いえ、わざわざありがとうございます。」

丁寧に頭を下げると、彼女はさりげなくスーツケースに手を伸ばした。

「荷物、半分持ちましょうか?」

「大丈夫です。自分で。」

林逸は慌てて断りながらも、彼女のその仕草に、胸のあたりがほんのり温かくなるのを感じていた。これまで写真でしか見たことのなかった継母は、想像していたよりずっと若々しく、そして何より、目が離せなくなるような魅力を放っていた。

駐車場へ向かう道すがら、ふたりの間にしばらく会話はなかった。林逸は隣を歩く彼女の横顔を、盗み見るようにちらちらと見つめてしまう。風がふわりと髪を揺らすたび、微かに香水の匂いが香って、それがどうにも落ち着かない。

「飛行機、長かったでしょ。疲れたんじゃない?」

蘇晩晴がようやく口を開いた。

「ええ、少し。でも、そんなにでも。」

「イギリスにいたのは、十年くらいになるの?」

「はい。小学校の途中からずっと。」

「そう……じゃあ、こっちの生活は久しぶりなのね。」

車に乗り込むと、彼女は落ち着いた手つきでエンジンをかけた。セダンの車内はひんやりと冷房がきいていて、外のむっとした空気との落差がかえって心地いい。

林逸は助手席に座り、シートベルトを締めながら、つい、尋ねてしまった。

「あの、差し支えなければ……お義母さんはおいくつですか?」

蘇晩晴は意外そうに片眉を上げ、それから小さく笑った。

「急にどうしたの? 私は、三十七よ。」

三十七。つまり、自分より十九も年上だという計算になる。なるほど、と思いながらも、その数字がかえって彼女の存在を、より遠く、手の届かないもののように感じさせる。それなのに、目が離せない。シフトレバーを操作する指先の動きひとつとっても、妙に色っぽく見えてしまう自分がいた。

高速道路を走り出すと、会話は途切れがちになった。彼女は運転に集中しているのか、それとも義理の息子との距離をどう詰めればいいのか戸惑っているのか、時折ハンドルを握り直すしぐさを見せる。林逸は窓の外へ流れていく街並みを眺めながら、胸の奥に生まれた奇妙な感情を、どう名付ければいいのかわからずにいた。

「大学の準備は大丈夫? 入学式までもうすぐでしょ。」

蘇晩晴が、ふと思い出したように言った。

「はい、必要書類は揃えてあります。あとは住むところだけ。」

「しばらくは、うちにいなさい。お父さんもそう言ってたし。」

「……ありがとうございます。」

彼は短く答え、それからガラスに映る彼女の横顔をまた盗み見る。彼女の言葉はあくまで事務的で、家庭人としての義務を果たそうとしているだけかもしれない。でも、その声の奥に、かすかな孤独のようなものが潜んでいる気がして、胸の奥がちくりと痛む。

やがて車は、郊外の落ち着いた住宅街へと入っていった。蘇晩晴がハンドルを切ると、小ぎれいな一戸建ての前に車が止まる。門の脇には小さな花壇があり、手入れの行き届いたバラが咲いていた。

「ここよ。さあ、入って。」

彼女が車を降りながら言う。林逸もあとに続き、スーツケースを引きずりながら玄関へ向かう。

家の中は、思っていたよりずっと温かみのある空間だった。リビングには観葉植物が置かれ、ソファの上にはさりげなくブランケットが掛けてある。生活の匂いがする家だった。

「荷物は二階の部屋に運んでおくわね。手伝う?」

「いえ、自分でやります。」

そう言いながらも、林逸は彼女の背中を目で追ってしまう。階段を上がっていくその姿は、三十代後半とは思えないほどしなやかで、目が吸い寄せられるのを止められなかった。

夕方になり、父親の林哲が帰宅すると、そのまま三人で近所のレストランへと向かうことになった。父は仕事の疲れをものともせず、豪快に笑いながら林逸の肩を叩く。

「久しぶりだな、ずいぶん大きくなって。晩晴ともちゃんと挨拶できたか?」

「ああ、うん……」

林逸は曖昧に答え、視線をテーブルの向かい側へと移す。蘇晩晴はメニューを開きながら、静かに微笑んでいた。白いブラウスの襟元から覗く首筋が、照明の下でほのかに輝いて見える。

個室の座敷に通されると、父親はさっそくビールを注文し、林逸には烏龍茶をすすめた。

「まだお前は酒は早いだろう。大学生になったらこっそり飲むんだろうけどな。」

「お父さん、あまり変なこと教えないでください。」

蘇晩晴が苦笑しながら口を挟む。その口調は夫に対する親しみが込められていて、けれど林逸が聞く限り、どこか一定の距離を保とうとしているようにも思えた。彼女が父とどういう関係で、どういう思いでこの結婚を続けているのか、まだよくわからない。

料理が運ばれてくると、父親はイギリスでの話をあれこれと尋ね、林逸はそれに短く答えながら、ほとんど無意識のうちに、蘇晩晴の手元を見つめていた。彼女が箸をとるしぐさ、スープをすするときの口元の動き、時折うなじにかかる髪を耳にかける仕草、そのすべてが、年齢を感じさせない優雅さに満ちていて、目が離せない。胸が詰まるような感覚が、何度もこみ上げてくる。

「逸、どうした? 疲れたのか?」

父親が怪訝そうに声をかける。

「いや、大丈夫。ちょっと時差ぼけかも。」

林逸は慌てて茶を一口すすり、心の動揺を隠す。

向かいの蘇晩晴が、ほんの少しだけ首をかしげて、彼を見つめ返した。その黒い瞳には、やはり何か言いたげな光があったが、すぐにまた伏し目がちになり、料理へと視線を戻す。

食卓には、父親の陽気な話し声だけが空回りしていた。林逸はその声を遠くに聞きながら、隣にいるはずなのに、遥か遠くに感じるこの女性のことを、ぼんやりと考えていた。

彼女の心の中には、どんな想いが渦巻いているのだろう。父と結婚して三年。けれどこの家に来てみると、どこか彼女がひとりで立っているような、そんな寂しさを感じさせる空気がある。それが、ただ単に歳の離れた継子に対する遠慮なのか、それとももっと深い孤独のせいなのか、林逸には判断がつかなかった。

ただ一つだけ、はっきりとわかることがあった。自分は今、この人に、抗いがたく惹かれはじめている、と。

それがどれほど厄介な感情なのか、彼はまだ、知らなかった。

屋根の下の温もり

庭に面した窓から、午後の光が斜めに差し込んで、縁側の木目の床の上にオレンジ色の光の帯を敷いていた。林逸はスリッパを脱いで、廊下の柱に寄りかかり、静かに庭を眺めていた。

国内の大学に入学してから、すでに半月が経っていた。講義も、食堂も、寮生活もなかったけれど、彼はすべてに少しずつ慣れ始めていた。父親は相変わらず海外で忙しく飛び回っていて、この郊外の別荘には、彼と、それから——蘇晩晴だけが残されていた。

蘇晩晴。

その名前を心の中で唱えるたびに、彼の胸の奥はまるで羽根でそっと撫でられたかのように、かすかで、しかしくすぐったい感覚がした。

最初に彼女を見たときの衝撃は、まだ昨日のことのように鮮明だった。三十七歳の女性が、どうしてあんなにも美しく、しかも控えめな威厳を備えているのか、彼には分からなかった。彼女は決してわざとらしく振る舞わず、余計な言葉も言わなかったが、ただそこに立っているだけで、彼の視線を吸い寄せてしまうのだった。

朝、林逸が階段を下りてキッチンに入ると、彼女はもうエプロンをつけて忙しく動き回っていた。

「起きたのね。おかゆを炊いたから、温かいうちに食べて。それから卵焼きもあるわよ」

蘇晩晴は振り返らずに言った。声は落ち着いていて、まるでこうしたことは彼女にとってごく自然なことであるかのようだった。

「ありがとう……お義母さん」林逸は少しだけ間を置いてから、そう呼びかけた。たった二文字の言葉だったが、口に出すのに不思議な努力が必要だった。

蘇晩晴の手がほんの少し止まったように見えたが、すぐにまた何事もなかったかのように箸で卵をくるりと巻いた。「さあ、座って。学校は遠いから、遅刻してはいけないわ」

彼は食卓に着き、湯気の立つおかゆを口に運んだ。米がとろけるように柔らかく、胃に落ちると全身が温かくなった。蘇晩晴は彼の向かいに座り、手には黒いコーヒーだけを持っていた。

「お義母さんは食べないの?」

「朝はあまり食欲がなくてね」彼女はカップの縁をそっと撫で、視線は窓の外の庭へと向けられていた。

林逸はうつむき、それ以上は聞かなかった。彼は彼女が朝の新鮮な空気の中で、一人静かに思案にふける時間を大切にしていることを知っていた。

大学の講義は夕方四時過ぎに終わった。林逸は学生たちの喧騒から逃れるように、いつも少し早めにバスを降り、ゆっくりと歩いて別荘へ戻った。

門を押し開けると、遠くから蘇晩晴の横顔が見えた。彼女は庭の藤棚の下に座り、白い陶器のティーカップが手元に置かれ、膝の上には開かれた本があった。彼女は読むとき、少し首をかしげ、時折髪の一房がこめかみから落ちて来るのだが、彼女はそれを気にする様子もなく、ただ指先で優しく耳の後ろへとかき上げるだけだった。

彼はその動作がとても美しいと思った。

最初、林逸は邪魔をしてはいけないと思い、ただ静かに通り過ぎるだけだった。けれど、何日も続けて彼女がほぼ同じ時間にそこに座り、お茶を飲み、本を読んでいることに気づき、彼は自分の足を止められなくなった。

「晩晴おばさん」。ある日、彼は呼び名を変える勇気を持った。まるで無意識に、でも確信的にそう呼んだのだ。

蘇晩晴は顔を上げ、その目に一瞬驚きの色が走ったが、すぐに穏やかさと少しの諫めるような微笑みに変わった。「帰ったの。おばさんと呼ぶなんて、随分と大人になった気でいるのね」

「だって、とても若く見えるから」。林逸は自然に彼女の向かい側の椅子に腰を下ろした。「よくここでお茶を飲んでいるんですか?」

「ええ、この時間の日差しが一番好きなの」蘇晩晴はティーポットを傾け、彼のためにも一杯注いだ。「授業は大変?」

「大丈夫です。もう慣れたから」林逸は茶碗を受け取りながら、彼女の目をまっすぐに見つめた。

蘇晩晴は彼の視線を、まるで気づかなかったかのように優雅に避け、庭の隅にある芍薬の花を見つめた。「そこの花が咲きそうよ。気付いた?」

林逸は彼女が見ていた方向を見つめ、うなずいた。「芍薬はいつも梅雨の前に咲きますね。子供の頃、家の庭にもたくさんあって、母がとても好きでした」

話題が不意に母親のことに触れたので、蘇晩晴は視線を戻し、慎重に彼を見つめた。彼女は彼が口に出さない多くのことを理解していた。母親のいない少年、異国で育ち、今は見知らぬ誰かを“お義母さん”と呼ばなければならない少年。彼女は口を開き、何か言おうとしたが、やはりやめて、ただ柔らかい声で言った。「これからは、ここを自分の家だと思いなさい」

「うん」。林逸は茶碗を傾けて一口含んだ。それは正山小種という紅茶で、蘭の香りがふわりと鼻を抜け、ほんのわずかな甘みを残した。

それからしばらくの午後、彼は“偶然”庭で彼女と会うようになった。彼は彼女の本棚から借りてきた難しい経済史を手にして、わざと彼女の向かいの席に座り込んだ。蘇晩晴は何も言わなかったが、いつも決まって彼の分のお茶も用意した。

彼らは多くを語らなかった。時折、花や天気の話をし、また大学でのちょっとした出来事を話すこともあった。蘇晩晴は相槌を打ちながら、うつむいて本を読み、夕陽が彼女の睫毛の先端を金色に染めた。

林逸は心の中で思った。この時間が永遠に続けばいいのに、と。

梅雨はやはり、人に知らせることもなくやって来た。

その日、林逸はいつもより少し遅く別荘に戻ったが、空はすでに厚い雲で覆われ、重苦しい様子を見せていた。遠くから雷の音が聞こえ、かすかに響き、庭の木々が風にざわめき始めた。

門の前まで来たとき、ふと見ると、藤棚の下では蘇晩晴がまだ急いで本を片付けているところだった。彼女は天気が突然変わるとは思わず、傘も持たず、着ている薄手のカーディガンはすでに風に強くはためいていた。

林逸は心の中でどきりとし、ろくに考える間もなく玄関の傘立てから長い傘を一本つかむと、廊下を走り抜けて庭へと飛び出した。

彼が駆け寄った瞬間、大粒の雨がポツリポツリと落ちてきて、あっという間に土に滲んだ濃い色の花を咲かせた。

「晩晴おばさん!」林逸は傘を広げると、しっかりと彼女の頭の上に差し出した。彼自身の肩は半分も屋根からはみ出し、あっという間に雨でぐっしょりと濡れてしまった。

蘇晩晴は手に本を抱え、驚いたように顔を上げて彼を見つめた。雨のしずくが彼の額やあごを伝い、トレーナーはところどころ濡れて肌に張り付いていたが、彼の目はきらきらと輝き、何の曇りもなかった。

「ばかね、なんで自分はちゃんと傘をささないの」蘇晩晴は眉をひそめ、口調にはほとんど叱るような響きがあったが、彼女の手は自然に差し出して彼の支える傘の柄を一緒に握り、彼にしっかりと寄り添った。「さあ、急いで家の中へ」

雨足はますます激しくなり、傘の上で間断なく打ちつける音を立てた。二人は肩を並べて小道を小走りに進んだが、雨のカーテンのせいで道が見えにくくなっていた。林逸は少し間を置き、空いた方の手でそっと蘇晩晴の肩を抱き、傘をさらに彼女の方へと傾けた。

蘇晩晴の体が明らかに一瞬こわばったが、彼女は抵抗せず、足を速めて彼とともに屋根の下へと駆け込んだ。

玄関に入ると、林逸はようやく傘を閉じ、入り口の隅に立てかけた。彼は全身ずぶ濡れで、髪は貼りついてしずくを落とし、スニーカーは水浸しでグチュグチュと音を立てていた。

「ほら、早く着替えないと風邪をひくわよ」。蘇晩晴は彼の袖口を引っ張り、明らかにわずかな動揺を声ににじませた。彼女は振り返って洗面所から真新しいバスタオルを取り出し、広げて彼の髪を拭こうとしたが、手が半ばまで上がったところで迷うように止まった。

林逸はそれに気づき、自らタオルを受け取った。「ありがとう」

蘇晩晴は手を引っ込め、目を伏せた。しばらくしてから彼女はまるで自分に言い聞かせるかのように、ゆっくりと言った。「林逸、これからのことは、お手伝いのさんに任せればいいから……そんなにわざわざしなくてもいいのよ」

彼の手の動きが止まった。

「あなたはまだ若くて、やるべきことがたくさんある。私は……」蘇晩晴は唇を軽く噛み、彼の少し失望したような表情を直視できなかった。「私はせいぜいあなたのお義母さんに過ぎないの。私たちは、やっぱり線を引いたほうがいいわ」

線を引く。

その言葉は、まるで冷たい鋭い針のように、優しくも無慈悲に彼の心に突き刺さった。

林逸は濡れたタオルを握りしめ、喉が詰まるのを感じた。彼は顔を上げ、彼女の目の奥にある気づかいと、それ以上に強い逃げ腰の感情をまっすぐに見た。

「……分かったよ」

彼は驚くほど落ち着いた声で答えた。それから彼は濡れた髪をぐしゃぐしゃとかき回し、口元を無理に上げてこう言った。「でも、もし雨に濡れて風邪をひいたら、僕もやっぱり傘を持って迎えに行くと思うよ。これは誰にだってすることだから」

蘇晩晴は少しの間驚いた様子だったが、何も言わず、複雑な表情で彼をちらりと見てから、急ぎ足で階段を上がっていった。

夜、雨はやんだ。

林逸はベッドに横たわり、天井を見つめながら、昼間の出来事を何度も頭の中で反芻していた。蘇晩晴が傘の下で彼に寄り添った瞬間の温度、彼が肩を抱いたときのかすかな震え、「線を引いたほうがいい」と言ったときの、庇護と後退が入り混じった矛盾する瞳。

彼は胸の鼓動がまた速くなるのを感じ、熱くなった。

「これはただの憧れなんかじゃないんだ」

彼は闇の中でそっと自分に言い聞かせた。本当に彼女が好きなんだ。彼女が庭で本を読むときの静けさも、彼女が彼のためにおかゆを準備する自然な優しさも、そして彼女が現実の立場に葛藤しながらも、無意識に自分を気遣う弱さすらも。

彼はとっくに、そこから逃れられないほど深く落ちていたのだ。

林逸は寝返りを打ち、窓の外の止んだ雨上がりの空を見つめた。雲の隙間から微かな月明かりが漏れ、まるで蘇晩晴が時折見せる、一瞬だけ緩む心のこもった笑顔のようだった。彼はようやく完全に確信した――自分はどうしても彼女を手に入れたいのだ。焦らず、急がず、一歩ずつ、彼女が自ら一線を越えてくるその日まで。

「必ず」

少年は毛布を頭まですっぽりとかぶり、その下で声に出さずに言った。

探りと一線

秋の気配が深まり、大学構内の銀杏並木が黄金色に染まる頃、林逸はある計画を練っていた。学生課の前で受け取った書類を手に、彼はスマートフォンを取り出す。画面に表示された「蘇晩晴」の文字を指先でなぞり、一呼吸置いてから通話ボタンを押した。

「もしもし、お義母さん」

電話越しの声は、いつもより少し硬い。林逸はそれを敏感に感じ取りながら、なるべく事務的な口調を心がけた。

「今週の金曜日、大学で保護者向けのキャリアガイダンスがあるんです。進路相談の関係で、保護者の署名が必要だって言われて。親父は今週ずっと出張だし……申し訳ないんですけど、来てもらえませんか」

受話器の向こうで、蘇晩晴は数秒間沈黙した。このところ彼女は明らかに林逸との距離を取ろうとしていたし、彼もそれを承知の上での電話だった。しかし「保護者としての役割」という大義名分を盾にされれば、そう簡単に断れるものではない。家庭を築くことを心から願ってこの家に嫁いだ彼女にとって、義理の息子の学業に関わることを無下にするのは、自分の信念に反する行為だった。

「……わかったわ。金曜日の何時?」

「午後三時からです。終わったら、せっかく大学まで来てもらったので、構内のカフェでお茶でもどうかなと。最近新しくできた店があるんです」

林逸は慎重に、しかし確実に次の一手を打つ。この電話の真の目的は、ガイダンスなどではなく、その後の時間にあった。蘇晩晴もおそらく薄々感づいている。それでも彼女は、義理の息子の申し出を完全に拒否することができなかった。

金曜日の午後、待ち合わせ場所に指定した大学正門前に、蘇晩晴の姿は約束の十分前に現れた。濃紺のシンプルなワンピースに、ベージュのトレンチコートを羽織り、控えめなパールのピアスを揺らしている。三十七歳とは思えないほど引き締まった立ち姿と、落ち着いた色気を漂わせるその佇まいに、行き交う男子学生たちの視線が自然と集まった。

林逸は少し離れた銀杏の木陰から、そんな彼女の姿をしばらく眺めていた。この女性が自分の義理の母親であるという事実が、彼の中ではどうしても腑に落ちない。そんなカテゴリーに押し込めるには、彼女はあまりにも美しく、あまりにも強く彼の心を揺さぶる存在だった。

「お義母さん、こっちです」

駆け寄る林逸の足取りは軽い。蘇晩晴は振り返り、ほんの少しだけ眉を上げた。彼の顔を見るたびに、彼女は複雑な表情を隠しきれない。あの横浜の雨の日の夜、傘を差し出した青年のひたむきな瞳を思い出すのかもしれない。あるいは、あの帰宅直後に何気ない会話の流れで彼が発した「お義母さんは、どうしてこんなに綺麗なんだろう」という言葉を、まだ鮮明に覚えているからだろうか。

「ガイダンス会場はこっちです。でも実は、今日のメインイベントはもう終わってるんです。署名が必要っていうのは本当ですけど、保護者会そのものは午前中に終わっちゃいました」

林逸はわざとらしく頭をかきながら、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「ごめんなさい、ちょっとだけ嘘つきました。でも、どうしてもお義母さんとゆっくり話したくて。大学を見てもらいたかったし、それに……」

蘇晩晴は立ち止まり、静かに林逸を見つめた。その目には責めるような色と、どこか諦めにも似た色が混ざっている。

「あなたね……そういうことは、もう……」

「とにかく、せっかく来てもらったんですから、カフェに行きましょう。ここのラテが結構美味しいんですよ」

林逸は蘇晩晴の言葉を最後まで聞かず、さりげなくエスコートするように、しかし決して肌に触れない絶妙な距離感で彼女を誘導した。こういうところに、彼の天性の勘の良さと、絶対に無理強いをしないという繊細な計算が表れている。蘇晩晴が警戒心を緩めないまま彼に付いていくのは、それが礼儀だと思うからか、それとも彼の真摯なペースに抗いきれないからなのか、自分でも判断がつかなかった。

大学構内の北東に位置する瀟洒なカフェは、全面ガラス張りで、午後の柔らかな日差しが床に幾何学模様を描いている。林逸は窓際の席を選び、蘇晩晴にメニューを差し出しながら、さりげなく言った。

「お義母さんは、オーガニックのハーブティーがお好きでしたよね。ここにはオーガニックのカモミールとラベンダーのブレンドがありますよ」

蘇晩晴はわずかに動揺した。自分がハーブティーを好むことなど、いつ彼に話しただろうか。おそらく、リビングで彼女がよく飲んでいるティーバッグの銘柄を、林逸はこっそり記憶していたのだろう。その細やかな注意力が、かえって蘇晩晴の心に波紋を広げる。

「……じゃあ、それをお願い」

「僕はカフェラテで。あと、この店自慢のスコーンも二つ。クロテッドクリームとジャムが付いてくるやつです」

注文を終え、ウェイトレスが去ると、二人の間にふと静寂が訪れた。窓の外では、数人の学生たちが楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。店内に流れるジャズピアノの旋律だけが、この繊細な沈黙を優しく埋めていた。

「お義母さんは最近、疲れてるんじゃないですか? なんだか顔色があまり優れないような気がします」

林逸の声は、心からの気遣いに満ちていた。彼はテーブルに両肘をつき、少し前かがみになって蘇晩晴の顔を覗き込む。その距離は、義理の親子としてはやや近すぎるようにも思えたが、かといって不快感を与えるほどではない。絶妙なバランスだった。

「大丈夫よ。ただ、季節の変わり目で少し寝つきが悪いだけ」

蘇晩晴はわずかに顔を背け、窓の外に視線を逃がした。そんな彼女の横顔を、林逸はじっと見つめる。秋の日差しを受けて、彼女の首筋から顎にかけてのラインが淡く輝き、まつ毛の影が頬に落ちている。その光景は、彼がイギリスで見た数々の肖像画を思い起こさせるほど、静謐で美しかった。

「綺麗だ」

林逸の口から、その言葉が自然とこぼれ落ちた。説明も修飾もない、あまりにも率直な賛美だった。

蘇晩晴の肩がびくりと震える。彼女はすぐに顔を戻し、眉をひそめて林逸を正面から見据えた。その瞳には、明らかな警戒の色と、かすかな動揺が浮かんでいる。

「林逸、そういうことは言うべきじゃないわ。私はあなたの母親なの。血の繋がりはなくても、立場上そうなの。そういう言葉を軽々しく口にするものじゃない」

彼女の声は低く、しかし鋭利な刃のように正確に言葉を刻んだ。最後の方は、ほとんど自分自身に言い聞かせているかのようだった。

林逸は一瞬だけうつむき、それから顔を上げて素直にうなずいた。

「ごめんなさい。でも、本当のことなので」

その返答に、蘇晩晴は言葉を失った。叱責することも、肯定することもできず、彼女は運ばれてきたハーブティーのカップを両手で包み込むように持ち上げた。湯気の向こうで、彼女の表情がわずかに揺らいでいるのを、林逸は見逃さなかった。

スコーンが運ばれてくる頃には、林逸は巧みに話題を変えていた。大学の授業のこと、イギリスと日本の教育の違い、最近読んでいる本の話。彼の語り口は知的で穏やかであり、蘇晩晴が返答に窮するような話題は慎重に避けられている。気がつけば、蘇晩晴もいくぶん肩の力が抜け、イギリス文学の話題では珍しく自分の意見を述べたりもしていた。

「お義母さんはやっぱり、ジェイン・オースティンがお好きなんですね。前に本棚で見かけました」

「ええ、大学生の頃に原書で読んで。特に『説得』が好きだった。あの抑制された感情の描写が……」

そこまで言って、蘇晩晴ははっとして口をつぐんだ。『説得』は、一度は別れた恋人と再会し、長い時間を経て再び結ばれる物語だ。そのテーマが、今の自分たちの状況とかすかに共鳴していることに気づいたのだろう。林逸もまた、そのことに気づいているのかいないのか、ただ静かに微笑み、カップを傾けていた。

「お義母さん、そろそろ帰りましょうか。今日は来てくれてありがとうございます。保護者の署名、あとで書類に書いてもらえますか」

林逸はそう言って伝票を手に取り、さっと立ち上がった。彼は決して最後の一線を踏み越えない。今日の彼の目的は、蘇晩晴ともっと親密な時間を共有することであり、彼女を困らせることではなかったからだ。

家に帰る車の中、二人の会話は途切れがちだった。蘇晩晴は運転に集中しているふりをしながら、心の中で小さな警鐘が鳴っているのを感じていた。今日のカフェでの時間は、表面上は何の問題もない義理の親子の団らんだった。しかし、その底流に確かに存在した緊張感と、林逸の台詞の端々に込められた計算、そして何より、自分がそれを完全には拒絶できていないという事実が、彼女を深く苛立たせた。

「私は母親なんだ。絶対に、一線を越えてはいけない」

彼女はハンドルを握る指に力を込め、心の中で何度もそう繰り返した。

しかし週末が訪れると、林逸はまた別の方法で彼女の心の壁に揺さぶりをかけた。

土曜日の夕方、蘇晩晴がスーパーから帰宅すると、玄関を開けた瞬間にピアノの旋律が耳に飛び込んできた。それはドビュッシーの『月の光』だった。彼女が最も愛してやまない曲であり、かつて夫にも、林逸にも話したことがなかったはずの曲だ。

そっとリビングに足を踏み入れると、書斎のドアが半開きになっていて、その向こうで林逸がピアノに向かっている姿が見える。彼の長い指が鍵盤の上を迷いなく滑り、繊細なタッチで和音を紡いでいく。窓から差し込む夕日が彼の横顔を照らし、真剣な眼差しが楽譜ではなく、虚空のどこか遠くを見つめていた。

蘇晩晴は、買い物袋を床に置くことも忘れて、その場に立ち尽くした。この家にピアノがあることは知っていた。夫が昔、前妻のために購入したものだと聞いていた。しかし最近まで、それは単なる家具の一部として書斎の隅に置かれていたのだ。一体いつから、林逸はこんなにも見事に弾けるようになったのか。そしてなぜ、よりによってこの曲なのか。

演奏が終わり、最後の和音が空気に溶けて消えるまで、蘇晩晴は微動だにしなかった。林逸はゆっくりとペダルから足を離し、それから振り返る。二人の視線が、半開きのドア越しに交錯した。

「おかえりなさい、お義母さん」

「……ただいま」

蘇晩晴はようやく袋を持ち上げ、キッチンへと向かう足を動かした。心臓がうるさいほどに脈打っている。彼女は冷蔵庫に食材を詰め込みながら、必死に冷静さを取り戻そうとした。

「たまたまよ。たまたま、あの子が好きな曲を練習していただけ。私の好きな曲だとは知らないはずだもの」

そんなふうに自分に言い聞かせたものの、先日カフェで自分がオースティンの『説得』を好むと話した時、林逸がまったく驚いた様子を見せなかったことを思い出した。彼はすでに、どこかで知っていたのだ。自分の好きな作家も、好きな曲も、好きなお茶の銘柄も。この家のどこかに、彼は自分の痕跡を丹念に探し集め、少しずつ心の地図を描いている。そう考えると、蘇晩晴の背筋に冷たいものが走ると同時に、胸の奥がかすかに熱くなった。

「ダメだ」

彼女は冷蔵庫のドアを閉め、両手で顔を覆った。三十七歳の分別ある大人として、これ以上若者の危うい情熱に寄り添ってはいけない。彼には明確な境界線を示さなければならない。自分が母親であるという立場を、行動で示さなければならない。

その日から、蘇晩晴の態度は明らかに変わった。

夕食の席では、彼女は林逸の正面ではなく、必ず斜め向かいの席に座るようになった。彼が学校の話を振っても、必要最小限の返事しかしない。リビングで二人きりになりそうな状況を察知すると、すぐに自室に引っ込むか、庭の手入れをするふりをして外に出た。洗濯物をたたむ時間帯も、これまでは林逸がリビングにいる夕方にやっていたのに、わざわざ午前中に変更した。

林逸は、そんな蘇晩晴の変化を敏感に察知していた。彼女が避けようとしていること、無理に壁を作ろうとしていること、すべてお見通しだった。しかし彼は、それを直接指摘することもしなければ、傷ついた素振りを見せることもしなかった。むしろ、彼女が張り巡らせた透明な壁を尊重するかのように、一定の距離を保ちながら、それでいて決して存在感を消さないという絶妙な立ち位置を維持した。

たとえばある朝、蘇晩晴が軽い風邪で喉を痛めていると知ると、林逸は何も言わずにキッチンのカウンターに蜂蜜と生姜のパック、それに丁寧にラッピングされたオーガニックののど飴を置いた。付箋には、丸みを帯びた几帳面な字で「無理しないでください」とだけ書かれている。

また別の日、蘇晩晴が遅くまで仕事で帰宅が深夜になった時も、ダイニングテーブルの上には保温ポットに入った野菜スープと、短いメモが残されていた。「温めて飲んでください。胃に優しいです」

それは決して押し付けがましくない、しかし確実に蘇晩晴の心の隙間を埋めていくような優しさだった。彼女はそれらの気遣いに対して、直接の感謝を口にすることはほとんどなかったが、のど飴をそっとハンドバッグに忍ばせ、深夜に一人でスープをすする時の表情は、誰にも見せられないほど柔らかかった。

そして、彼女の誕生日が近づいていた。

十一月の半ば、街はすでにクリスマスのイルミネーションを準備し始め、空気は冬の到来を予感させる冷たさを含んでいた。林逸は、一ヶ月も前から蘇晩晴への誕生日プレゼントを準備していた。それは高価な宝飾品でも、華やかな花束でもなかった。彼が選んだのは、ロンドンの骨董市で見つけた一九二〇年代の小さな銀製のフォトフレームと、それに収める一枚の写真だった。

写真は、彼が密かにデジタル化した蘇晩晴の若い頃の一枚だ。本棚の奥にしまわれていた古いアルバムから見つけた、彼女が大学生の時、イギリスに短期留学した際に湖水地方で撮影したものだった。風に髪を乱されながら、カメラに向かって屈託なく笑う彼女の姿。林逸はその写真を見つけた時、言葉にできないほどの愛おしさを感じた。今の彼女からは想像もできないほど無邪気で、それでいて面影は確かに現在の蘇晩晴と重なる。

彼はその写真を専門店で丁寧に焼き直し、アンティークのフレームに収めた。そして、湖水地方にまつわるワーズワースの詩集の初版本まで見つけ出してきた。これらは決して金銭的な価値だけではない、理解と共感に裏打ちされた贈り物だった。受け取る相手の魂の歴史にそっと触れようとする、非常に親密で、それゆえに危うい贈り物だった。

誕生日当日の朝、蘇晩晴がリビングに行くと、テーブルの上に紺色のリボンがかけられた小さな箱と花束が置かれていた。夫からはすでに昨夜のうちにシンプルなネックレスが贈られていて、それで誕生日の行事は終わったものだと思っていた。だからこの贈り物が誰からのものか、彼女はすぐに理解した。

恐る恐るリボンをほどき、中から現れたフォトフレームを手に取った瞬間、蘇晩晴は息を呑んだ。若き日の自分が、湖水地方の風景の中で笑っている。こんな写真を撮ったことさえ、長い間忘れていた。なのに、それが今、銀のフレームに守られて、まるで遠い過去からの手紙のように彼女の手の中にある。

フレームの裏側には、小さな文字でこう刻印されていた。

「いつかまた、あの湖畔で」

蘇晩晴は、その場にしゃがみ込んだ。フレームを胸に抱え、声を殺して泣いた。誰に対しての涙なのか、自分でもわからなかった。遠い昔の自分に対する哀惜かもしれないし、今の自分を縛る倫理の鎖に対する無力感かもしれない。あるいは、優しくまっすぐに心の扉を叩き続ける若者に対する、名付けようのない感情の奔流なのかもしれない。

その時、二階の廊下で、林逸が静かにその様子を見下ろしていた。彼は声をかけなかった。今、自分が姿を現すことは、彼女の尊厳を傷つける行為になりかねないと理解していたからだ。彼はただ、その場に立ち尽くし、指が白くなるほど手すりを握りしめていた。

彼の心の中に、一つの確信があった。

「急がない。絶対に急がない。いつか必ず、彼女が自分から振り返るまで」

階下では、蘇晩晴がゆっくりと立ち上がり、涙を拭いた。彼女はフォトフレームを大切そうに包み直すと、リビングの本棚の、最も目立たない隅にそれを置いた。誰の目にも触れない場所、しかし彼女自身がいつでも手に取れる場所に。

その日から、彼女は林逸を避けることをやめたわけではない。むしろ、これまで以上に慎重に、より厳格に自分を律しようとしているようにも見えた。しかし、彼女が時折見せる物憂げなまなざしの奥に、以前にはなかったかすかな光が宿っていることを、林逸は見逃さなかった。

冬の足音が近づいていた。風は冷たく、夕暮れは早い。すべての生命が静かに内へ内へと閉じこもる季節。しかしこの家の中で、何かがゆっくりと、しかし確実に動き始めている。それはまだ名付けるには早すぎる感情であり、冬の凍土の下で密かに息づく、春を待つ種子のようなものだった。

隙に乗じて

父が出張で数日家を空けてから、もう三日が経っていた。蘇晩晴は夕方早々に夕食を済ませ、リビングのソファに一人座り込んでいた。窓の外には濃い藍色の夕闇が広がり、街灯の明かりがカーテンの隙間から細く差し込んでいる。テレビもつけず、部屋の中は静寂そのものだった。

彼女は手にしたワイングラスを傾け、深紅の液体を口に含んだ。喉を過ぎるかすかな熱さが、胸の内に溜まった虚無を一時的に麻痺させる。冷え切った広い家の中で、自分の吐息だけがやけに大きく聞こえた。

もともと酒に強い方ではない。それでも今は、このほろ苦い液体に縋ることでしかやりきれない夜があった。グラスをテーブルに置く手が、ほんの少し震える。夫は仕事に追われ、連絡さえまばらだ。嫁いで三年、この家に自分の居場所を作ろうと懸命だった。なのに時折、自分がただの「妻」という役割でしかないような虚しさが押し寄せる。

蘇晩晴は深いため息をつき、もう一口ワインを煽った。頬がほんのりと火照り、思考がぼんやりと滲み始める。酔いの感覚が心地よくて、彼女はカウチに凭れかかったまま目を閉じた。

その時、玄関の方で微かな物音がした。鍵の開く音、そして控えめな足音。林逸が帰ってきたのだ。

「ただいま」

耳に届く若々しい声に、蘇晩晴は緩慢に目を開ける。返事をしなければと思うのに、舌がうまく回らない。彼女は手をひらりと挙げて応えたが、それが精一杯だった。

林逸はリビングに入ると、照明を落としたままの部屋に一瞬戸惑い、ソファに沈む影を見つけて歩み寄った。テーブルの上に置かれた空き瓶と、半分ほど残ったワイングラス。そして焦点の合わない瞳で自分を見上げる義理の母の姿があった。

「晩晴さん……?」

彼は声を潜め、そっと彼女の傍らにしゃがみ込んだ。普段は凛として隙のない彼女が、火照った頬と潤んだ目でそこにいる。胸が疼いた。

「飲み過ぎですよ」

蘇晩晴はぼんやりと彼を見つめ、唇の端だけで微かに笑った。

「林逸……帰ったのね。ごめんなさい、ちょっと、飲みすぎちゃって……」

呂律が回っていない。それでも気丈に振る舞おうとする姿が、かえって痛々しい。林逸は彼女の肩に軽く手を置いた。

「ここで寝たら風邪を引きます。部屋に行きましょう」

蘇晩晴は小さく頷き、立ち上がろうとしたが、足元が覚束ない。林逸はとっさに彼女の腕を支え、身体を引き寄せた。ふわりと香る柔らかな匂いと、体温が伝わってくる。彼は動揺を必死に堪え、ゆっくりと彼女を寝室へと導いた。

廊下のわずかな明かりだけが、二人の影を揺らめかせる。蘇晩晴は歩きながら何度かよろめき、その度に林逸の胸に凭れかかった。

「……情けないわね、私」

自嘲気味な呟きが、彼の胸に直接響く。

「そんなことない」

林逸は短く返し、彼女をベッドの端に座らせた。蘇晩晴はうつむき、両手をだらりと膝の上に置いている。しばらく沈黙が流れたあと、不意に肩が小さく震え始めた。

「寂しいの……」声が詰まっている。「私、この家にいる意味が、時々わからなくなるのよ。みんな優しいし、あなたも、お義父さんも……でも、でも、私、やっぱりひとりなんだわ……」

涙が一筋、頬を伝い落ちた。彼女は顔を両手で覆い、声を殺して泣き始めた。林逸は息を呑み、何も言えずにその姿を見つめる。心の奥底で、ずっと彼女の痛みに触れたいと思っていた。けれど、いざ目の前で崩れられると、自分まで胸が締めつけられる。

彼はベッドに腰を下ろし、そっと彼女の肩を抱いた。抵抗はなかった。むしろ、彼女は縋るように彼の胸に顔を埋めてきた。

「私、ここにいるよ。晩晴さんは一人じゃない」

林逸は静かに、噛みしめるように言葉を紡いだ。蘇晩晴の肩がさらに震える。温かな涙が彼のシャツに滲みる。彼はただ黙って、彼女の背中をゆっくりと撫で続けた。時間がどれほど経ったかわからない。涙の勢いが少しずつ落ち着き、彼女の呼吸が深くなる。

やがて、蘇晩晴は顔を上げた。目の縁が赤く染まり、涙に濡れた睫毛が震えている。アルコールのせいで、いつもの張りつめた理性の膜が溶け落ちていた。彼女はぼんやりと林逸を見つめた。そこにいるのは、義理の息子というより、自分を心配し、慰めてくれる一人の男性だった。

林逸はその視線を受け止め、心臓が早鐘を打つのを自覚しながら、ゆっくりと顔を近づけた。拒否の兆しを見逃さないように、細心の注意を払いながら。

彼の唇が、そっと蘇晩晴のそれに触れた。ほんの一瞬、触れるだけのキス。蘇晩晴は驚いたように目を見開いたが、身を引かなかった。温もりに戸惑い、かすかに震えながらも、目を閉じる。

それが赦しだと、林逸は感じ取った。

「……林逸」

かすかな声が、名前を呼んだ。咎める響きではない。むしろ、諦めと渇きが混じったような響きだった。

彼はもう一度唇を重ねた。今度は少しだけ深く。蘇晩晴の身体から力が抜け、彼に凭れかかる。酒の熱と、長い孤独が彼女の防御を脆くしていた。

「優しくするから」

耳元で囁くと、蘇晩晴はぎゅっと彼のシャツを握りしめた。拒絶の言葉は、ついに出てこなかった。

林逸は丁寧に彼女をベッドに横たえ、自分もその隣に身を置いた。カーテンの隙間から射す月光が、蘇晩晴の白い肌を淡く照らしている。彼女は目を閉じたまま、浅い息を繰り返していた。

ワンピースのボタンをひとつずつ外す。震える指先を必死に抑えながら、荒々しさが少しも出ないように。肌が露わになるたび、蘇晩晴は小さく身じろぎしたが、抵抗はしなかった。むしろ、恥じらうように顔を背け、唇を噛みしめている。

「綺麗だ」

思わず零れた本音に、蘇晩晴がぎゅっと目を瞑る。林逸は彼女の肩口に唇を落とし、鎖骨の窪みをなぞるようにキスを這わせた。温かな吐息が触れる度、彼女の身体が微かに跳ねる。

「……ん……」

漏れた声が、自分でも信じられないほど甘やかで、蘇晩晴は羞恥に顔を赤らめた。これはいけない。わかっている。けれど、今はその罪悪感さえも、目の前の優しさに溶かされていく。

林逸は焦らなかった。まるで壊れやすい宝物に触れるかのように、時間をかけて彼女の全身を愛撫した。彼女の肌に浮かぶ緊張が少しずつ解け、呼吸が熱を帯びていくのを感じる。拒みたい気持ちと、この温もりに浸りたい気持ちが、蘇晩晴の中で激しく鬩ぎ合っている。指先がシーツを握りしめては、力なく解かれる。

「いや……やっぱり、だめ……」

ふと蘇晩晴が首を振り、掠れた声で抵抗の片鱗を見せた。しかし同時に、彼の首に縋る腕には力がこもっている。矛盾したその仕草が、彼女の本心を物語っていた。

「怖がらなくていい。俺を信じて」

林逸は手を止め、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。曇った瞳の奥にある寂しさと渇きが、はっきりと見える。彼はその手をそっと握りしめ、指を絡めた。

「一人じゃないって、わかってほしい」

その言葉に、蘇晩晴の瞳から、また一粒涙が零れた。彼女は小さく、何度も頷く。唇が震えながら、音にならない「ごめん」の形を繰り返している。

林逸はもう一度深く口づけ、そのまま静かに彼女を受け入れた。蘇晩晴は小さく息を呑み、背中を反らせる。痛みとも快楽ともつかない感覚に、意識が白く霞んだ。

「……っ、林逸……あ……」

縋るような声が、暗い寝室に溶けていく。林逸は決して急がず、彼女の様子を確かめながらゆっくりと動いた。時折、苦しげに眉を歪める彼女の額に口づけ、汗ばんだ髪をそっと梳く。

「大丈夫。大丈夫だから」

何度も囁くその声が、蘇晩晴の中で最後の箍を外していった。もう自分を偽れない。彼女はおそるおそる腕を伸ばし、林逸の背中に回した。涙で濡れた頬が、彼の肩口に押しつけられる。

「……私……私、どうしたら……」

泣きじゃくるような言葉が途切れ途切れに漏れる。その声を、林逸は口づけで塞いだ。優しく、しかし逃がさない強さを込めて。

時間の感覚が曖昧になる中、二人はただ互いの体温を確かめ合っていた。蘇晩晴の中にある罪悪感と孤独が、少しずつ、確かな熱に溶かされていく。波が引くように訪れる安堵感に身を委ねながら、彼女はそっと目を閉じた。

気がつくと、窓の外は深い闇に包まれていた。林逸は横たわる蘇晩晴の肩にそっと布団をかけ、乱れた髪を耳にかけてやる。寝息は穏やかで、涙の跡が残る顔にはほんの僅かな安堵が浮かんでいるように見えた。

彼はその寝顔をしばらく見つめたのち、静かにベッドを抜け出そうとした。しかし、寝返りを打った蘇晩晴の指が、無意識に彼のシャツの裾を掴む。

(離れたくない……)

そう言われているようで、林逸は動きを止めた。彼はそっと苦笑し、再び彼女の隣に身を横たえる。腕を伸ばし、壊れ物を抱くように彼女の身体を引き寄せた。

この先、どんな困難が待っていようとも、自分はこの人を守る。まだ若い胸に、強い決意が芽生えていた。

蘇晩晴は寝息の中で、ほんの少し、口元を緩めた。まるで、長い悪夢からやっと醒めたように。

闇夜の沈溺

朝の光がカーテンの隙間から洩れ、シーツに細長い金色の帯を落としていた。蘇晩晴が目を覚ましたとき、最初に感じたのは体のだるさと、下腹部の微かな違和感だった。枕元にはまだほのかに林逸の香りが残っていて、昨夜の出来事が潮のように押し寄せてくる——彼の唇、彼の指、彼の熱く硬いものが体の奥深くまで入り込んできた感触。彼女は急に目を見開き、手で口を押さえて声が漏れるのを防ごうとしたが、喉の奥で嗚咽が潰えた。

自分はなんてことをしてしまったんだろう。

隣には林逸が横向きに寝ていて、片腕を彼女の腰に回していた。眠っている顔はいたって穏やかで、朝の光が彼の高い鼻梁と長い睫毛を縁取っている。それはまだあどけなさの残る若者の顔だった——彼女の夫の息子で、わずか十八歳だ。蘇晩晴はゆっくりと彼の腕を離し、できるだけ音を立てずに半身を起こした。シーツが擦れる微かな音さえも、罪悪感を鞭打つように感じられた。

「……起きたの?」

林逸の声はまだ少し掠れていたが、彼は目を開け、すぐに温かい笑みを浮かべた。彼は手を伸ばして彼女の垂れた髪をそっと耳の後ろにかけてやる。その仕草はあまりに自然で、まるで何度も繰り返してきたかのようだった。

「昨夜はよく眠れた?」

蘇晩晴は背を向け、肩がわずかに震えた。「林逸……私たち、間違ってる。」

その言葉のあと、部屋は一瞬、重苦しいほどに静まり返った。林逸は体を支えて起き上がらず、ただ真剣な目で彼女の後ろ姿を見つめていた。

「間違いじゃない。」彼の声は柔らかかったが、少しの迷いもなかった。「僕は本気であなたが好きなんだ。ただの一時的なものじゃなくて、昨夜もずっと前からも、ずっと変わらない。」

「もう言わないで。」蘇晩晴の声には苦しみが滲んでいた。「あなたはまだ子供で、何が好きかもわかっていない。私はあなたの父の……」

「あなたは私の父さんの妻だろう?」林逸は言葉を遮ったが、語気は変わらなかった。「でもそれよりも前に、まずあなたは蘇晩晴だ。私はあなたという人を愛している。それは誰の妻だからじゃない。」

蘇晩晴はようやく振り返った。目尻にははっきりと涙の跡があった。「私たち、もう二度とこんなことをしちゃいけない。これが……最後よ。」

彼女はベッドから降り、震える指で寝巻きを手に取り、バスルームへ足早に向かった。曇りガラスの向こうから水音が聞こえ、林逸はまだ彼女の体温が残るシーツに横たわりながら、ゆっくりと目を閉じた。

承諾は求めなかった。ただ待つだけだと知っていたから。

その後の数日間、蘇晩晴は確かに彼から距離を置こうとした。食事のときに目を合わせることも、家で二人きりになることも避け、わざと早く帰宅したり遅く起きたりした。しかし林逸は少しも距離を詰めようとはせず、以前のように彼女の好きなケーキを静かに買ってきてテーブルの上に置き、彼女が徹夜で残業しているのを見かけると、ひとこと添えて温かい牛乳を机の端に置いた。

日々は緩やかな流れのように過ぎていった。蘇晩晴の緊張した心の弦は、そんなさりげない気遣いの中で少しずつ緩んでいった。彼の落ち着いた瞳と向き合うとき、心の奥底に閉じ込めていた孤独が、こっそりと頭をもたげてくるのを感じるようになっていた。

五日後、林逸の父が再び地方へ出張することになった。出かける前に彼はスーツケースを引きながら、「二週間で戻るから、家のことはよろしく」とだけ言い残した。蘇晩晴は玄関でそれを見送り、ドアが閉まる音を聞くと、心臓が不意に跳ねた。

その夜、蘇晩晴は早めにベッドに入った。寝巻きをきつく結び、目を閉じて早く眠ろうと努めた。しかし意識はひどく冴えていて、廊下のわずかな物音さえも聞き逃さなかった。どれほど時間が経ったのか、もう林逸も寝静まったはずだと思ったそのとき、寝室のドアが静かに押し開かれた。

ドアノブの回る音も、床を踏む足音もとても軽かった。彼はまるで月明かりの下を歩く獣のように、音を立てずに彼女のベッドの端まで近づいた。シーツが沈み、彼の体温がまず伝わってきた。

蘇晩晴は体を強張らせたが、目は開けなかった。息さえも無意識に潜めていた。逃げようとしたのではなく、彼の顔と向き合う覚悟がまだ自分にできていないことを知っていたからだ。

林逸は俯いて彼女の額に口づけ、それから鼻先、そして唇へと移った。彼の指が彼女の寝巻きの中でゆっくりと動くのを、蘇晩晴はまるで雷に打たれたかのように微かに震えた。彼女はついに目を開け、暗がりの中で彼の漆黒の瞳を見つめた。

「こんなこと、いけないのよ……」彼女の声はほとんど蚊の羽音のようにか細く、押し殺したような抵抗だった。

林逸は何も言わず、ただそっと彼女の寝巻きの裾をまくり上げ、温かな唇を再び彼女の鎖骨に落とした。彼は途中、一度も手を止めなかった。余裕すら感じさせるゆっくりとした動きで、春の雨が土を潤すように静かに彼女の心の壁を溶かしていった。蘇晩晴の指はシーツをぎゅっと掴んでいたが、彼の唇がさらに下へと移動していくにつれ、ついに彼の背中に腕を回してしまった。

今回は、彼女は一切抵抗しなかった。

吐息が交錯する中、林逸の指が彼女の最も柔らかく湿った場所を探り当てたとき、蘇晩晴は喉を詰まらせたようなため息を漏らした。彼はそっと彼女の耳朶を噛み、かすれた声で囁いた。「お義母さん……愛してる。」

その呼びかけは、彼女の心の奥底でかろうじて保たれていた最後の一線を決定的に断ち切った。蘇晩晴は完全に心を許し、背を弓なりにして彼の侵入を迎え入れた。結合した瞬間、彼女は自分の中の何かが音を立てて崩れ去るのを感じた。それは倫理だったのか、罪悪感だったのか、ともかくもう戻れないものだった。残ったのは、目の前の若く熱い体と、彼女を枯れ木のように燃え上がらせる激しい律動だけだった。

林逸は今夜、これまでにない大胆さで彼女を求め、最も深いところまで何度も打ちつけた。蘇晩晴は低くうめき声を上げ、その声は枕に深く沈んで断続的なリズムを刻んだ。彼女は今までにないほど感じていた。理性を失いそうなほどで、足を彼の腰に絡みつかせ、欲しいと口に出すまいと思いながらも、体は正直に彼を離そうとはしなかった。

最後の波が押し寄せたとき、林逸は彼女の奥深くに自らを埋め、微かに震えながら彼女の一番熱い場所に熱い迸りを注いだ。

蘇晩晴の中で急に何かが溢れ出し、彼女は小さく叫び声を上げ、爪が彼の肩の皮膚に深く食い込んだ。体は震え、魂は天から地へと急降下するかのようだった。

潮が引くように静けさが訪れた。

部屋には絡み合った息遣いだけが残り、カーテンの隙間の月光が全ての罪をあぶり出すかのように冷たかった。林逸はまだ彼女を抱きしめ、唇を彼女の汗ばんだ額に押し当てていたが、蘇晩晴はゆっくりと体を横に向け、手を伸ばして隣の枕を胸に抱きしめた。彼女は枕に顔を埋め、肩が激しく震え始めた。

涙が止めどなく溢れ、枕カバーを濡らした。彼女は泣き声を必死に抑えたが、嗚咽は漏れてしまう。恥ずかしかった——自分の弱さが恥ずかしく、理性を失うほど感じてしまったことが恥ずかしく、そしてこの若者の腕の中で、到底手に入れてはいけない温もりを得ている自分が恥ずかしかった。

林逸は彼女を振り向かせようとはせず、ただ背後から彼女の背中をしっかりと抱きしめ、彼女の指が張り裂けんばかりに握りしめた枕を指ごと包み込んだ。彼は低く穏やかな声で彼女の耳元に語りかけた。命令ではなく、嘆願でもなく、ただ事実を並べるだけの口調で。

「逃げないでほしい。」

蘇晩晴は泣きじゃくりながら、指を彼の手の中でぎゅっと握り返した。

これは戦いだった。彼女の人生で最も長く、最も苦しい戦いだった。そして相手は、自分自身の心だった。

秘密の領域

昼は、ただの義母と息子だった。

朝、蘇晩晴がキッチンに立つと、林逸は決まって「おはよう」と声をかける。彼女はわずかにうなずき、いつも通りの淡々とした口調で「早く食べなさい、遅刻するわよ」と言うだけだ。林逸はそれに黙って従い、トーストをかじりながら時計を気にするふりをして、本当は彼女の横顔を見つめていた。スープをよそう手つき、わずかに乱れた髪の一筋、エプロンのひもが腰のあたりで結ばれている曲線。すべてが落ち着いていて自然で、だからこそ、夜の光景がまるで別世界の出来事のように思えるのだった。

夜。家の空気が静寂に沈み、廊下の時計の針が零時を回ったころ、林逸はいつものように自分の部屋を抜け出した。スリッパは履かない。床に足の裏がぺたりと吸いつく感触が、むしろ現実感を引き戻してくれる。彼女の部屋の前で立ち止まり、三度、軽くノックをする。それは暗号だった。ドアの向こうから鍵の外れるかすかな金属音が聞こえ、心臓がどくりと跳ねる。

「遅かったわね」

昨晩もそうだったように、蘇晩晴はベッドの端に腰かけていた。部屋着は濃紺のシルクで、襟元から鎖骨が浮き出ている。けっして誘っているわけではないのに、林逸の目にはたまらなく扇情的に映った。彼は近づきながら、小さな笑みを浮かべる。

「レポートが長引いて」

嘘ではなかったが、本当の理由はほかにある。来るのが早すぎれば、彼女はまだ心の準備ができていない。遅すぎれば、眠ってしまっているかもしれない。ぎりぎりの時間を計っていたのだ。

蘇晩晴はそれ以上なにも言わず、そっと横にずれた。林逸が腰を下ろすと、彼らの間には指一本分の距離しかない。彼女の手がふと動き、自分の膝の上で所在なさげに丸まった。それが、ある種の許可であることを、林逸はもう知っていた。

ベッドに倒れこむようにして、彼は彼女の肩を抱いた。蘇晩晴は一瞬、体を硬くしたが、すぐに小さく息をつく。林逸の手が彼女の背中にまわると、彼女の手もまた、おずおずと彼の胸に触れた。そこから先は、暗闇の中での、言葉よりも熱いやりとりだった。

ふと、蘇晩晴がささやく。

「これが、本当にいいのかしら…」

「またそれ?」

林逸は彼女の耳元で、わざと少し責めるような口調になった。「いまさらでしょ」

彼女はなにも答えない。代わりに、彼の首もとに顔を埋めてきた。罪悪感を塗りつぶすように、自分を隠すように。林逸はそんな彼女をきつく抱きしめ、その髪にキスを落とした。

「……笑わないでね」彼女がくぐもった声で言う。「明日、あなたの服にアイロンをかけなきゃ。あのシャツ、皺だらけなんだから」

林逸は思わず笑みをこぼした。彼の継母は、こういうところでしか、愛情をうまく表現できないのだ。夜の甘さを、昼の義務で中和しようとするかのように。

学業面でも、林逸の蘇晩晴への依存は大きくなっていた。

「ねえ、お義母さん」

リビングのソファでノートパソコンを開きながら、林逸が声をかける。蘇晩晴は雑誌をめくっていた手を止め、顔を上げた。

「また課題? 自分で調べなさいっていつも言ってるでしょ」

「『日本の近代化と家族制度の変容』についてなんだけど、参考文献が多すぎて絞れないんだ。お義母さんの意見が聞きたい」

蘇晩晴は少し驚いたように目を見張り、それから軽くため息をついた。彼女は大学で社会学を教えているわけではないが、もともと読書家で、知識は幅広い。林逸がこうして頼ってくるのは、単に彼女の知性を求めてのことではなかった。彼と話す時間を増やすための口実にすぎないと、彼女自身もうすうす気づいていた。

「……いいわ。少しだけよ」

彼女がソファに近づくと、林逸はさりげなく場所を空ける。肩がふれあう距離で、彼は画面を見せながら説明を始めた。蘇晩晴は時折うなずき、いくつかのポイントを簡潔に指摘する。その声は落ち着いていて理知的だ。夜の彼女とはまるで別人のようだった。

「そういうことなら、まずは戦後の民法改正から追うべきね。家制度の崩壊が、核家族化を加速させた部分は無視できないわ」

「なるほど……助かるよ」

林逸は素直にうなずき、さっとメモを取った。ふと顔を上げると、彼女がじっと画面を見つめている横顔が目に入る。真剣なまなざし。微動だにしない睫毛。リビングの照明が、その頬に淡い影を落としていた。

「なに見てるの」彼女が突然こちらを向いた。

「いや、別に」林逸は笑ってごまかした。心臓が早鐘を打っているのを悟られないように。昼の彼女には、昼の顔がある。彼はそれを壊したくなかったし、なにより、この二重の生活そのものが、すでに彼にとってかけがえのない秘密だった。

そんなある金曜の夕方、思いがけないことが起きた。

蘇晩晴が夕食の支度を終え、林逸がテーブルに箸を並べているところへ、玄関の鍵がまわる音がした。二人は同時に顔を見合わせる。こんな時間に誰か来る予定などない。

「ただいま」

低くて、聞き慣れた声。林逸の父、林正明だった。

「あなた……どうして?」

蘇晩晴が驚きを隠せずに問いかけると、正明は苦笑しながらネクタイをゆるめた。

「ああ、急に出張がキャンセルになってな。連絡しようと思ったんだが、ちょうどバッテリーが切れてて」

「そう……お疲れさま。いまごはんを出すわね」

蘇晩晴はすぐに台所へ戻り、取り皿を一枚追加した。その動作はあくまで自然で、動揺しているようには見えない。林逸はそれを見て、逆に胸が苦しくなった。彼女はこういうとき、完璧すぎるほどに妻の顔を作る。

三人で囲む食卓。メニューは肉じゃがと味噌汁、それにほうれん草の胡麻和えという家庭的な献立だ。正明は「うまいな」と満足そうに箸を進めている。蘇晩晴はにこやかに「よかった」と応じ、林逸も適当に大学の話を振った。表面上はどこにでもある家族の団欒だった。

だが、テーブルの下はまったく別だった。

林逸がふと足を伸ばしたとき、そのつま先が、蘇晩晴のスリッパの縁に触れた。彼女はぴくりと反応し、スープの碗を取り落としそうになる。それでも、顔色ひとつ変えずにやりすごした。

林逸の心臓は、好奇心と悪戯心で騒いでいた。彼はさらに、そっと彼女の足の甲をなぞるように動かしてみた。スリッパ越しに、足指がわずかに丸まるのが伝わる。

蘇晩晴は一瞬、きつく彼をにらんだ。やめなさい、という警告だ。しかし彼女の頬には、かすかに朱が差している。

正明は気づかない。「逸、大学の方はどうだ。慣れたか?」

「うん、まあ、なんとか」林逸は落ち着いて答えながら、足の動きは止めない。スリッパの先をこじ開けるようにして、素足のくるぶしに触れる。ひやりとした肌。彼女の足が、はっきりと震えた。

蘇晩晴は耐えきれなくなったのか、立ち上がった。

「お代わり、いる?」

「ああ、もらおうかな」正明が茶碗を差し出す。

彼女が席を立った隙に、林逸は足を引っ込めた。心臓が口から飛び出しそうだった。危険で、無謀で、だからこそ、たまらなく刺激的だった。

夕食が終わり、正明が風呂に入っているあいだ、林逸は自室にこもらず、あえてリビングでテレビをつけた。やがて蘇晩晴が食器を片づけ終え、ソファに座る。彼女はなにも言わず、ただ深いため息をひとつついた。

「さっきは、どうかしてたわよ」

「お義母さんが先に動いたんだよ」

「私のせいだっていうの?」

彼女が声をひそめて抗議する。林逸は笑いをかみ殺しながら、そっと彼女の手を握った。

「今度、夜景を見に行かない? ドライブがてら」

「なにを急に……」

「お父さん、週末はゴルフだって言ってたし。たまには息抜きに」

蘇晩晴はしばらく考え込んでいたが、やがて観念したように小さくうなずいた。

土曜日の夜。正明が早朝に家を出てから、蘇晩晴はずっと落ち着かない様子だった。夕方になって林逸が「行こう」と誘うと、彼女は少し迷いながらも、薄いカーディガンを羽織って玄関へ向かった。

車は林逸が運転した。彼は免許を取ってまだ半年だが、ハンドルさばきは思いのほかスムーズだった。助手席の蘇晩晴は窓の外をながめている。街灯が流れ、次第に建物の数が減っていく。

「どこまで行くの?」

「もうすぐ」

山道をのぼり、小さな展望台に車を止めた。そこからは町全体が見渡せた。無数の光が、まるで宝石をちりばめたようにきらめいている。空には星も見えていた。

「きれい……」

蘇晩晴が思わずつぶやく。林逸はエンジンを切り、車内を静寂につつませた。

「来てよかっただろ?」

「ええ……でも、あなたみたいな若い子が、こんな場所を知ってるなんてね」

「若い子扱いはやめてよ」林逸は苦笑し、シートにもたれかかった。「お義母さんこそ、そうやって年寄りぶるの、やめない?」

「失礼ね。まだ三十七よ」

「知ってる」

林逸はそこで言葉を切り、彼女のほうへ体を向けた。蘇晩晴もなにかを感じ取ったのか、こちらを向く。夜の闇のなか、双眼がかすかに光って見えた。

「ずっと一緒にいたいんだ」

彼がそう言うと、蘇晩晴の瞳が揺れた。彼女はなにも言わない。代わりに、ゆっくりとまぶたを閉じた。

林逸は身を乗り出し、彼女の唇に自分のそれを重ねた。はじめは触れるだけのキス。しかし、蘇晩晴の手が彼のシャツの袖をつかんだ瞬間、それは深くなった。息がかさなり、シートがきしむ。窓の外では夜景が静かにまたたいていたが、二人の世界にはいま、互いの熱しか存在しなかった。

しばらくして、唇を離す。蘇晩晴はうつむき、前髪で表情を隠してしまう。林逸はそんな彼女の肩を抱き、もう一度だけ言った。

「帰ろう。……でも、約束だからな」

返事はなかった。しかし、彼女の頭がこくんと、かすかに動いたのを、林逸は見逃さなかった。

その翌朝のことだった。

林逸が目を覚ますと、一階からなにか焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。時計を見るとまだ七時前だ。彼はパジャマのまま階段を下りた。

キッチンには、蘇晩晴が立っていた。エプロン姿で卵を焼いている。テーブルにはすでにサラダとスープ、焼きたてのトーストが並んでいた。

「おはよう。今日はどうしたの、早起きして」

林逸が声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。

「たまには、ちゃんとした朝ごはんを作らなきゃと思って。あなた、最近適当にすませてるでしょ」

その声は、心なしか弾んでいるようだった。昨夜の車内での出来事が、彼女のなかで確かな変化をもたらしたのかもしれない。林逸はなにも言わず、ただ彼女の背中を見つめていた。

「あと、こっち来て」

彼女がそう言って手招きする。見ると、アイロン台の上に林逸のお気に入りのシャツが広げてあり、皺ひとつなくきれいにプレスされていた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

蘇晩晴はそこで初めて振り返り、ほほえんだ。その笑顔にはもう、かつてのよそよそしさも、罪悪感の翳りもなかった。あたたかくて、柔らかくて、そして少しだけ、照れくさそうな笑み。

林逸は、心のなかでそっとつぶやいた。

ああ、この人の防御線は、いま、完全に崩れたんだ。

波乱の兆し

朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、蘇晩晴はベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。ここ数日、体が妙にだるく、朝起きるのがつらくなっている。最初はただの疲れだと思っていた。だが、ふと気づいたのだ。いつも規則正しく訪れる生理が、もう一週間も遅れていることに。

胸の奥がざわつき、手のひらにじっとりと汗がにじむ。カレンダーを何度も見返したが、間違いではなかった。日付は確実に過ぎている。彼女はゆっくりと起き上がり、バスルームへ向かった。鏡に映る自分の顔は青ざめ、目の下にうっすらとくまが浮かんでいる。

「まさか……」

声に出して呟くと、さらに不安が募った。彼女は急いで着替えを済ませ、近くのドラッグストアへと向かった。なるべく目立たないよう、帽子を深くかぶり、サングラスをかけて。店内に入り、妊娠検査薬の棚の前で足を止めた。心臓が早鐘のように打ち、手が震える。誰かに見られているのではないかという恐怖が、背筋を冷たく這い上がらせた。

彼女は素早く箱を手に取り、レジへと急いだ。店員は無表情で商品を通し、何も尋ねはしなかった。それがせめてもの救いだった。家に戻ると、すぐにバスルームに駆け込み、震える指で検査薬の包装を破った。説明書を読む余裕もなく、ただ必死で手順をこなした。

結果が出るまでの数分間は、永遠のように長く感じられた。彼女は便座に腰を下ろし、両手で顔を覆った。もし陽性だったら、どうすればいいのか。そんなこと、考えただけでも頭が割れそうだった。タイマーの音が鳴り、彼女は恐る恐る検査薬を手に取った。そこには、はっきりと二本の線が浮かび上がっていた。

陽性。

息が詰まり、目の前が真っ暗になった。彼女はそのまま床に崩れ落ち、声もなく震えた。頭の中では、林逸の顔が何度も浮かんでは消えた。どうやって彼に伝えればいいのか、伝えたところで何が変わるのか。何もわからなかった。ただ、絶望的な混乱だけが胸を締め付ける。

その夜、林逸は蘇晩晴の様子がいつもと違うことにすぐに気づいた。夕食の席でも、彼女はほとんど箸をつけず、視線は虚ろにさまよっている。

「どうしたんだ、晩晴さん。最近ずっと元気がないけど」

彼の優しい声に、彼女ははっとして顔を上げた。

「なんでもないの。ちょっと疲れてるだけ」

「嘘だ。顔色も悪いし、何か隠してるだろう」

林逸はじっと彼女の目を見つめた。そのまっすぐな視線に、蘇晩晴の胸はきつく締め付けられた。彼女は無理に笑みを作ろうとしたが、唇がわずかに震えるだけだった。

「本当に大丈夫だから……」

「大丈夫なわけがない。ちゃんと話してくれ。俺はもう子供じゃないんだ」

彼は席を立ち、彼女のそばに歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。蘇晩晴の体がびくりと跳ね、思わず手を振り払おうとしたが、彼の手はしっかりと彼女を支えていた。

「逸くん、やめて……」

「やめない。あなたが苦しんでいるのを見ているだけで、何もできないなんて耐えられない」

彼の声には真剣な響きがあり、その瞳はまっすぐに彼女の心の奥底まで見透かそうとしているようだった。蘇晩晴はついに観念し、震える手でバッグから検査薬の箱を取り出した。

「これ……見て」

林逸は差し出された箱を受け取り、それが何を意味するのか理解した瞬間、彼の動きが止まった。数秒の沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げた。その表情は驚きと戸惑いで固まっていたが、次第に確かな光が宿り始めた。

「本当なのか」

彼の声はかすれていたが、どこか力強さもあった。彼はそっと彼女の手を握りしめ、その温もりを伝えようとするかのように力を込めた。

「俺の子だな」

蘇晩晴はうつむいたまま、かすかに頷いた。すると、林逸は何のためらいもなく彼女をぎゅっと抱きしめた。彼の胸は熱く、鼓動が激しく脈打っているのが伝わってくる。

「よかった……驚いたけど、すごく嬉しい」

「嬉しい? 何が嬉しいの。これがどれだけ大変なことか、わかってるの」

蘇晩晴の声には涙が混じっていた。彼女は彼の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣き始めた。

「大丈夫だ。俺が必ず守る。この子も、あなたも」

林逸の腕に一層力がこもる。

「俺、親父に話そうと思う」

その言葉に、蘇晩晴は弾かれたように顔を上げた。

「だめ! 絶対にだめ。誰にも知られちゃいけない。特にお父さんには……」

「でも、いつかはわかることだ」

「違うの。今はまだその時じゃない。考えただけで恐ろしいの。お願い、逸くん。今はまだ秘密にしておいて」

彼女は必死に彼の腕を掴み、懇願するような目で見つめた。林逸は彼女の震える手を感じ、深いため息をついた。

「わかった。あなたがそう言うなら、今は何も言わない。でも、いつか必ずちゃんと話す。俺は逃げたりしない」

その後、数日が過ぎた。二人の間にはこれまでにない緊張感が漂っていたが、同時に、かけがえのない秘密を共有する親密さも生まれていた。しかし、平穏は長くは続かなかった。

ある夕方、電話が鳴った。着信画面に表示された名前を見て、蘇晩晴の顔色が一瞬で変わった。林逸の父親からだった。彼女は震える指で通話ボタンを押した。

「はい……」

「ああ、晩晴か。元気にしてたか」

電話の向こうから聞こえる声は、いつもと変わらず穏やかだったが、彼女の心臓は凍りついたように冷たくなった。

「急なんだが、仕事の都合で一ヶ月ほどこっちに戻れることになった。来週にはそっちに着くよ」

蘇晩晴は声を失った。頭の中で何かが激しく砕け散るような感覚がして、受話器を持つ手ががくがくと震えた。

「どうした? 聞こえてるか」

「え、ええ……聞こえてる。よかった、久しぶりに会えるわね」

彼女は必死に声を平静に保とうとしたが、喉の奥が引きつるようだった。林逸が横から心配そうに彼女を見つめている。

「じゃあ、詳しいことはまた連絡する。それじゃあな」

通話が切れると、蘇晩晴はその場にへたり込んだ。林逸が慌てて駆け寄り、彼女を支える。

「どうした。誰からだったんだ」

彼の問いに、彼女は力なく首を振った。

「お父さんが……一ヶ月間、帰ってくるって」

その言葉に、今度は林逸の顔からも血の気が引いた。二人は言葉もなく互いを見つめ合い、同じ恐怖を分かち合った。真実が露見する危険が、すぐそこまで迫っている。蘇晩晴の目からは涙が一筋こぼれ落ち、林逸はただ彼女を強く抱きしめることしかできなかった。静かな部屋の中で、二人の鼓動だけが早鐘のように響き続けていた。

護りの誓い

父が海外出張から戻ったその日から、家の中の空気は一変した。リビングには父の革靴の跡がつき、ダイニングテーブルには三人分の箸が並ぶ。表面上はどこにでもある平凡な家庭の風景だ。しかし林逸と蘇晚晴の間には、誰にも言えない秘密が確かに息づいていた。

父がいる前では、蘇晚晴は意識的に林逸との距離を取った。目が合えばすぐに逸らし、会話も必要最小限に抑える。そのよそよそしさは、かえって林逸の胸を締め付けた。彼は彼女が必死に平静を装えば装うほど、その肩にのしかかる重圧を感じ取ってしまうのだった。

特に彼女の体調は、日に日に明らかになっていった。朝、父が新聞を読んでいるリビングの隅で、蘇晚晴は突然顔を青ざめさせ、口元を押さえてキッチンへ駆け込んだ。蛇口を全開にした水音の向こうで、彼女が必死に嘔吐をこらえる気配が伝わる。父は顔も上げずに「どうした?」と尋ねたが、蘇晚晴は「ちょっと胃の調子が悪くて」と絞り出すように答え、それ以上は何も言わなかった。

林逸は心臓を鷲掴みにされたような心地だった。彼は何も言えず、ただ新聞を読む父と、青白い顔で戻ってくる蘇晚晴を、交互に見つめることしかできなかった。彼女の指先は微かに震え、額には冷や汗が浮かんでいた。それでも彼女は、何事もなかったかのように微笑んだ。そんな彼女を見るたび、林逸の胸の奥で何かが軋むような痛みが走った。

彼はこっそりと行動を起こすことにした。大学の講義が終わると、すぐに駅前のドラッグストアへ向かった。つわりに効くという漢方の飴や、ビタミンB6のサプリメント、妊婦でも飲める胃腸薬を手当たり次第にカゴに入れる。レジの女性がちらりと不審そうな目を向けたが、林逸は構わず会計を済ませた。

家に帰る前に、彼はもう一つの準備をしていた。スマホで検索したのは「つわり 和らげる 食事」。そこで見つけたのが、生姜を利かせた白粥と、さっぱりした梅干しだった。彼はこれまで包丁すら握ったことがなかったが、今は真剣そのものの表情で、米を研ぎ、生姜を千切りにし、鍋の火加減を調整する。指先を軽く切ってしまったが、痛みよりも、早く彼女に届けたいという思いが勝った。

その日の夕方、父がまだ会社から戻らない時間を見計らい、林逸は保温容器に入れた粥を蘇晚晴の部屋へ運んだ。彼女はベッドの縁に腰掛け、顔色はまだ優れなかった。差し出された粥を見て、蘇晚晴の瞳が一瞬揺れる。

「あんた、これ……」

「食べて。あったかい方が楽になるってネットに書いてあった」

林逸は無理に笑顔を作り、スプーンを手渡す。彼女が一口すすると、その目尻がほんの少し緩んだ。

「おいしい……あんたが作ったの?」

「うん。初めて作ったから、ちょっと自信ないけど」

「……ありがとう」

少しの沈黙のあと、蘇晚晴はうつむいたまま呟いた。

「こんなこと……本当はダメなのに」

「ダメなことなんてないよ。辛いときに頼るのは当然だ」

林逸の声は優しいが、芯が通っていた。彼はエコバッグから飴やサプリを取り出して説明を始める。蘇晚晴は黙って聞いていたが、ふと顔を上げ、その瞳には複雑な光が揺れていた。

その時だった。玄関の方から鍵の開く音が響いた。二人は同時に動きを止める。林逸は反射的に薬や飴をバッグに押し込み、蘇晚晴は粥の容器を枕元の引き出しに隠す。心臓が早鐘のように打ち、互いの呼吸音すら聞こえてきそうな静寂の中で、林逸はゆっくりと立ち上がり、何事もなかったかのようにドアへ向かった。

廊下で父とすれ違う。「おう、いるのか」と言われ、「うん、今帰った」と答える自分の声が、異様に落ち着いているのが逆に怖かった。父はそのまま寝室へ向かい、林逸は自室に駆け込み、壁に背をつけて深く息を吐いた。手のひらは汗で湿り、切り傷がじんわりと痛んでいた。

それから数日、蘇晚晴のつわりはさらに悪化した。朝だけでなく、昼も夜も、ふとした瞬間に気分が悪くなる。彼女は必死に隠そうとしたが、林逸にはすべてお見通しだった。彼は講義の合間を縫っては食材を買い込み、父が寝静まった深夜にキッチンで弱火の鍋を見つめた。ある晩、ふいに背後から「まだ起きてたの」と声がかかった。

振り返ると、蘇晚晴がパジャマの上に薄手のカーディガンを羽織って立っていた。その顔は疲れ切っていて、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。林逸は火を止めて彼女に向き合った。

「眠れないなら、温かい牛乳でも飲む?」

「……あんた、どれだけ私のこと構うのよ」

蘇晚晴の声は震えていた。それは怒りではなく、深い戸惑いと哀しみが混ざった響きだった。

「私は……あんたの父親と結婚した女よ。こんなの、絶対におかしい」

「おかしいなんて思わない」

林逸は一歩近づいたが、彼女が怯えないよう手は出さなかった。

「誰が何と言おうと、俺がそうしたいからしてるだけだ」

蘇晚晴は何かを言おうとして、口を開きかけては閉じた。彼女の瞳に涙の膜が張り、それがキッチンの小さな灯りに揺れる。彼女は自分を抱きしめるように腕を組み、絞り出すような声で言った。

「お腹の子……どうしたらいいのか、ずっと考えてる。本当は……嬉しいの。あんたとの子だって思うと、胸がぎゅっとなる。でも、これは現実じゃない。バレたら家族も、あんたの未来も、全部壊れる」

「全部壊れたっていい」

林逸の返答は予想外にはっきりしていた。

「責任は俺が取る。晩晴さんがどうしたいかが一番大事なんだ。もし産みたいなら全力で守るし、もし違う決断をするなら、それも支える。俺はどっちでも、晩晴さんの味方だ」

その言葉に、蘇晚晴の表情が崩れた。彼女は口元を押さえ、肩を震わせながら泣き始める。声を押し殺した嗚咽が静かなキッチンに響き、林逸は彼女の肩にそっと手を置いた。

「ここでは寒いから、部屋に行こう」

二人は足音を忍ばせて林逸の部屋に入った。ベッドに腰掛けた蘇晚晴は、まだ涙を拭いきれずにいる。林逸は彼女の隣に座り、何も言わずにそっと背中をさすった。しばらくして、蘇晚晴はぽつりぽつりと語り始めた。

「私ね……本当に悪い女だと思う。夫婦の関係もちゃんとできない、父親よりも息子に惹かれてしまう……それなのに、どうしてもこの子を手放したくない」

「悪くなんかない」

林逸は彼女の肩を抱き寄せた。彼女の体はまだ小さく震えていたが、抵抗はなかった。

「俺の方から近づいたんだ。それに、愛情に正しいも間違いもない。あるのは、感じたかどうかだけだ」

「でも……」

「今はそれでいい。全部俺に預けてくれないか」

蘇晚晴は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく小さく頷いた。彼女は林逸の胸に顔を埋め、その温もりにしがみつくように両手をぎゅっと握った。林逸は彼女の髪を優しく撫でつけながら、言葉を続ける。

「これからはもっと気をつけよう。誰にもバレないように、でも無理だけはさせない。絶対に君を一人にしない」

「あんたは……どうしてこんなに強いの」

「強くなんかないよ。ただ、絶対に失いたくないだけだ」

やがて蘇晚晴は顔を上げ、泣き腫らした目で林逸をまっすぐ見つめた。その目には、迷いと同時に、決意の光が宿っていた。

「私、やっぱり産むわ」

小さくもはっきりとした声だった。

「この子は、きっと私とあんたを繋いでくれた証だから」

林逸は息をのみ、それから静かに微笑んだ。

「うん。そうしよう」

「でも約束して。誰にも絶対に言わない。あの人が知ったら……」

「わかってる。秘密は墓場まで持っていく。時が来たら、方法を一緒に考えよう」

「時が来たら……ね」

蘇晚晴は小さく繰り返し、それから初めて、ほんの少しだけ笑った。それは今まで見たどんな表情よりも脆くて、美しかった。

二人はそのままベッドに横たわり、互いの温もりを感じ合った。窓の外では夜風がカーテンを揺らし、遠くで救急車のサイレンが微かに聞こえる。しかしこの部屋だけは、世界から切り離されたように静かで、そしてあたたかかった。

蘇晚晴は林逸の腕の中で再び涙をこぼしたが、今度は悲しみだけではなかった。彼女は安心したように目を閉じ、小さな寝息を立て始める。林逸は彼女の寝顔を見下ろしながら、これから先に待ち受ける困難と、それでも手放せないこの温もりを、心の中で何度も確かめるように抱きしめた。

夜が明けるまであと数時間。その短い安らぎの中で、二人の間には確かに「護りの誓い」が結ばれていた。何があろうと互いを守り抜くという、それは、誰にも踏み込ませない、二人だけの決意だった。