秋の気配が深まり、大学構内の銀杏並木が黄金色に染まる頃、林逸はある計画を練っていた。学生課の前で受け取った書類を手に、彼はスマートフォンを取り出す。画面に表示された「蘇晩晴」の文字を指先でなぞり、一呼吸置いてから通話ボタンを押した。
「もしもし、お義母さん」
電話越しの声は、いつもより少し硬い。林逸はそれを敏感に感じ取りながら、なるべく事務的な口調を心がけた。
「今週の金曜日、大学で保護者向けのキャリアガイダンスがあるんです。進路相談の関係で、保護者の署名が必要だって言われて。親父は今週ずっと出張だし……申し訳ないんですけど、来てもらえませんか」
受話器の向こうで、蘇晩晴は数秒間沈黙した。このところ彼女は明らかに林逸との距離を取ろうとしていたし、彼もそれを承知の上での電話だった。しかし「保護者としての役割」という大義名分を盾にされれば、そう簡単に断れるものではない。家庭を築くことを心から願ってこの家に嫁いだ彼女にとって、義理の息子の学業に関わることを無下にするのは、自分の信念に反する行為だった。
「……わかったわ。金曜日の何時?」
「午後三時からです。終わったら、せっかく大学まで来てもらったので、構内のカフェでお茶でもどうかなと。最近新しくできた店があるんです」
林逸は慎重に、しかし確実に次の一手を打つ。この電話の真の目的は、ガイダンスなどではなく、その後の時間にあった。蘇晩晴もおそらく薄々感づいている。それでも彼女は、義理の息子の申し出を完全に拒否することができなかった。
金曜日の午後、待ち合わせ場所に指定した大学正門前に、蘇晩晴の姿は約束の十分前に現れた。濃紺のシンプルなワンピースに、ベージュのトレンチコートを羽織り、控えめなパールのピアスを揺らしている。三十七歳とは思えないほど引き締まった立ち姿と、落ち着いた色気を漂わせるその佇まいに、行き交う男子学生たちの視線が自然と集まった。
林逸は少し離れた銀杏の木陰から、そんな彼女の姿をしばらく眺めていた。この女性が自分の義理の母親であるという事実が、彼の中ではどうしても腑に落ちない。そんなカテゴリーに押し込めるには、彼女はあまりにも美しく、あまりにも強く彼の心を揺さぶる存在だった。
「お義母さん、こっちです」
駆け寄る林逸の足取りは軽い。蘇晩晴は振り返り、ほんの少しだけ眉を上げた。彼の顔を見るたびに、彼女は複雑な表情を隠しきれない。あの横浜の雨の日の夜、傘を差し出した青年のひたむきな瞳を思い出すのかもしれない。あるいは、あの帰宅直後に何気ない会話の流れで彼が発した「お義母さんは、どうしてこんなに綺麗なんだろう」という言葉を、まだ鮮明に覚えているからだろうか。
「ガイダンス会場はこっちです。でも実は、今日のメインイベントはもう終わってるんです。署名が必要っていうのは本当ですけど、保護者会そのものは午前中に終わっちゃいました」
林逸はわざとらしく頭をかきながら、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、ちょっとだけ嘘つきました。でも、どうしてもお義母さんとゆっくり話したくて。大学を見てもらいたかったし、それに……」
蘇晩晴は立ち止まり、静かに林逸を見つめた。その目には責めるような色と、どこか諦めにも似た色が混ざっている。
「あなたね……そういうことは、もう……」
「とにかく、せっかく来てもらったんですから、カフェに行きましょう。ここのラテが結構美味しいんですよ」
林逸は蘇晩晴の言葉を最後まで聞かず、さりげなくエスコートするように、しかし決して肌に触れない絶妙な距離感で彼女を誘導した。こういうところに、彼の天性の勘の良さと、絶対に無理強いをしないという繊細な計算が表れている。蘇晩晴が警戒心を緩めないまま彼に付いていくのは、それが礼儀だと思うからか、それとも彼の真摯なペースに抗いきれないからなのか、自分でも判断がつかなかった。
大学構内の北東に位置する瀟洒なカフェは、全面ガラス張りで、午後の柔らかな日差しが床に幾何学模様を描いている。林逸は窓際の席を選び、蘇晩晴にメニューを差し出しながら、さりげなく言った。
「お義母さんは、オーガニックのハーブティーがお好きでしたよね。ここにはオーガニックのカモミールとラベンダーのブレンドがありますよ」
蘇晩晴はわずかに動揺した。自分がハーブティーを好むことなど、いつ彼に話しただろうか。おそらく、リビングで彼女がよく飲んでいるティーバッグの銘柄を、林逸はこっそり記憶していたのだろう。その細やかな注意力が、かえって蘇晩晴の心に波紋を広げる。
「……じゃあ、それをお願い」
「僕はカフェラテで。あと、この店自慢のスコーンも二つ。クロテッドクリームとジャムが付いてくるやつです」
注文を終え、ウェイトレスが去ると、二人の間にふと静寂が訪れた。窓の外では、数人の学生たちが楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。店内に流れるジャズピアノの旋律だけが、この繊細な沈黙を優しく埋めていた。
「お義母さんは最近、疲れてるんじゃないですか? なんだか顔色があまり優れないような気がします」
林逸の声は、心からの気遣いに満ちていた。彼はテーブルに両肘をつき、少し前かがみになって蘇晩晴の顔を覗き込む。その距離は、義理の親子としてはやや近すぎるようにも思えたが、かといって不快感を与えるほどではない。絶妙なバランスだった。
「大丈夫よ。ただ、季節の変わり目で少し寝つきが悪いだけ」
蘇晩晴はわずかに顔を背け、窓の外に視線を逃がした。そんな彼女の横顔を、林逸はじっと見つめる。秋の日差しを受けて、彼女の首筋から顎にかけてのラインが淡く輝き、まつ毛の影が頬に落ちている。その光景は、彼がイギリスで見た数々の肖像画を思い起こさせるほど、静謐で美しかった。
「綺麗だ」
林逸の口から、その言葉が自然とこぼれ落ちた。説明も修飾もない、あまりにも率直な賛美だった。
蘇晩晴の肩がびくりと震える。彼女はすぐに顔を戻し、眉をひそめて林逸を正面から見据えた。その瞳には、明らかな警戒の色と、かすかな動揺が浮かんでいる。
「林逸、そういうことは言うべきじゃないわ。私はあなたの母親なの。血の繋がりはなくても、立場上そうなの。そういう言葉を軽々しく口にするものじゃない」
彼女の声は低く、しかし鋭利な刃のように正確に言葉を刻んだ。最後の方は、ほとんど自分自身に言い聞かせているかのようだった。
林逸は一瞬だけうつむき、それから顔を上げて素直にうなずいた。
「ごめんなさい。でも、本当のことなので」
その返答に、蘇晩晴は言葉を失った。叱責することも、肯定することもできず、彼女は運ばれてきたハーブティーのカップを両手で包み込むように持ち上げた。湯気の向こうで、彼女の表情がわずかに揺らいでいるのを、林逸は見逃さなかった。
スコーンが運ばれてくる頃には、林逸は巧みに話題を変えていた。大学の授業のこと、イギリスと日本の教育の違い、最近読んでいる本の話。彼の語り口は知的で穏やかであり、蘇晩晴が返答に窮するような話題は慎重に避けられている。気がつけば、蘇晩晴もいくぶん肩の力が抜け、イギリス文学の話題では珍しく自分の意見を述べたりもしていた。
「お義母さんはやっぱり、ジェイン・オースティンがお好きなんですね。前に本棚で見かけました」
「ええ、大学生の頃に原書で読んで。特に『説得』が好きだった。あの抑制された感情の描写が……」
そこまで言って、蘇晩晴ははっとして口をつぐんだ。『説得』は、一度は別れた恋人と再会し、長い時間を経て再び結ばれる物語だ。そのテーマが、今の自分たちの状況とかすかに共鳴していることに気づいたのだろう。林逸もまた、そのことに気づいているのかいないのか、ただ静かに微笑み、カップを傾けていた。
「お義母さん、そろそろ帰りましょうか。今日は来てくれてありがとうございます。保護者の署名、あとで書類に書いてもらえますか」
林逸はそう言って伝票を手に取り、さっと立ち上がった。彼は決して最後の一線を踏み越えない。今日の彼の目的は、蘇晩晴ともっと親密な時間を共有することであり、彼女を困らせることではなかったからだ。
家に帰る車の中、二人の会話は途切れがちだった。蘇晩晴は運転に集中しているふりをしながら、心の中で小さな警鐘が鳴っているのを感じていた。今日のカフェでの時間は、表面上は何の問題もない義理の親子の団らんだった。しかし、その底流に確かに存在した緊張感と、林逸の台詞の端々に込められた計算、そして何より、自分がそれを完全には拒絶できていないという事実が、彼女を深く苛立たせた。
「私は母親なんだ。絶対に、一線を越えてはいけない」
彼女はハンドルを握る指に力を込め、心の中で何度もそう繰り返した。
しかし週末が訪れると、林逸はまた別の方法で彼女の心の壁に揺さぶりをかけた。
土曜日の夕方、蘇晩晴がスーパーから帰宅すると、玄関を開けた瞬間にピアノの旋律が耳に飛び込んできた。それはドビュッシーの『月の光』だった。彼女が最も愛してやまない曲であり、かつて夫にも、林逸にも話したことがなかったはずの曲だ。
そっとリビングに足を踏み入れると、書斎のドアが半開きになっていて、その向こうで林逸がピアノに向かっている姿が見える。彼の長い指が鍵盤の上を迷いなく滑り、繊細なタッチで和音を紡いでいく。窓から差し込む夕日が彼の横顔を照らし、真剣な眼差しが楽譜ではなく、虚空のどこか遠くを見つめていた。
蘇晩晴は、買い物袋を床に置くことも忘れて、その場に立ち尽くした。この家にピアノがあることは知っていた。夫が昔、前妻のために購入したものだと聞いていた。しかし最近まで、それは単なる家具の一部として書斎の隅に置かれていたのだ。一体いつから、林逸はこんなにも見事に弾けるようになったのか。そしてなぜ、よりによってこの曲なのか。
演奏が終わり、最後の和音が空気に溶けて消えるまで、蘇晩晴は微動だにしなかった。林逸はゆっくりとペダルから足を離し、それから振り返る。二人の視線が、半開きのドア越しに交錯した。
「おかえりなさい、お義母さん」
「……ただいま」
蘇晩晴はようやく袋を持ち上げ、キッチンへと向かう足を動かした。心臓がうるさいほどに脈打っている。彼女は冷蔵庫に食材を詰め込みながら、必死に冷静さを取り戻そうとした。
「たまたまよ。たまたま、あの子が好きな曲を練習していただけ。私の好きな曲だとは知らないはずだもの」
そんなふうに自分に言い聞かせたものの、先日カフェで自分がオースティンの『説得』を好むと話した時、林逸がまったく驚いた様子を見せなかったことを思い出した。彼はすでに、どこかで知っていたのだ。自分の好きな作家も、好きな曲も、好きなお茶の銘柄も。この家のどこかに、彼は自分の痕跡を丹念に探し集め、少しずつ心の地図を描いている。そう考えると、蘇晩晴の背筋に冷たいものが走ると同時に、胸の奥がかすかに熱くなった。
「ダメだ」
彼女は冷蔵庫のドアを閉め、両手で顔を覆った。三十七歳の分別ある大人として、これ以上若者の危うい情熱に寄り添ってはいけない。彼には明確な境界線を示さなければならない。自分が母親であるという立場を、行動で示さなければならない。
その日から、蘇晩晴の態度は明らかに変わった。
夕食の席では、彼女は林逸の正面ではなく、必ず斜め向かいの席に座るようになった。彼が学校の話を振っても、必要最小限の返事しかしない。リビングで二人きりになりそうな状況を察知すると、すぐに自室に引っ込むか、庭の手入れをするふりをして外に出た。洗濯物をたたむ時間帯も、これまでは林逸がリビングにいる夕方にやっていたのに、わざわざ午前中に変更した。
林逸は、そんな蘇晩晴の変化を敏感に察知していた。彼女が避けようとしていること、無理に壁を作ろうとしていること、すべてお見通しだった。しかし彼は、それを直接指摘することもしなければ、傷ついた素振りを見せることもしなかった。むしろ、彼女が張り巡らせた透明な壁を尊重するかのように、一定の距離を保ちながら、それでいて決して存在感を消さないという絶妙な立ち位置を維持した。
たとえばある朝、蘇晩晴が軽い風邪で喉を痛めていると知ると、林逸は何も言わずにキッチンのカウンターに蜂蜜と生姜のパック、それに丁寧にラッピングされたオーガニックののど飴を置いた。付箋には、丸みを帯びた几帳面な字で「無理しないでください」とだけ書かれている。
また別の日、蘇晩晴が遅くまで仕事で帰宅が深夜になった時も、ダイニングテーブルの上には保温ポットに入った野菜スープと、短いメモが残されていた。「温めて飲んでください。胃に優しいです」
それは決して押し付けがましくない、しかし確実に蘇晩晴の心の隙間を埋めていくような優しさだった。彼女はそれらの気遣いに対して、直接の感謝を口にすることはほとんどなかったが、のど飴をそっとハンドバッグに忍ばせ、深夜に一人でスープをすする時の表情は、誰にも見せられないほど柔らかかった。
そして、彼女の誕生日が近づいていた。
十一月の半ば、街はすでにクリスマスのイルミネーションを準備し始め、空気は冬の到来を予感させる冷たさを含んでいた。林逸は、一ヶ月も前から蘇晩晴への誕生日プレゼントを準備していた。それは高価な宝飾品でも、華やかな花束でもなかった。彼が選んだのは、ロンドンの骨董市で見つけた一九二〇年代の小さな銀製のフォトフレームと、それに収める一枚の写真だった。
写真は、彼が密かにデジタル化した蘇晩晴の若い頃の一枚だ。本棚の奥にしまわれていた古いアルバムから見つけた、彼女が大学生の時、イギリスに短期留学した際に湖水地方で撮影したものだった。風に髪を乱されながら、カメラに向かって屈託なく笑う彼女の姿。林逸はその写真を見つけた時、言葉にできないほどの愛おしさを感じた。今の彼女からは想像もできないほど無邪気で、それでいて面影は確かに現在の蘇晩晴と重なる。
彼はその写真を専門店で丁寧に焼き直し、アンティークのフレームに収めた。そして、湖水地方にまつわるワーズワースの詩集の初版本まで見つけ出してきた。これらは決して金銭的な価値だけではない、理解と共感に裏打ちされた贈り物だった。受け取る相手の魂の歴史にそっと触れようとする、非常に親密で、それゆえに危うい贈り物だった。
誕生日当日の朝、蘇晩晴がリビングに行くと、テーブルの上に紺色のリボンがかけられた小さな箱と花束が置かれていた。夫からはすでに昨夜のうちにシンプルなネックレスが贈られていて、それで誕生日の行事は終わったものだと思っていた。だからこの贈り物が誰からのものか、彼女はすぐに理解した。
恐る恐るリボンをほどき、中から現れたフォトフレームを手に取った瞬間、蘇晩晴は息を呑んだ。若き日の自分が、湖水地方の風景の中で笑っている。こんな写真を撮ったことさえ、長い間忘れていた。なのに、それが今、銀のフレームに守られて、まるで遠い過去からの手紙のように彼女の手の中にある。
フレームの裏側には、小さな文字でこう刻印されていた。
「いつかまた、あの湖畔で」
蘇晩晴は、その場にしゃがみ込んだ。フレームを胸に抱え、声を殺して泣いた。誰に対しての涙なのか、自分でもわからなかった。遠い昔の自分に対する哀惜かもしれないし、今の自分を縛る倫理の鎖に対する無力感かもしれない。あるいは、優しくまっすぐに心の扉を叩き続ける若者に対する、名付けようのない感情の奔流なのかもしれない。
その時、二階の廊下で、林逸が静かにその様子を見下ろしていた。彼は声をかけなかった。今、自分が姿を現すことは、彼女の尊厳を傷つける行為になりかねないと理解していたからだ。彼はただ、その場に立ち尽くし、指が白くなるほど手すりを握りしめていた。
彼の心の中に、一つの確信があった。
「急がない。絶対に急がない。いつか必ず、彼女が自分から振り返るまで」
階下では、蘇晩晴がゆっくりと立ち上がり、涙を拭いた。彼女はフォトフレームを大切そうに包み直すと、リビングの本棚の、最も目立たない隅にそれを置いた。誰の目にも触れない場所、しかし彼女自身がいつでも手に取れる場所に。
その日から、彼女は林逸を避けることをやめたわけではない。むしろ、これまで以上に慎重に、より厳格に自分を律しようとしているようにも見えた。しかし、彼女が時折見せる物憂げなまなざしの奥に、以前にはなかったかすかな光が宿っていることを、林逸は見逃さなかった。
冬の足音が近づいていた。風は冷たく、夕暮れは早い。すべての生命が静かに内へ内へと閉じこもる季節。しかしこの家の中で、何かがゆっくりと、しかし確実に動き始めている。それはまだ名付けるには早すぎる感情であり、冬の凍土の下で密かに息づく、春を待つ種子のようなものだった。