父の電話が鳴ったのは、大学の春の日の午後だった。キャンパスの桜並木を友人と歩きながら、葉紫涵は笑っていた。彼女は経済学部の二年生で、入学以来ずっと「校花」と呼ばれ、誰もが振り返る美貌の持ち主だった。背筋を伸ばし、顎をわずかに上げて歩くその姿には、育ちの良さと自信があふれていた。スマートフォンの画面に「お父さん」と表示されたのを見て、何の気なしに通話ボタンを押した。
「もしもし、お父さん?」
受話器の向こうから聞こえたのは、震えきった声だった。父がこんなふうに取り乱すのは初めてだった。
「紫涵……ごめん、ごめんなさい……全部お父さんのせいだ……」
彼女の笑顔が凍りついた。友人が怪訝そうに振り返る中、紫涵は立ち止まり、声を潜めた。
「何があったの? 落ち着いて話して。」
「借金を……してしまった。闇の組織から大金を……返せなければ、お前が……」
言葉の続きは聞くまでもなく伝わった。足元の地面が崩れ落ちる感覚。春の陽射しが急に遠くなり、桜の花びらが黒く見えた。父は泣きながら、今夜中に指定された港へ行かなければ家族全員の命が危ないと告げた。
「警察には……」
「ダメだ! 警察に言えばもっと酷いことになる。もう手は打ってあるんだ……頼む、一度だけ港に来てくれ。話を聞くだけで……」
紫涵は何も言えなかった。返事をする前に通話が切れた。友人が心配そうに肩に手を置いたが、彼女は振り払うように走り出した。寮に戻り、無造作にバッグを掴む。化粧品も財布も適当に詰め込んだ。鏡に映る自分の顔はまだ完璧なメイクを保っているのに、目だけが死んだ魚のようだった。
夕暮れ時、彼女はタクシーで港へ向かった。父が指定した埠頭には、明らかに場違いな白色の豪華遊覧船が停泊していた。三階建てで、各階の窓からは暖色の灯りが漏れ、微かに笑い声とグラスの触れ合う音が聞こえる。まるで富裕層のパーティーのようだ。しかし周囲を固める黒服の男たちの眼差しは、値踏みするように冷たかった。
父は埠頭の端で待っていた。普段は威厳のある実業家の顔は崩れ、皺だらけのスーツで何度も頭を下げている。娘の姿を見つけると、よろよろと駆け寄り、両手を握りしめた。
「紫涵……本当にすまない……でも、もうどうしようもないんだ。契約書にサインしてしまった。お前がここで働けば、借金はチャラになる……悪いようにはされないと言われた……」
「働く? 何の仕事?」紫涵の声は冷たく、自分でも驚くほど平坦だった。
父の口から漏れたのは、言い淀んだ言葉ばかりだった。やがて黒服の一人が近づき、無言で二人を遊覧船のタラップへ促した。紫涵は父の腕を振り払い、一歩を踏み出した。恐怖より先に、高慢さが焼けついた。泣き叫んで許しを乞う姿を、この連中に見せたくなかった。
船内に入ると、すぐに異様な香りに包まれた。甘ったるい香水と、葉巻の煙、そしてアルコールの混ざった空気。廊下の壁は金箔をあしらった赤い壁紙で、歩くたびに厚い絨毯が足音を吸い込む。しかし、通されたのは豪華なラウンジではなかった。階段を一段下りると、一転して殺風景な通路が現れた。蛍光灯が白く照らし、どこか病院を思わせる清潔感と無機質さがある。
「ここから先はサービス要員の区画だ。服を全部脱げ。」
声は背後からだった。振り返ると、派手な柄のシャツを着た男が立っていた。年齢は四十前後、浅黒く日焼けした肌に、太い金のネックレス。笑っているが目は全く笑っていない。これが、龍哥だ。
「私は……」紫涵が言いかけると、男は手を上げて遮った。
「質問は許されない。規則だ。ここではお前は番号十七号だ。客人にサービスする為の道具だ。道具に服は要らん。」
父はもういなかった。いつの間にか連れて行かれたのだろう。紫涵は唇を噛みしめ、震える指でジャケットのボタンを外し始めた。一枚一枚、シルクのブラウス、膝丈のスカート、ストッキング。剥き出しになる肌が寒さで粟立つ。周囲には数人の若い女たちが通りかかり、無表情で彼女を一瞥した。その全裸の体には、腰に大きく「17」と刺青が彫られている者もいれば、同じく番号を胸元に刻まれた者もいた。彼女たちの視線には、同情も嘲笑もなく、ただ虚無だけが漂っていた。
最後の下着を取り去った瞬間、紫涵は自分の心のどこかが音を立てて折れるのを感じた。龍哥は満足そうに頷き、手を伸ばして彼女の左胸の下当たりに冷たい金属を当てた。小さな刺青用の機械の駆動音がして、鋭い痛みが走る。皮膚の下で針が踊り、番号「17」が刻み込まれていく。紫涵は声を押し殺し、歯を食いしばった。痛みと共に、誇り高い過去が皮膚の下から血と共に流れ出ていくようだった。
「良い子だ。泣き喚くバカよりずっと扱いやすい。今日からここがお前の職場であり、家だ。逆らえばどうなるか、たっぷり教えてやるからな。」
龍哥はそう言い放つと、奥の部屋へ向かって顎をしゃくった。その部屋のドアには「調教室」のプレートが掛かっていた。紫涵は裸のまま、震える脚で一歩を踏み出した。遊覧船のエンジンが低く唸り、窓の外では夜景と海が揺れていた。船上のどこかで、男たちの野太い笑い声が響く。彼女はこれから始まる地獄をまだ知らなかった。ただ、二度と戻れないとだけは本能で理解していた。
冷たい廊下を裸足で進む背中に、監視カメラのレンズが無数に向けられていることを感じながら、葉紫涵は校花としての最後の涙を一粒だけ床に落とした。それ以上は許されなかった。もうすぐ他の女たちと同じ領域へ引きずり込まれる。そう思うと、恐怖と屈辱とが混ざり合い、胃の底からこみ上げる吐き気をこらえるので精一杯だった。