夫の突然の心臓発作は、まるで長い間張り詰めていた糸がぷつりと切れるように、あまりにもあっけなかった。葬儀の喧騒が去り、親戚や隣人たちの気遣わしげな声も消えた午後、林素はただ一人、夫の書斎に立っていた。窓の外には薄曇りの空が広がり、部屋の中にはまだかすかに線香の匂いが漂っている。黒い喪服を脱ぎ捨て、薄手の部屋着に着替えた身体は、張り詰めていたものが緩み、妙にだるかった。
机の引き出しをそっと開ける。夫が几帳面に整理していた書類や印鑑、古い手帳が出てきた。その下から、鍵のかかっていない小さな革張りの箱が現れる。素の指先が、躊躇いがちにその表面をなぞる。硬く冷たい感触が指に伝わった。彼女は深呼吸を一つし、蓋を開けた。中には皮の鞭、細い縄、そして数本の蠟燭。どれも使い込まれ、手垢に染みている。それらを目にした瞬間、記憶が堰を切って流れ込んできた。
夫は、外では物静かで優しい男だった。しかし寝室では一変した。素は彼の厳しい命令に従い、跪き、時には肌に鞭の跡がつくほどの痛みを与えられた。痛みはいつしか甘い痺れに変わり、服従そのものが快感であることを彼女に教え込んだ。彼が発する罵倒の言葉さえも、今では惜しく思えるほどだ。夫の死は悲しみよりもむしろ、深い底のない喪失感を彼女にもたらした。この箱の中の道具たちは、失われた支配の象徴であり、彼女の中で燻り始めた欲望の種火でもあった。
彼女は鞭をそっと握りしめ、目を閉じた。夫の声が蘇る。「素、お前は俺の犬だ。それ以下だ」と言われ、そうだと心から思い込まされたあの瞬間。自分は生まれながらに虐げられることを望む、卑しい性分なのだと。しかし夫が死に、その支配は消えた。彼女は今、誰にも縛られず、誰にも辱められない。解放されたはずだった。なのに身体の奥底が疼いている。空虚で、飢えている。もっと深く、もっと完膚なきまでに支配されたい。その相手は——。
ふと、階下から息子の昊の声が聞こえたような気がして、素ははっと顔を上げた。昊は今年十五歳。背丈が伸びて声変わりも終わり、少年から青年へと変わりつつある。純粋で優しい子だが、その瞳の奥には、時おり何かを探るような光が宿る。素は知っている。あの子の中にも、父親と同じように誰かを支配したいという本能が眠っていることを。そして自分が、その本能を呼び覚ますことができるという確信めいたものを、ひそかに抱いている。
彼女は箱をそっと元に戻し、机の脇に立った。思考が急速に形を成していく。遺書。夫が死の間際に書き残したという遺書を、でっち上げよう。彼は全てを自分に託した、と。それだけではない。自分を息子に差し出すよう、夫が遺言したことにすればいい。もちろんそんなものは存在しない。だからこそ、自分で創り出すのだ。この先の人生、ただの母親として穏やかに老いるくらいなら、自ら地獄へと堕ちていく喜びに身を委ねたい。我が子に飼い慣らされ、性奴隷として扱われる日々を想像すると、背筋にぞくぞくとした戦慄が走った。それは罪悪感とも、これから始まる冒険への途方もない期待ともつかぬものだった。
夕食の支度をしながらも、素の頭の中は遺書の文案でいっぱいだった。食卓では、昊が無邪気に学校の話をする。素は穏やかな母の顔で相槌を打ちながらも、心の中では全く別のことを考えている。この子が、いずれ自分を裸にし、縄で縛り、床に這いつくばらせる姿を想像すると、下腹部がきゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。
夜も更け、昊が自室に戻るのを確認してから、素は書斎に向かった。質の良い便箋と、夫が生前使っていた万年筆を取り出す。筆跡を真似るのは難しかったが、彼女は数年前、夫に命じられて彼の字を練習させられたことを思い出した。あの時の訓練は、まさにこの日のためだったのかもしれない。彼女は落ち着いて、一字一字、夫が描きそうな力強い線で文章を綴っていく。
『遺言書』
『私、林忠信は、ここに最後の意思を記す。全財産は妻、林素に相続させる。ただし、これには条件がある。息子、林昊が成人するまでの間、妻は息子に対して絶対の服従を誓い、彼の教育係として肉体と精神を捧げること。私は生前、妻を調教し、真の隷属の悦びを教えた。その全てを、息子に継承させる。昊よ、汝の母は汝の僕である。彼女を自由に使い、躾けなさい。これが、父としての最後の願いである』
彼女は一度手を止め、読み返した。あまりにも露骨で、滑稽ですらあるかもしれない。だが、十五歳の少年の目には、混乱と好奇心を引き起こすには十分な内容だった。日付は夫が倒れる一週間前にし、署名は練習を重ねた筆跡で夫の名前を書き、印鑑は彼が普段使っていたものを慎重に押す。完璧だった。
遺書を封筒に入れ、表には「林昊へ」とだけ書いた。階段を上がり、昊の部屋の前に立つ。灯りが漏れていない。もう眠っているのだろう。素は静かにドアを開け、机の上に封筒を立てかけた。月光に照らし出された息子の寝顔は、まだあどけなさを残している。この子が明日、これを読む。その時の反応を想像すると、心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなった。彼女は息を潜め、まるで聖なる契約を結ぶかのように、一度深く頭を下げると、足音を忍ばせて部屋を後にした。
自室に戻り、ベッドに横たわる。身体の芯が甘く震えていた。夫に従っていたあの日々よりも、もっと深い罪の快楽が、彼女を包み込もうとしている。これから先、自分は母親という仮面を被りながら、我が子に支配される雌犬へと成り果てるのだ。想像するだけで、太腿の内側が濡れているのがわかった。林素はそっと目を閉じ、昊が自分に与えるであろう最初の命令を夢想しながら、期待と興奮で熱い夜を過ごした。