繁華街の午後の日差しは、まだ夏の名残を引きずってじわりと肌にまとわりつく。人波はまばらで、どこか怠惰な空気が漂っていた。林夕はそんな通りを、まるで自分のためだけに敷かれたランウェイのように歩いていた。白いブラウスの襟元はきちんと留められ、プリーツスカートの裾がかすかな風に揺れる。太ももを包む純白のオーバーニーソックスが、むき出しの絶対領域とコントラストを描き、すれ違う男たちの視線を無意識に吸い寄せていた。彼女自身、その無言の視線を感じ取ってはいたが、表向きは澄ました顔で、ただ前だけを見つめている。清純な仮面の奥で、心はいつも鉛のように重く澱んでいた。何かが足りない。何か、もっと、鋭く、理性の箍を吹き飛ばすような刺激が。
不意に、耳障りな怒声が静寂を破った。
「だからよぉ! この値段で切れ味が悪いんじゃ、話にならねえって言ってんだ!」
声のした方、少し先の金物店の前だ。いつの間にか小さな人だかりができている。林夕の足は、ほとんど自動的にそちらへ向かっていた。退屈な日常を割る、ささやかな異常。その予感だけで、胸の奥がかすかに疼く。彼女は人垣の隙間を縫うようにして、ずんずんと進み出た。自然と最前列を陣取る。
店先に置かれた簡素なカウンター越しに、二人の男女が対峙している。一人は派手な柄のブラウスを着た中年女、客の王丽华だ。幾分くたびれてはいるが、肌の手入れは怠っていないらしく、厚化粧の下に残った色香のようなものが、かえって生々しい。もう一人は店主のようで、熊のような巨躯を揺らし、顔を茹でダコのように真っ赤にして怒鳴り返しているのが赵刚だ。
「うるせえ! うちの商品にケチつけるたぁ、いい度胸だ! 切れ味が知りたきゃあ、今ここで実演してやろうかぁ!?」
よく見れば、王丽华が指さしているのは、カウンターの上に飾りのように置かれた一振りの大鉈に近い大型の刃物だった。展示用とは思えぬ鈍い光沢を帯び、見る者に不安を掻き立てる。観衆は店主の剣幕に、面白半分の囃し声を上げ始める。
「そうだそうだ、やってみろよ!」
「口だけじゃねえか?」
野次馬の一人が、近くに積んであった大根を手に取り、ひょいと赵刚に放った。赵刚はそれを乱暴に掴むと、カウンターの端のまな板に叩きつける。そして、あの刃を片手で軽々と持ち上げると、何のためらいもなく振り下ろした。
ザンッ。
小気味良い音と共に、大根は真っ二つ。断面は水気を帯びてきらめき、ほんの一瞬で断たれた滑らかさを物語っている。どよめきが起こった。
しかし王丽华は、まだ気に入らないらしい。唇を歪め、挑発するような目つきで赵刚を見上げた。
「なんだい、野菜相手じゃ自慢にもならんだろうよ。あんたの言う『切れ味』ってのは、所詮その程度かね」
その言葉には、明らかな嘲りと、何か別のものを試すような暗い光が宿っていた。通行人の一人が、酒気を帯びた声で叫ぶ。
「そうだ! 骨ごとぶった切ってみせろよ!」
その一言が、引き金だった。
赵刚の形相が、一瞬で変わった。赤らんでいた顔から表情が抜け落ち、代わりに肉食獣じみた鋭さが瞳に宿る。彼はゆっくりと、カウンターの奥へと引っ込んだかと思うと、何かを引きずりながら戻ってきた。
その手に掴まれていたのは、人間の女だった。
「ひっ…!」
野次馬の誰かが、短く息を呑む。女は、薄手のワンピースを着て、ぐったりとしている。豊かな肢体は熟しきった果実のようにたわわで、苦痛と困惑に歪む顔立ちには、赵刚と似た骨格の名残があった。赵刚の母親、陈美凤だ。
「や、やめ…、剛…」
陳美鳳はかすれた声で抵抗の言葉を紡ぐが、息子の腕力の前ではなすすべもない。彼女の身体は無造作に、先ほど大根を断ったまな板の上へと押し付けられた。
観衆の間に、一瞬の静寂が走る。だがそれは、恐怖ではなく、期待を孕んだ沈黙だった。誰も止めに入らない。誰も目をそらさない。むしろ、我先にと、より良い視点を求め、僅かに身じろぎする者さえいる。
王丽华の目が、ぎらりと光った。彼女は舐めるように陳美鳳の身体を見下ろし、それから赵刚へ、甘ったるい声で言い放った。
「そうこなくっちゃね。でも、その前に…折角の新品のまな板だ。あんた、まずは俺たちに『試し切り』させてくれてもいいんだぜ?」
その言葉は、熱病のように群衆に伝染した。男たちの目つきが変わる。単なる見物から、獲物を値踏みする目へ。
林夕は、その空気の変化を、肌で感じていた。心臓が、うるさいほどに高鳴る。彼女は、白いブラウスの胸元を、きゅっと握りしめた。これは恐怖じゃない。これは、ずっと待ち望んでいた、あの感覚だ。
ざわめく人垣の後方で、絹のスカートをふわりと揺らし、優雅な足取りで通り過ぎようとした一台の黒塗り自動車があった。窓越しに、豪奢なドレスを纏った若い女、柳如烟が、このざわめきを何気なく一瞥する。彼女はこれから、自分の成年を祝う夜会に出るのだ。生きた人間の肉を使った料理などとは露知らず、ただ、少しばかり下品な街角の喧騒だと、すぐに興味を失い、車内の冷房へと意識を戻した。
その頃、店の奥の薄暗い物置部屋では、华奢な少年が、壁に背を預けて震えていた。女物のワンピースをまとい、丁寧に編まれた三つ編みが肩に垂れている。韩子轩は、父の荒い声と、祖母の押し殺した悲鳴を聞きながら、自分もまた、いずれ「恥」として処理される運命を、ただ黙って受け入れていた。
そして表では、赵刚が陳美鳳のうなじを掴み、無理やり上半身を起こさせる。陳美鳳の目に、涙が浮かぶ。その涙の意味が、観衆にはさらに火をつけた。最初に飛び出したのは、昼間から酒の匂いをさせた一人の男だ。彼はおもむろに陳美鳳のワンピースの裾をまくり上げ、その醜い笑みを歪める。
陳美鳳の口から、押し殺したような嗚咽が漏れた。だが、その声は、間違いなく恐怖だけではない、別の響きを帯び始めていた。彼女の身体が、観衆の欲望の視線に晒されるたび、小刻みに震え、肌がうっすらと桃色に染まっていく。
林夕は、まばたきもせず、その光景を見つめていた。口の中が乾き、太ももの内側が、じわりと熱くなっていくのを感じる。彼女の清純な仮面の下で、何かが、パキン、と音を立てて罅割れていく。
赵刚は、その様子を、刃物を手にしたまま、冷めた目で見下ろしていた。彼は、母親が衆人環視の下で辱められ、それでも生理的な反応を返し始めるその姿に、最高の愉悦を感じていたのだ。彼の血に飢えた欲望が、ようやく解き放たれる瞬間が近づいていた。彼は手にした大鉈を掲げ、その重みを確かめるように、何度か空を切る。風を裂く鈍い音が、場の興奮をさらに煽った。
「さあ、『試し切り』の時間は終わりだ。こいつが本当に欲しいのは、てめえらの汚ねえ肉棒じゃねえ。…俺の刃だ」
赵刚がそう宣言した時、陳美鳳は自ら首を差し出すように、力を抜いてまな板に身を伏せた。その顔は涙と涎にまみれながらも、口元には確かに、歪んだ微笑が浮かんでいた。
そして、王丽华が隣に立つ林夕の肩を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「綺麗なだけじゃつまらないだろう? これからが、本当の宴の始まりさ。お嬢ちゃんも、一緒にどうだい? あんたのその真っ白なソックスが、赤く染まるところが見てみたいよ」
林夕は、震える息を吐き出した。それは拒絶ではなく、静かなる、しかし確かな肯定だった。彼女の内なる自己破滅的な淫らな衝動が、完全に解放されようとしていた。夕闇が迫る死の街で、若い女は、迷い込んだ先に待つ饗宴の、最初の一滴を自身の心に刻みつけようと、その瞳を大きく見開いた。