夜の帳が深く垂れ込める頃、東宮の一角にある梅林はひっそりと静まり返っていた。
顧清月は、冷たい石段に腰を下ろし、満月を見上げていた。彼女がこの深宮に嫁いでから、早くも三ヶ月が過ぎようとしている。宰相令嬢として生まれ、幼い頃から詩書礼儀を叩き込まれた彼女は、東宮の太子妃になることを運命づけられていた。ところが、嫁いでみれば、それはまるで誤った絵図を手渡されたかのような、奇妙な縁組みだった。
太子・蕭霆は、初夜から彼女を冷たくあしらった。
「そなたは確かに美しい。だが、朕の心には既に別の者が住んでいる。そなたはただ、この東宮の飾り物に過ぎぬ」
婚礼の夜、燭台の灯りが揺れる中、彼はそう言い放った。言葉は刃のように鋭く、清月の胸に突き刺さった。彼女は何も言い返せず、ただ深く頭を垂れた。父から教えられた「太子妃としての務め」を果たそうと、彼のために盃を捧げようとしたが、蕭霆は手を振ってそれを拒み、一人で寝所を出て行ってしまった。
それ以来、彼はほとんど彼女の元を訪れない。たまに顔を合わせても、まるで空気のように扱われ、言葉すら交わされない。宮女たちも、そんな主君の態度を察してか、表面上は恭しく仕えながらも、どこか軽蔑と憐れみの混じった視線を送ってくる。
清月は、自らの境遇に深く嘆息した。幼い頃から「名門の令嬢」「才色兼備」と讃えられてきた自分が、なぜこのような屈辱に耐えねばならないのか。しかし、彼女はそれを表に出すわけにはいかなかった。宰相の娘として、そして太子妃として、常に端然と振る舞わねばならない。そう教えられてきたからだ。
日々は虚ろに過ぎていった。朝は霞を食べ、夜は月を友とする。広大な宮殿の中で、清月は次第に自分の心が乾いていくのを感じ始めていた。書を読んでも、琴を奏でても、その音は心に響かない。美しい錦の衣も、精巧な首飾りも、今の彼女にとってはただの鎖のように思えた。
そんな孤独な生活の中で、彼女は時折、自分の内に湧き上がる奇妙な感情に戸惑うことがあった。それは、刺激への密かな渇望だった。誰にも言えない、名状しがたい空虚感が、夜な夜な彼女を襲った。血管の中を、何か熱いものが駆け巡るような感覚。そして、それを押し殺そうとすればするほど、その熱は体の奥深くに沈殿していくのを感じた。
ある晩のことである。
清月は眠れぬまま、宮殿の奥にある古い書庫へと足を運んだ。そこは、先代の太子たちが残した書物や巻物が収められており、普段は誰も立ち入らない場所だった。侍女たちも、この薄気味悪い場所に近づこうとはしなかった。
手にした燭台の灯りを頼りに、彼女は積もった埃を払いながら歩を進めた。書棚の間を抜けると、奥に小さな部屋があることに気づいた。扉は半ば開いており、中からかすかに奇妙な香りが漂ってくる。それは、沈香とも違う、甘くて重たい、どこか生々しい匂いだった。
好奇心に駆られ、清月はその部屋に足を踏み入れた。
部屋の中は薄暗く、中央に大きな紫檀の机が置かれていた。机上には、一振りの短剣と、古びた巻物が無造作に転がっている。壁には、奇怪な模様の描かれた布が掛けられ、空気はひんやりと冷たく、何か人ならざる者の気配が感じられた。
彼女は机に近づき、その巻物を手に取った。絹でできたそれは、何度も開かれたのか、所々擦り切れている。ゆっくりと広げると、中には見たこともない文字がびっしりと記され、中央には、まるで生きた人間のような生々しい男性の裸体画が描かれていた。しかも、その局部は異常なまでに大きく誇張され、見る者の本能を揺さぶるような筆致だった。
清月は息を呑み、とっさに巻物を閉じようとした。しかし、指が震えてうまくいかない。心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなるのを感じた。
「これは……いったい……」
彼女は声にならない声で呟いた。その瞬間、部屋の空気が一変した。冷たい風がどこからともなく吹き込み、燭台の火が激しく揺らめく。そして、壁にかけられた布がひとりでに捲れ上がると、そこには一枚の古びた肖像画が現れた。
その肖像画に描かれた男の姿を見た瞬間、清月の全身に戦慄が走った。
それは、人間とは思えぬ美貌の男だった。長い黒髪を無造作に束ね、深紅の衣をまとっている。目は爛々と輝き、口元には残忍な微笑みを浮かべていた。そして、何よりも異様だったのは、その全身から立ち昇るような、濃密で邪悪な気配だった。
絵の右下には、「鬼王・蕭策」という署名がかすかに残っている。
「蕭策……まさか、伝説の……」
清月は恐怖に後退しようとしたが、足が動かない。まるで絵の中の男に見据えられ、金縛りにでもあったかのようだ。彼女の頭の中に、幼い頃に聞かされた鬼王の伝説が蘇る。百年前、皇族に生まれながら妖術に魅入られ、自らを鬼と化して宮中を血に染めた男。最後は封印され、深宮のどこかに幽閉されているという……。
だが、それだけではなかった。清月は、自分の体に異変が起きているのを感じていた。下腹部が熱く疼き、乳房が張り詰めるような感覚。そして、最も秘められた場所から、何かが滲み出していることに気づいた。
「い……いや……」
彼女は必死に自分を律しようとした。これは、あってはならないこと。太子妃として、決して抱いてはならない感情。しかし、一度目覚めた欲望は、理性という名の牢獄を容易に打ち破ろうとしていた。
その時、どこからか低い笑い声が聞こえた気がした。
「フフ……」
それは、風の音なのか、それとも肖像画の中の男の嘲笑なのか。清月は恐怖と混乱の中で、無我夢中でその場から逃げ出した。書庫を飛び出し、自らの寝所へと駆け戻る。しかし、心臓の鼓動は収まらず、体の奥の疼きは一向に消え去ろうとはしなかった。
寝台に倒れ込んだ清月は、震える手で自分の胸を押さえた。衣越しに感じる乳首は、かつてなく固く尖っている。そして、指がふと触れた股間の布地は、生暖かい液体で重く湿っていた。
「ああ……」
彼女は声を殺して嗚咽した。何が自分に起きているのか、わからなかった。ただ、確かなことは、あの「鬼王」の痕跡に触れた瞬間、自分の内に眠っていた何かが、決定的に目覚めてしまったということだった。
月明かりが窓から差し込み、清月の乱れた髪と火照った肌を照らし出す。彼女の心の中で、太子・蕭霆の冷たい眼差しと、肖像画の鬼王の淫らな微笑みが、交互に浮かんでは消えた。
そして、彼女は知らなかった。この夜を境に、自分の運命が、決して逃れられぬ深い闇へと落ちていくことを。宮殿の奥深くで、封印された鬼王・蕭策が、獲物を見つけた獣のように、ゆっくりとその牙を剥き始めていることを。
遠くで、夜鳥の声が一度だけ響き、あとは深い静寂が宮殿を包み込んだ。顧清月の長い夜は、まだ始まったばかりだった。