陽が傾き、窓から差し込む光が部屋の隅に長い影を落としていた。周夢龍は見慣れたはずの高慧の家のドアをくぐった瞬間、いつもと違う空気に包まれた。香り、そうだ、かすかに甘いような、それでいて鉄錆にも似た匂いが漂っている。玄関を上がると、リビングから微かな衣擦れの音が聞こえる。彼が靴を脱いでいると、高慧が顔を出した。いつもの疲れ切った表情だが、その奥に隠しきれない熱のようなものがちらついている。
「あら、早かったわね。ちょうど筱竹もいるのよ」
高慧はそう言うと、わざとらしく腰をくねらせながら奥へと消えた。周夢龍は少し戸惑いながらも後を追う。リビングのソファには、付筱竹が背筋を伸ばして座っていた。彼女は澄ました顔で窓の外を見ていたが、彼の気配に気づくと、頬をほんのり染めてうつむく。制服のスカートを指先で弄っている仕草が、従順なようでいてどこか計算された反抗心をのぞかせていた。
高慧はキッチンからワイングラスを三つ持って現れる。テーブルの上にそれらを置き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。彼女の白い指がグラスの縁をなぞる。
「今日、呼んだのはね、夢龍……お祝いをしてほしいの」
「お祝い?」
「そう。今日は筱竹の誕生日なのよ」
高慧の声は妙に弾んでいたが、目は笑っていない。彼女は立ち上がり、娘の肩に手を置く。付筱竹はびくりと身体を震わせたが、口を開かない。
「それでね……私、あなたに一つお願いがあるの」
高慧は周夢龍の目の前に立つと、そっと彼の手を取った。その手はひどく冷たく、骨ばっていた。彼女はうっとりと目を細め、まるで告白でもするように言葉を紡ぐ。
「先生、疲れたの。もうこんな日々に縛られたくない。早く解放してほしいのよ。あなたなら……あなたならわかるでしょう?」
周夢龍は息をのんだ。高慧の瞳の奥に、死への渇望がありありと浮かんでいる。彼女は彼の手のひらを自分の頬に押し当て、獣のようにすり寄った。
「それでね……先生を、どう料理するか、あなたに決めてほしいの。誕生日のご馳走として、私を一皿の作品に仕上げて」
言葉はさらりとしていたが、その内容はあまりに異様だ。高慧はくるりと振り返り、ソファの上の娘を指さした。
「ついでに、この肉畜娘も一緒に一卓の料理にしてくれない? 筱竹、そうでしょう? あなたも願いがあったわよね」
付筱竹は顔を真っ赤に染めたまま、こくりと小さくうなずく。うつむいた前髪の隙間から、上目遣いに周夢龍を見上げるその目は、怯えと共に、押し殺したときめきをたたえていた。彼女の唇がかすかに動く。
「……はい、お母さん」
空気がねっとりと肌にまとわりつく。媚びるような沈黙が広がり、窓の外で風が木々を揺らす音だけがやけに大きく響いた。高慧はグラスにワインを注ぎながら、まるで今夜の献立を相談するような口調で続ける。
「先生の身体は、痩せてるけど味わいはあると思うの。長年の疲れが凝縮されて……どんな火加減が似合うかしら。筱竹は若くて柔らかいから、きっと下手な調理でも美味しくいただけるわ」
周夢龍の背筋を冷たいものが走る。しかし、彼の中にある支配欲と、歪んだ愛情が疼き始めるのを感じていた。彼はゆっくりと高慧の手からグラスを受け取ると、深紅の液体を見つめながら言った。
「先生、本気なんですね」
高慧は満足げに微笑む。その顔は、長年の絶望からようやく解き放たれようとする者の安らぎに満ちていた。付筱竹は依然としてうつむいているが、その膝の上に置かれた手は小刻みに震え、スカートの生地をぎゅっと握りしめている。
「本気よ。あなたは恋の達人でしょう? 人の心も身体も、すべてを知り尽くしている。だったら、最後の恋を、私の死を、誰よりも美しいものにしてほしいの」
高慧はそう言うと、周夢龍の耳元に唇を近づけ、囁くような吐息で付け加えた。
「それに、筱竹もあなたに憧れているのよ。私がいなくなったら、この子はきっと独りで生きていけない。だから一緒に連れて行ってあげて。……それが、母としての最後の願い」
リビングに不思議な静けさが落ちる。三人の呼吸だけが妙にシンクロし、まるで一つの生き物のように部屋を満たしていた。周夢龍はグラスを置き、壁に立てかけてあった自身の鞄に目をやる。中には調理道具が一式、収まっている。まるでこうなることを予期していたかのように。
彼はうっすらと笑みを浮かべた。その笑みを見て、付筱竹はさらに頬を染め、高慧は恍惚のため息を漏らす。誕生日への供物は、すでに揃っていた。暗示は、いま確かな実体を得ようとしている。