林薇は指先でエンターキーを叩いた。深夜二時を回ったネットカフェの薄暗いブースで、モニターの青白い光だけが彼女の顔を照らしていた。『永世楽園』のログイン画面が一瞬で切り替わり、謳い文句通りの美しい風景が広がる――はずだった。
画面が歪んだ。
まるで液晶の中に水が流れ込んだように、ピクセルが溶けて濁流のように渦巻く。林薇は眉をひそめ、キーボードを叩いて強制終了を試みたが、反応はない。代わりに、耳の奥で低い電子音が響き始めた。ブーンという振動が頭蓋骨を伝い、視界が霞む。
「なに……これ……」
立ち上がろうとした彼女の身体が、椅子に縫い止められたように動かない。モニターから伸びた無数の光の糸が、彼女の腕を取り巻き、首に絡みつく。それは触覚を持っていた。冷たく、滑らかで、生き物のように蠢いている。林薇の悲鳴は喉の奥で潰え、代わりに口から漏れたのはかすかな嗚咽だけだった。
意識が途切れる。最後に見たのは、ネットカフェの蛍光灯が不気味に明滅する光景だった。
目を開けたとき、世界は一変していた。
冷たい空気が肌を刺す。いや、肌ではない。彼女は自分が何かの膜に全身を包まれていることに気づいた。漆黒のラテックス製のスーツが、首から足先までを隙間なく覆い、第二の皮膚のように密着している。指の一本一本、足の指の一本一本に至るまで、ピタリと吸い付くように絡みつき、関節の動きをぎこちなくしていた。
彼女は地下牢にいた。天井は低く、むき出しの岩肌から水滴が落ちる音が聞こえる。周囲の壁には鈍い光を放つ機械類が埋め込まれ、ケーブルが這うように床を這っている。自分が横たわっているのは、金属製のテーブルの上だった。手足は革製のストラップで固定され、身動き一つ取れない。
「いや……誰か……」
声が掠れる。喉もラテックスに覆われていて、息苦しさが増す。
その時、前方の空間が歪んだ。光の粒子が集まり、やがて一人の男の姿を描き出す。ホログラムだった。黒いスーツを着た男――陳昊は、まるで舞台に立つ演出家のように優雅に腕を広げてみせた。
「ようこそ、実験体番号十七。君の仮想生活はここで終わりだ」
その声は、まるでスピーカーから流れてくるかのように空間全体に響いた。低く、落ち着いていて、しかし一切の情を感じさせない。
「なにを……言ってるの? 私はゲームを……ネットカフェで……」
「ああ、そうだ。『永世楽園』は確かにゲームだ。しかし、それは一般プレイヤー向けの表の顔に過ぎない。裏の顔――君が今いるこの場所こそが、本当の『永世楽園』だ」
陳昊は優雅に歩を進める。ホログラムだから足音はしないが、それでも彼の一歩一歩が部屋の空気を震わせるようだった。
「私はこのシステムの設計者だ。ここでは、選ばれた者たちが本当の自分を解放する。支配される快楽に身を委ね、欲望のままに改造される。君は今日から、この『肉畜システム』の実験体として、完全なる改造を受けることになる」
林薇の心臓が激しく打ち始める。恐怖で全身が震え、ラテックスが擦れる音が響く。
「やめて……降ろして! 私はただの大学生なの! 間違いよ、誰かと勘違いしてる!」
「間違いではない。我々は長期間にわたって、君の生活パターン、心理傾向、肉体的適性を分析してきた。最も適した被験者として、君は選ばれたのだ」
陳昊が指を鳴らすと、背後に無数のモニターが浮かび上がる。そこには、拘束された林薇の姿が様々な角度から映し出されていた。体温、心拍数、脳波――すべてのデータがリアルタイムで流れる。
「まずは基礎調教を始める。抵抗するたびに、君の感覚はより鋭敏になり、服従するたびに快楽が与えられる。システムを理解するまで、このループは続く」
言葉が終わらないうちに、テーブルの表面に電極が現れ、彼女のラテックス越しに微弱な電流が走る。ビリッという痺れが全身を駆け巡り、林薇は思わず身体を弓なりに反らせた。
「あっ……!」
「良い反応だ。まだ意識ははっきりしている。だが、それも時間の問題だ」
陳昊がもう一度指を鳴らすと、空間の隅からもう一人の人影が現れた。女性だった。白衣を着た蘇晴は、無表情のまま林薇のそばに歩み寄り、手にしたタブレットを操作する。
「実験体番号十七、初期適応度は七十三パーセント。催眠導入を開始します」
「待って、お願い……話し合おう……」
林薇の言葉は無視された。蘇晴がタブレットのボタンを押すと、天井からヘルメット状の装置が降りてきて、林薇の頭部を覆う。耳の奥に低周波の振動が流れ込み、思考がぼやけ始める。
「深く息を吸って、楽にして……抵抗をやめれば、すぐに楽になる」
蘇晴の声が、まるで子守唄のように聞こえてくる。林薇は歯を食いしばって抗おうとしたが、催眠波は意志の力を削り取っていく。抵抗するたびに、電流が強くなり、痺れが快楽に変わる。
「どうだ? 感じるか? 君の自我が、ゆっくりと溶けていく感覚を」
陳昊の声が遠くから聞こえる。林薇はもう返事をすることができなかった。ただ、自分の身体がシステムに飲み込まれていくのを、無力なまま感じているだけだった。
その後の何が起こったのか、彼女にはほとんど記憶がない。気がつけば、金属製の檻の中に閉じ込められていた。周囲には同じようにラテックスに包まれた他の実験体たちが、虚ろな目で天井を見つめている。
「オークションの準備はできたか?」
どこからか、陳昊の声が聞こえる。
「はい。次の出品は、実験体十七。適応度は既に九十パーセントを超えています」
蘇晴が答える。
「結構。次は、より深い調教に移る。買い手が決まり次第、その者に合わせたカスタマイズを施せ」
言葉の意味を理解した瞬間、林薇の心に残っていた最後の恐怖が爆発した。しかし、同時に身体は震えながらも、どこか期待している自分がいることに気づく。催眠が、快楽が、彼女の意思を歪め始めていた。
檻の向こうで、一人の男が彼女を値踏みするように見つめている。趙凯――彼の目に映る林薇は、もはや人間ではなく、欲望を満たすための道具だった。