今日の任務は、特別なものだった。私は刑事課の更衣室に立ち、鏡の中の自分を見つめた。制服の襟元まできっちりと留められた警察官の姿ではなく、濃い化粧を施した女の顔がそこにあった。
「本当に行くのか?」
背後から趙剛の声がした。彼の目には私への心配ではなく、別の何かが光っているように見えた。私は唇の端を持ち上げて笑った。
「もちろん。こんな機会、逃せるわけがないだろ?」
龍哥——麻薬取引、人身売買、恐喝。この街の闇を牛耳る男だ。我々は長年、奴の尻尾を掴もうとしてきたが、いつも逃げられていた。だが今回、私は潜入任務を志願した。売春婦に扮して、龍哥の組織に潜り込む。奴の根城に肉迫し、一網打尽にする。
「林雪、本当に分かってるのか?龍哥はただ者じゃない。もし正体がバレたら...」
「バレやしないさ」
私は趙剛の言葉を遮り、身につけた派手なドレスを整えた。薄紅色の生地は膝上までしかなく、胸元は深く開いている。こんな格好になるのは初めてだったが、任務のためだ。一週間、いや、長くても三日で十分だ。
「龍哥のアジトに辿り着くには、まず紹介者が必要だ。お前を連れて行く売春婦がいるんだ。蘇媚って女だ」
「蘇媚?あの元娼婦か?」
趙剛は頷いた。「信用できる。我々とも何度か協力している。今夜、彼女と合流して役割を交代する」
役割を交代——私は蘇媚になりすまし、彼女は一時的に私の身分を引き継ぐ。表向きは、蘇媚が別の都市に移るという設定だ。すべては計画通りに進んでいる。
その夜、私は指定された待ち合わせ場所へ向かった。繁華街の裏通りにある、薄汚れたカラオケボックスだ。ネオンサインがチカチカと点滅し、地面には吐瀉物の跡がまだ新しい。壁には落書きがびっしりと描かれ、空気にはアルコールとタバコと、何か腐ったような匂いが混ざっていた。
個室のドアを開けると、ソファに女が一人座っていた。年は私より少し上だろうか。派手な化粧に、金色の長いドレス。爪には真っ赤なマニキュアが塗られていた。
「あんたか、新しい売春婦ってのは」
蘇媚はそう言いながら、上から下まで私を眺め回した。その目つきは値踏みだ。彼女の指が、テーブルの上に置かれた書類を軽く叩いた。
「ああ、そうだ」
私は冷たく答えた。この女の態度は、あまり気持ちのいいものではなかった。
「ふん、警察官ってのも結構な度胸だね。でも安心しな、私はちゃんとプロだ。龍哥にバレずに済ませる方法は教えてやるさ。ただし、報酬は前金でくれよ」
「前金?すでに支払い済みのはずだが」
「それは身体代だ。今度は知識代だよ。あんたみたいな箱入り娘が、誰でもできるって思ってたら大間違いだぜ」
私は小さく息を吐いた。確かに、この女は正体を隠すために必要な人物だ。我慢するしかない。
「分かった。言ってみろ」
蘇媚は満足げに笑うと、スカートの裾を直しながら立ち上がった。彼女の細い指が自分の髪を弄りながら、猫撫で声で言った。
「まず、歩き方だ。あんたの歩き方は警察の訓練が染みついてる。背筋をピンと伸ばして、目線は前を向いて。娼婦はそんな風に歩かない。もっとだらりと、腰を振って、男の視線を誘うように」
彼女は実際に歩いて見せた。確かに、その歩き方は私とは全く違っていた。彼女が歩くたびに、ドレスの裾が揺れ、腰が異様に強調される。
「次に、喋り方だ。あんたの声は硬すぎる。命令口調だ。娼婦はもっと甘ったるく、優しく、男を褒めそやす。『お兄さん、今日はどうなさる?』——そうやって、柔らかく、けれど下品にならないように」
「そんなこと、分かってる」
「本当かよ?じゃあ、やってみせろよ」
私は睨みつけたが、彼女の要求に応じて声を変えてみた。「お兄さん、今日はどうなさる?」
「違う!声だけでなく、目つきが大事だ。あんたの目は鋭すぎる。警察官みたいな目だ。もっととろりとさせて、男の目を見て、でも決して逸らさないんだ」
私は心の中で何度も練習した。売春婦の振る舞い、話し方、歩き方。これらはすべて、私の任務を成功させるための道具だ。道具に過ぎない。
「最後に、一番重要なこと——龍哥の前では絶対に正体を明かすな。もしバレたら、あんたは死ぬだけじゃ済まない。生き地獄を味わうことになる」
蘇媚の声が突然低くなった。彼女の目つきが暗くなった。何かを知っているのだ。龍哥の恐ろしさを。
「龍哥って、どんな男なんだ?」
「知りたいなら、自分で確かめるんだな。でも、今のうちに言っておく。一度奴の虜になったら、二度と抜け出せない。あんたも、その美しい顔と体が、骨の髄まで壊される姿を想像したくはないだろ?」
私は冷笑した。「心配無用だ」
蘇媚は肩をすくめると、パスポートと身分証をテーブルに置いた。それは蘇媚の身分を証明する書類だ。今夜から、私は蘇媚になる。本物の蘇媚は、別の身分で国外へ逃亡する手はずになっている。
「よし、あとは龍哥の迎えを待つだけだ。彼は私——いや、あんたを今夜のパーティーに招いてる。それで、気に入られれば、もっと近づけるかもしれない」
「何のパーティーだ?」
「龍哥の隠れ家で開かれる、特別なパーティーだ。参加者はすべて上客ばかり。麻薬、売春、賭博——欲しいものは何でも手に入る。私はそこで何度か商売をしたことがある」
蘇媚の目が、またあの暗い色に変わった。「でも、油断するなよ。龍哥は女を見る目に定評がある。少しでも怪しいと感じれば、すぐに処刑される」
私は頷いた。すべては計画通りだ。龍哥の隠れ家に潜入し、証拠を掴み、組織を壊滅させる。それだけだ。
数時間後、黒塗りの高級車がカラオケボックスの前に停まった。窓が開き、スーツを着た男が顔を出した。
「蘇媚姐さんですか?」
「ああ、そうだ」
私はできるだけ優しく、けれど下品にならない声で答えた。男は私を一瞥すると、ドアを開けた。
「龍哥がお待ちです。どうぞ」
車に乗り込むと、私は窓の外を見つめた。ネオンが流れ、ビル群が後ろに消えていく。街はいつも通り、何の変化もなく眠っているようだった。
私は刑事として、多くの潜入任務を成功させてきた。麻薬組織、武器密売人、殺人犯——私はいつも無事に戻ってきた。今回も同じだ。龍哥もまた、私の手に敗れることになる。
しかし、なぜか胸の奥がざわついていた。蘇媚の警告が頭から離れない。『一度奴の虜になったら、二度と抜け出せない』
——馬鹿げている。私は林雪だ。刑事だ。そんな言葉に怯えるわけにはいかない。
車はやがて繁華街を抜け、高級住宅街へと入っていった。緑豊かな並木道と、豪華な邸宅が並ぶ。龍哥の隠れ家は、まさにこの地域にあるらしい。周囲は監視カメラだらけで、ガードマンが至る所に配置されていた。
私の手が無意識に太腿を握っていた。緊張を隠すための仕草だった。
——バレるわけにはいかない。すべては計画通りに進む。
車が門を通り抜け、広大な敷地の中へと入っていく。正面には白亜の豪邸がそびえ立っていた。三階建てで、屋上にはヘリポートまである。玄関には見張り番の男たちが数人立っていた。
「着きましたよ」
運転手がそう言うと、私はゆっくりと車から降りた。足元の大理石の床は冷たく、月光に照らされて青白く光っている。
正面玄関のドアが開き、中から男が出てきた。スーツを着て、サングラスをかけている。彼は私を見ると、軽くお辞儀をした。
「蘇媚姐さん、お待ちしておりました。龍哥は中でお待ちです。どうぞ」
私は深呼吸をし、蘇媚が教えてくれたように歩いた。腰を振って、目線は優しく、けれど決して周囲の警戒を緩めない。
一歩一歩が重く、心臓の鼓動が速くなる。だが、私は笑顔を保った。
玄関をくぐると、中は驚くほど豪華だった。クリスタルのシャンデリアが天井から吊り下がり、壁には高価そうな絵画が何枚も飾られている。大理石の床は磨き上げられて、まるで鏡のようだ。しかし、この豪華さの中にも、どこか陰鬱な空気が漂っていた。
奥から、音楽が聞こえてくる。クラシック——ワーグナーだ。私はそれを見知っている。龍哥にはクラシック音楽の趣味があると聞いていた。彼の好みを逆手に取れれば、より信用してもらえるかもしれない。
「こちらです」
扉の前に立ったガードマンが、重い木製のドアを押し開ける。中は広大なホールだった。紫と金の装飾があしらわれた壁、天井からは巨大なシャンデリアが輝いている。部屋の中央には、黒い革張りのソファが配置され、その上に男がどっしりと座っていた。
男——龍哥だ。
彼は五十代くらいで、顔は厳つく、顎には無精髭が生えている。肥満体で、黒い絹のシャツをゆるく着ていた。指にはいくつもの指輪が光り、胸元には金のネックレスが揺れている。
「おや、これは蘇媚さんじゃないか」
龍哥が笑いながら立ち上がった。彼の声は低く太く、耳障りだった。「久しぶりだな。噂では、お前が引退するって聞いたが?」
「引退なんて、そんな大げさなものじゃないんですよ。ちょっと休んでいただけです」
私は優しく答えた。心の奥で震えながらも、表情は崩さない。
「そうか、それは良かった。俺はお前の働きを気に入っていたんだ」
龍哥は近づいてくると、私の顎に手を伸ばした。彼の指は太く、力強い。私の顔を上に向けると、じろじろと見つめてきた。
「しかし、少し変わったな。顔つきが前より鋭くなった。何かあったのか?」
「年を取っただけですよ、龍哥」
私は笑みを浮かべたまま、彼の手をそっと外した。心臓がバクバクと音を立てている。バレたか?いや、まだ分からない。
龍哥はしばらく私を見つめていたが、やがて嗤った。
「まあいい。今夜はパーティーだ。楽しんでいけ」
彼が指を鳴らすと、ガードマンがワイングラスを差し出してきた。私はそれを受け取り、軽く口をつけた。
——これで第一段階はクリアだ。あとは証拠を掴むだけ。
私は部屋の隅にある人影に目を向けた。そこには数人の男たちが立っていて、私に視線を向けていた。彼らも参加者なのか、それとも龍哥の手下なのか。
「さて、蘇媚さん。今夜は特別なお客様が来ているんだ。紹介しよう」
龍哥が私の肩に手を置き、部屋の奥へと案内した。そこには、豪華な衣装に身を包んだ男女が数人、ソファに座っていた。彼らは私を見ると、興味深そうな目を向けてきた。
「この方々は、私の大事なビジネスパートナーだ。蘇媚さんには、今夜彼らをもてなしてもらおうと思ってね」
「もちろんでございます」
私は優雅に頭を下げた。心の中では、この機会こそがチャンスだと感じていた。彼らと共にいれば、龍哥の取引の証拠を掴めるかもしれない。
しかし、私はまだ気づいていなかった。この瞬間から、すべてが狂い始めていることに。
龍哥の目が、私の背後にいる他の女たちに一瞬向けられた。その目つきは、獲物を見つめた獣のようだった。
私はまだ、自分の運命を知らない。この華やかなパーティーの裏に潜む、深い闇を。そして、私の誇り高き正義感が、どれほど脆くも崩れ去るかを。
一週間後、私は蘇媚として龍哥の信頼を勝ち得ていた。彼は私を彼の側近に紹介し、取引の一端を任せるようになった。私は自ら進んで、龍哥の命令に従うふりをした。
だが、ある日、すべてが崩れた。
私は龍哥の書斎に呼ばれた。部屋の中には彼と、数人の男たちがいた。龍哥は椅子に座り、私をじっと見つめていた。
「蘇媚さん、いや……林雪刑事」
その言葉に、私の全身が凍りついた。
「何を……」
「もう隠す必要はない」
龍哥が指を鳴らすと、ガードマンが一人の男を連れて入ってきた。それは——趙剛だった。彼の顔には、裏切りの笑みが浮かんでいる。
「林雪、悪く思うなよ。俺も生き残るためだ」
趙剛の声が冷たく響いた。
私は何も言えなかった。すべての計画が、この瞬間に崩れ去ったのだ。絶望が私の全身を包み込んだ。
龍哥が立ち上がると、ゆっくりと私に近づいてきた。彼の目には、変態的な光が宿っていた。
「さあ、林刑事。これから——本当の地獄を見せてやろう」
私はその場に立ち尽くし、数人の屈強な男たちに腕を掴まれた。抵抗しようと体を震わせたが、素手で敵う相手ではなかった。彼らは私を広間の中央に引きずり出し、龍哥の前で跪かせた。華やかなパーティー会場だった場所が、一瞬にして私の牢獄に変わり果てた。
龍哥はゆっくりと革手袋をはめながら、冷たい笑みを浮かべた。彼の目に、獲物を前にした愉悦が煌めいている。
「綺麗な顔だな、林刑事。でも、すぐに歪んだ表情に変わるぞ」
私は歯を食いしばり、睨み返した。しかし、その目を逸らした瞬間、胸の奥に冷たい恐怖が走るのを感じていた。私はまだ、自分の身に降りかかる絶望の大きさを、完全には理解していなかった。
これから始まる地獄の日々を、私はまだ知らない。この時は——まだ。