白く無機質な壁に囲まれた仮想訓練室。空気中に漂う微かなオゾンの匂いが、この空間が現実ではないことを告げている。
秀人は隅に立ち、両手をポケットに突っ込んで俯いていた。彼の前で、二人の人影が部屋の中央で向かい合っている。
保健教師の山科は白衣を脱ぎ、中に着ていた黒い作戦服を露わにしている。その手には、刃渡り七十センチの模擬刀が握られている。彼女の顔にはいつもの柔和な笑みはなく、代わりに剣士としての冷徹な緊張感が漂っている。
そして、その向かいには――
川瓷静华。
裸だ。
完璧に無駄のない肉体が、冷たい白色照明の下で青白く輝いている。黒く長い髪が背中に流れ、そのコントラストが肌の白さを一層際立たせている。乳房は豊かに形を保ち、腰の曲線は刀の刃のように滑らかだ。
秀人の喉が、思わずごくりと鳴った。
心臓が鼓動を速めている。それは興奮なのか、恐怖なのか。自分でもわからない。
「始めます」
山科の声が訓練室に響く。
静華がゆっくりと膝をついた。その動作は優雅で、まるで舞を舞うかのようだ。畳の上ではないのに、彼女の姿勢には古流の作法が完璧に具現化されている。
彼女は小さな木刀を手に取った――介錯用の短刀だ。
「秀人くん」
静華が振り返る。その瞳は奇妙に輝いていた。
「よく見ていてね」
彼女が短刀を自分の腹部に当てた。刃先が皮膚に触れる。一瞬の間。
そして――
「うっ!」
静華の口から低いうめき声が漏れた。刃が肉に沈む。皮膚が裂け、鮮やかな赤が溢れ出す。それはあまりにも生々しく、美しかった。
秀人の呼吸が止まる。
血が流れる。静華の白い太ももを伝い、床に滴り落ちる。一滴、二滴。まるで時を刻むように、規則正しいリズムで。
「やめる」
山科の声が鋭く響く。
同時に――
刀が閃いた。
秀人には何が起こったのか、まったく見えなかった。ただ、視界の端で光が走った気がした。そして次の瞬間。
静華の首が、胴体から離れていた。
血が噴き出す。まるで泉のように。まるで桜が舞い散るように。鮮やかな赤が空気中に放射状に広がり、無機質な白い壁を染め上げていく。
美しかった。
その光景が、頭の中に焼き付いた。
心臓が激しく打っている。秀人は自分の手のひらを見た。震えている。だがそれは恐怖からではない。
――喜びだ。
その認識が、彼の内面の何かを目覚めさせた。
「どうだった?」
声が耳元でした。
秀人がはっと顔を上げると、静華の顔がすぐそこにあった。先ほどまで切断されていたはずの首が、何事もなかったかのように接続されている。彼女の指が秀人の頬をなぞる。
「血、怖かった?」
「わ、わたしは……」
言葉が出ない。静華の体温が、肌を通して伝わってくる。彼女の豊かな胸が、秀人の腕に押し付けられている。
「もっと見たい?」
静華が囁く。その声には、危険な甘さが混じっていた。
「それとも……やってみたい?」
彼女が秀人の手を取った。その手は、まだ震えている。
「先生」
静華が山科に声をかける。
「もう一度、見せてあげて」
山科がうなずいた。彼女は自分の首を指さした。
「ここだ。首の骨と骨の隙間。そこを正確に断つ」
山科の手に、新しい模擬刀が握られている。
「一度切るだけでいい。しかし確実に」
彼女が刀を掲げる。刃が光を反射して輝く。
「来い」
その言葉は、秀人に向けられていた。
「俺が?」
「そうだ」
山科の表情は真剣そのものだ。
「理論は頭でわかっていても、実際に刀を振らなければ、本当の意味で理解することはできない」
秀人の手に、刀の柄が握らされた。冷たい感触。重み。そして、馴染みのある感じ。この刀は、自分が設計したものだ。
「やってみろ」
静華が背後から近づいてくる。彼女の両手が秀人の肩に置かれた。体温が背中に伝わる。
「大丈夫」
静華の声が耳元でささやく。
「私がついているから」
彼女の手が秀人の手を包み込む。優しく、しかし確かな力で、刀の柄を握らせる。
「いい?」
静華が山科を一瞥する。
山科がうなずいた。
「いつでも来い」
秀人は深く息を吸い込んだ。心臓の鼓動が耳の中で響いている。手のひらに汗が滲む。
刀を振りかぶる。
狙うのは、首。骨と骨の隙間。
「今だ」
静華の声が合図になる。
秀人は目を閉じた。
そして――
刀を振り下ろした。
感触があった。
刃が肉を裂く。骨を断つ。抵抗が消え、そして――
「……ッ」
秀人の手が、空を切った。
目を開けると、そこには山科の胴体と、転がる首があった。切り口からは相変わらず血が噴き出している。生々しい。本物のようだ。
「……すごい」
声が漏れた。
心臓が――止まらない。ドクンドクンと、激しく脈打っている。手のひらには、まだ刀の感触が残っている。あの刃が肉に食い込む感触。抵抗がなくなる瞬間の快感。
「気持ちよかった?」
静華の声。
彼女の腕が、秀人の腰に回された。体温が密着している。
「初めての感覚だね」
彼女の指が秀人の首筋を撫でる。
「もっと……やりたい?」
その言葉に、秀人の体中が震えた。
「俺……」
声が掠れている。
「俺、もう……」
言葉にならない。だが、内側から沸き上がる衝動が、はっきりと形を持っている。
静華が微笑んだ。その瞳は、危険な光を宿している。
「いいよ。もっと教えてあげる」
彼女の指が、秀人の刀を持つ手を優しく包み込んだ。
「もっと深くまで」
――
訓練室の扉が開く。
外の廊下の明かりが、白く無機質な空間を照らし出す。
「終了」
山科の声が響く。その首はもう元通りになっている。模擬空間のリセット。
秀人はその場に立ち尽くしていた。手のひらには、まだ刀の感触が残っているように思えた。
「次は来週だ」
山科が言う。
「よく覚えておけ」
秀人はうなずいた。だが、頭の中は別のことで一杯だった。
首が飛ぶ映像。血が噴き出す光景。刀が肉を裂く感触。
それが、脳裏に焼き付いて離れない。
――そして。
廊下を歩きながら、スマートフォンが震えた。
画面に映るのは、月柳佳子からのメッセージ。
『明日、一緒に昼食食べない?』
その文字を見て、秀人は奇妙な違和感を覚えた。
昨日までは、このメッセージに心臓をときめかせていたはずだ。それなのに。
今は――
頭の中を占めているのは、別の映像。別の感触。
純粋な想いが、かすみ始めている。
「……いいよ」
そう返信しながら、秀人は自分の心の変化に気づいていた。
彼の中で、何かが変わり始めている。静かな、しかし確実な変化が。
血の味を覚えた者のように。