# 第三章 初夜の夢
洛仙は深い眠りに落ちていた。
臥室内には微かな月光が差し込み、紗帳の向こうで彼女の寝姿がぼんやりと浮かび上がる。彼女はいつも通りの品のある姿勢で横たわり、その呼吸は規則正しく、まるで絵画のように優雅だった。
しかし、彼女の意識は静かに闇の中へと溶け込んでいた。
夢の世界は霧に包まれていた。洛仙は自分がどこに立っているのかもわからず、ただ周囲が白く霞んでいることだけを感じていた。足元には冷たい感触があるが、それが何の地面なのかも定かではない。
「誰か……いるのか?」
彼女は自分の声が反響するのを聞いた。しかしその声は、なぜか自分が思っているよりもか細く、弱々しいものだった。
その時、霧の向こうから人影が現れた。
それは一人の男性だった。顔ははっきりと見えないが、その輪郭は異様に魅力的で、全てを包み込むような温かさを放っている。彼は手を差し伸べ、その指は白く、そしてとても優しげだった。
「来なさい」
その声はまるで遠くから聞こえてくる鐘の音のようで、心の奥深くに響き渡る。洛仙はなぜか拒めなかった。いや、拒みたいとは思わなかった。
彼女は自分の足が勝手に動いているのを感じた。一歩、また一歩と、その男性に近づいていく。心の中で警鐘が鳴っているような気がしたが、その音はすぐに甘美な旋律にかき消された。
「私の手を取れ」
男性の声は再び響く。洛仙はその言葉に抗えず、おずおずと自分の手を差し出した。彼の指が彼女の手に触れた瞬間、電流のような衝撃が全身を走った。
「あっ……」
思わず声が漏れる。その感覚は、これまでに味わったことのないものだった。彼の手は冷たく、しかしなぜか心臓の鼓動を速める熱を宿していた。
「怖がらなくていい。ただ、私の言う通りにすればいい」
そう言いながら、男性の手が洛仙の頬に触れた。その指先が彼女の肌をなぞると、そこから広がる快感が全身に染み渡っていく。
「やめ……なぜ……」
洛仙は抵抗しようとした。しかし、彼女の体は彼の言葉に従順に反応していた。彼が彼女の顎を引き上げると、彼女の顔は自然と上を向き、彼の顔を見上げる形になった。
「あなたは美しい」
その言葉が耳元で囁かれる。洛仙の心臓がどくんと大きく跳ねた。彼女はいつも褒め言葉には慣れていた。しかし今、この見知らぬ男性に褒められると、心の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。
「もっと……あなたの美しさを見せてくれ」
男性の手が彼女の肩に触れ、ゆっくりと着物の襟を押し広げようとした。洛仙は恐怖とともに、しかしそれ以上に強い期待を感じていた。
「駄目……そんな……」
言葉とは裏腹に、彼女の体は彼の動きに逆らわなかった。彼の手が彼女の肩を露わにし、冷たい空気が肌に触れる。その感触が彼女の意識をさらにぼんやりとさせた。
「感じているだろう?」
男性の声は優しく、しかしどこか悪意を含んでいた。洛仙はその声に導かれるまま、自分の指が自分の体に触れるのを感じた。
「私の代わりに、自分で触れてみろ」
その言葉は直接、彼女の脳髄に響き渡った。洛仙は自分の意志に反して、ゆっくりと手を動かし始めた。指が自分の首筋をなぞり、鎖骨を辿り、さらに下へと降りていく。
「ああ……」
自分自身の指から伝わる感触に、洛仙は身を震わせた。それは初めて知る感覚だった。彼女の指はかつてないほど敏感になり、触れる場所すべてが甘く痺れるような快感を生み出していた。
「そうだ……その調子だ」
男性の声がほのかな笑みを含んでいる。洛仙は目を閉じ、その声に身を委ねていた。彼女の中で、何かがゆっくりと崩れていくような気がした。それは長年築き上げてきた高い壁であり、誇りそのものだった。
「もっと深く……自分を感じろ」
その言葉が呪文のように彼女の心に刻まれる。洛仙の指はさらに動き、自分の体の秘密の場所を探り始めた。恥ずかしさで顔が真っ赤に染まるが、それを抑えようとは思わなかった。
「気持ちいいだろう?」
「はい……気持ち……いい……」
洛仙は自分がそう答えているのを聞いた。その声は自分とは思えないほど甘ったるく、そして艶めかしかった。心の奥底で、これは間違っていると叫ぶ声が聞こえる。しかしその声は、快感の波にすぐに飲み込まれてしまった。
「君はもっと素晴らしい女になれる。私が教えてやる」
男性の手が再び彼女に触れた。今度は彼の体が彼女に密着し、その温もりが全身を包み込む。洛仙はその感覚に完全に溺れていった。
「私にすべてを預けろ。楽にしてやる」
その言葉が彼女の耳朶を打つ。洛仙はゆっくりとうなずいた。
すると突然、世界が歪み始めた。周囲の霧が濃くなり、男性の姿が徐々に消えていく。
「待って……待ってください……」
しかし彼女の声は虚しく響くだけで、男性の姿は完全に消え去った。代わりに、深い闇が彼女を包み込んだ。
***
「……んっ」
洛仙は自分の声で目を覚ました。体中が汗で濡れており、着物が肌に張り付いている。彼女は荒い息を整えながら、ゆっくりと起き上がった。
部屋の中は静かだった。月明かりが窓から差し込み、いつも通りの夜の様子が広がっている。しかし、彼女の心臓はまだ高鳴っており、体中が火照っているようだった。
「これは……夢……?」
洛仙は自分の両手を見つめた。夢の中で感じたあの感覚が、まだ指先に残っている。彼女は慌てて手を握りしめたが、それでも彼女の鼓動は収まらなかった。
彼女は深く息を吸い込み、もう一度吐き出した。何かの間違いだ。自分は玄妙宗の宗主であり、修道の道を歩む者である。そんな人間が、あのような淫らな夢を見るはずがない。
しかし、彼女の体は確かにその夢を覚えていた。特に、あの男性の声と触れ合いが、鮮明に脳裏に焼き付いている。
「まさか……春夢……」
洛仙は自分の口から出た言葉に驚いた。彼女は何百年もの修練を積み、すでに世俗の欲を超越した存在だと思っていた。それなのに、このような夢を見るとは、何か自分の中に綻びが生じているのではないか。
彼女はそっと自分の胸に手を当てた。心臓はまだ早鐘を打っている。そして、その手の感触が、夢の中で感じたものと重なった。
「いや……違う……私は……」
彼女は頭を振り、雑念を追い払おうとした。しかし、夢の中の声が耳の奥でこだまする。
「感じているだろう?」
「気持ちいいだろう?」
「私にすべてを預けろ……」
その声は、まるで今も彼女の心のどこかで響いているかのようだった。洛仙は自分の耳を塞ぎたくなる衝動に駆られたが、それは無意味だとすぐに思い直した。
彼女は立ち上がり、窓辺に歩いていった。外の空気を吸えば、心が落ち着くかもしれない。窓を開け放つと、冷たい夜風が彼女の火照った頬を撫でた。
その風は心地よかったが、彼女の心のざわつきは消えなかった。
「明日は……大事な会合があるのに……」
洛仙は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女は林業と共に、各派閥の代表者と会談する予定だった。そんな重要な日に、心が乱れていては困る。
しかし、そう考えれば考えるほど、夢の記憶は鮮明になっていく。特に、あの男性が彼女の耳元で囁く声が、頭から離れなかった。
「あの人は……誰だったのだろう……」
彼女は顔がわからなかった。声も、後から思い返すとはっきりとは思い出せない。しかし、その存在感と温もりだけは、なぜか鮮明に覚えていた。
洛仙はもう一度深く息を吐き、そして静かに目を閉じた。これはただの夢だ。俗世の女性が見る春夢と、何ら変わらない。自分はそれを忘れ、明日に備えるべきだ。
そう決意し、彼女は再び床に就いた。しかし、その目はしばらく眠れず、彼女は自分の心の中に芽生え始めた違和感と闘い続けていた。
***
その頃、別の場所では。
趙新は暗い部屋の中で、一枚の符に刻まれた文字を指でなぞっていた。符の表面は微かに光を放ち、その光は彼が操作する術式の進行を示している。
彼は目を閉じ、意識を千里の彼方へと飛ばしていた。そして、確かに彼女の波動を感じ取った。
「うむ……第一段階は成功だ」
趙新の口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。彼は術式の反応を確認し、その進捗を評価する。
「第二人格の芽生え……進捗はわずか1%といったところか」
思ったよりも順調だった。彼女の精神力は確かに強固だが、それだからこそ、一度綻びを見せれば、後の崩壊は早い。
「今夜の夢が、彼女の心に種を植え付けた。後は、その種が育つのを待つのみだ」
趙新は符をしまい、暗闇の中で目を光らせた。彼の視線の先には、どこか遠くの空が広がっている。
「高慢な道門の指導者よ。お前がいつ、快楽に屈服するのか……見物だな」
彼の低い笑い声が、夜の闇に消えていった。