明月は天を覆うように冴え渡り、冷たい光が県城の街々を青白く染めていた。夜半である。人気は絶え、石畳の上を風だけが通り過ぎてゆく。その静寂を破るように、一陣の風が空から舞い降りた。白い衣の女が一人、月の光を背負って地面に立った。
蘇清璃であった。その肌は透き通るばかりに白く、顔立ちは彫刻のように整っている。しかし、今はその頬が異常に赤く染まり、瞳の奥に熱く揺れる光が宿っていた。彼女の全身からは、かすかに甘やかな香気が漂い、風に乗って流れゆく。それは修道者にはありえぬ気配であり、魔性のにおいであった。
彼女は自分の体内を駆け巡る欲念の奔流を必死に押し殺そうとした。歯を食いしばり、指の先にまで爪を立ててこらえている。だが、そのたびに下腹の奥から熱が湧き上がり、骨の髄まで焼くような疼きが広がった。身体の奥底で何かがうごめき、理性を破ろうとしている。かつて清冷であり、高みにあった仙女の面影は、今や歪み、苦痛に満ちていた。
「ここだ……県衙……でなければならぬ」
彼女は低く呟いた。声は掠れ、震えていた。自分が今、何をしようとしているのか、半ば夢現でしかわからなかった。しかし、ただ一つ確かなのは、このままでいれば、やがて魔に堕ち、自らの尊厳を失うということだ。ならば、刑を受けるより他に道はない。
蘇清璃は県衙の大きな門の前に進み出た。門の両脇には石の獅子が座り、冷たく夜を見張っている。彼女はその石段の前に立ち、深く息を吸い込んだ。すると、全身の紅潮が一段と強まり、眼の周りが涙で滲んだ。それでも彼女は門の金具を掴み、力を込めて叩いた。
扉が鈍い音を立てて揺れる。
「開けよ……開けてくれ……!」
声は悲痛に響いた。県衙の中から、人の気配が動く気配がある。
しばらくして、門の内側から鍵の外れる音がし、重い扉が軋みながら開かれた。現れたのは、がっしりとした体つきの男だった。顔は精悍で、顎の線は鋭く、目つきは冷徹である。捕頭・趙鉄刑。その手は刀の柄にかかり、警戒の色を隠さなかった。
「何者だ、夜中に門を叩くとは。命知らずもいい加減に——」
趙鉄刑は言いかけて、言葉を呑んだ。
目の前に立つ女の姿を見て、彼は息を飲んだ。白い衣に包まれたその美貌は、この世のものとも思えぬほどである。だが、その頬は紅く染まり、瞳は潤んで、かすかに震えている。仙女というよりは、むしろ魔に魅入られたかのようであった。
「私は……蘇清璃と申す。かつて碧霞峰にて修道しておりました」
女はか細い声で言った。その口調には、かつての誇りがかすかに残っているようでもあった。
「修道者……だとな? それがなぜ、このような時刻に県衙に?」
趙鉄刑は眉をひそめた。彼は県城の捕頭として、数多くの怪異を見てきた。しかし、このような美しい女が自ら牢獄を求めて来るなど、前代未聞である。
蘇清璃はふらりと前のめりになり、手を石段に突いた。唇を噛みしめ、苦しげに息を吐く。
「私は……誤って上古の邪陣に触れました。体内に欲念の毒が入り込み、もはや自分だけで抑えきれません。このままでは、必ずや魔道に堕ちて、人を害することになるでしょう」
「それがなぜ、ここに?」
趙鉄刑の声にはまだ疑念が混じっていた。
「だからこそです……刑を受けることで、この邪な心を浄めるしかないのです。私は出頭いたしました。どうか、私を牢に入れ、厳しい刑を施してください。痛みによって、欲念を祓うのです」
蘇清璃は言い終えると、両膝を石段に打ち付け、深々と頭を下げた。その背中は震え、白い衣の下からは甘ったるい香りが強く漂うようになった。趙鉄刑はその匂いをかぎ、一瞬、頭の芯がぼんやりとするのを覚えたが、すぐに首を振って正気を取り戻した。
「とんでもないことを言う……拷問を自ら望むだと?」
「もう抑えきれません……一刻も早く、用刑してください。さもなくば、私は——」
蘇清璃は言葉を切り、自分の手を見つめた。指の先がかすかに震えている。この手で誰かを抱きしめたいという衝動が、胸の内で渦巻いている。それを断ち切るには、鉄の枷と鞭の痛みが必要だった。
趙鉄刑はしばし沈黙した。彼は仙道を敬う心を持っていた。修行者が自ら堕落を恐れて刑を乞うなど、只事ではない。しかし、もしこれを拒めば、この女はどこかで魔物と化し、無辜の民を傷つけるだろう。ならば、職務として彼女を監禁するのが正しい。
「……わかった。お前を大牢に収める。ただし、事の真偽は夜明けに改めて問う。柳三娘を呼べ。女囚の身柄は彼女に任せる」
趙鉄刑は背後へ声をかけると、二人の足軽が駆けてきた。ほどなくして、陰気な顔つきの女獄卒が現れた。柳三娘である。彼女は蘇清璃の姿を見て、一瞬、目に冷たい光を宿したが、すぐに口元を歪めて笑った。
「はっ、こんな夜中にきれいなお方がご到着とはねえ。さあ、あたしについてきな」
柳三娘は蘇清璃の腕を掴み、乱暴に引き起こそうとした。蘇清璃はされるがまま、よろよろと立ち上がる。その身体は熱く、触れた柳三娘の手にその温度が伝わった。
「ふん、いい身体してるじゃないの。さあ、牢に入る前に、少しばかり手ほどきしてあげるよ」
柳三娘が囁くように言い、蘇清璃を引きずって牢の奥へと連れて行った。趙鉄刑はその後ろ姿を黙って見送りながら、胸に重いものがのしかかるのを感じていた。この女は、本当に刑で救われるのだろうか。それとも、この牢獄が彼女をさらに深い闇に突き落とすのだろうか。
月の光は冷たく、石畳に長く伸びた影だけが、夜の静けさを深くしていた。