廃倉庫の軋む鉄骨が、澱んだ空気の中で微かに震えていた。
アリス・モーニングライトは、割れた天窓から差し込む月明かりを背に、その場所に足を踏み入れた。湿ったコンクリートの床には油膜が浮き、彼女のブーツの裏に張り付く。金色の長髪は風に揺れ、銀色に輝く瞳は暗がりを鋭く見据えている。
「ここに、いるのね」
彼女の声は低く、しかし確信に満ちていた。この数日、街中に漂う異質な闇の気配を追ってきた。それはただの魔物の臭いではない。もっと狡猾で、悪意に満ちた何か──人間の心を弄ぶような、危険な意志の香りだ。
倉庫の奥は深い闇に包まれていた。積み重なった木箱や錆びた機械の影が、まるで生き物のように蠢いている。アリスは両手を胸前に掲げ、光の粒子を集める。掌から淡い金色の光が溢れ、周囲の闇を一瞬で押し返した。
「出てきなさい。あなたの闇の臭いは、ここで終わりよ」
返事の代わりに、床が微かに震えた。何かが這いずる音。粘液がコンクリートを濡らす音。アリスは即座に体勢を低くし、光の盾を展開する。
「よく来たな、光の乙女よ」
声は倉庫の四方から響いた。低く、ねっとりとした声。どこにでもいるようで、どこにもいない。アリスは唇を引き結び、光の剣を実体化させた。
「あなたが、最近の誘拐事件の首謀者ね」
「誘拐? 違う。私はただ、選別しているだけだ。汚れた魂を、より深い闇へと堕とすために。そして今日は──特別な獲物が来た」
言葉と同時に、床の影が膨れ上がった。アリスは反射的に跳躍するが、空中で足首に何かが絡みつく。黒く、太い触手。表面には無数の吸盤が並び、粘つく液を滴らせていた。
「なっ──」
振りほどこうと光を迸らせるが、触手はびくともしない。むしろ、光を吸収するように表面が鈍く輝いた。アリスの顔に驚愕が走る。
「そうだ。俺の触手は、お前の光すら侵食する。最強の魔法少女よ、お前の力はもう無力だ」
触手が激しく引かれ、アリスの体が床に叩きつけられる。背中に衝撃が走り、息が詰まった。光の剣が砕け散り、金色の破片が宙を舞う。
「ぐっ……!」
彼女は歯を食いしばり、這い上がろうとする。だが、次の瞬間、無数の触手が四方から襲いかかった。腕を、脚を、胴体を、絡め取る。布が裂ける音。肌に這う冷たい感触。アリスは必死に藻掻くが、拘束はさらに強まる。
「離しなさい!」
「離せ、だと? ふん。これからが本番だ」
闇の中から、一つの影が浮かび上がった。それは人間の形をしているが、背中から無数の触手を生やしていた。顔は仮面のように無表情で、ただ口元だけが歪んだ笑みを描いている。
触手男──自らを獄主と称する男は、ゆっくりとアリスの前に歩み寄る。
「はじめまして、アリス・モーニングライト。待っていたぞ。お前のように清らかで、強い光の使い手を」
「何を……する気……?」
アリスの声は震えていた。恐怖ではない。怒りと、予感する不吉なものへの警戒だ。触手男はその声を聞いて、さらに笑みを深くする。
「決まっている。ゲームだ。お前を──徹底的に穢すゲームを、これから始めるのだ」
触手がアリスの身体を撫でるように這う。腕を、首を、腿を。彼女は唇を噛みしめ、目を閉じた。光を再び集めようと試みるが、触手から染み出す闇の力が彼女の魔力をかき消していく。
「抵抗は無駄だ。ここは、俺の領域。お前の光を一切通さない、俺だけの檻だ」
触手男が手をかざすと、倉庫の床に魔法陣が浮かび上がった。歪んだ幾何学模様が脈打ち、部屋全体が重苦しい空気に包まれる。アリスはその異様な気配に、背筋が凍るのを感じた。
「お前の光は、これまで全ての闇を浄化してきた。だがな、その光がどれだけの闇を耐えられるのか、一度試してみたかったのだ」
触手男の背後からさらに太い触手が生え、アリスの身体を宙吊りにした。彼女は両腕を広げられ、十字架にかけられたように固定される。月明かりが彼女の白い肌を照らし、その美しさを際立たせていた。
「あなたの目的は、何?」
アリスは睨みつけながら問う。触手男は首を傾げ、しばし考え込む素振りを見せた後、ゆっくりと答えた。
「目的? そんなものはない。ただ、聖なるものを穢す快感を味わいたいだけだ。特に、お前のように高貴で、強い者ほどな」
彼は触手の一本をアリスの頬に這わせる。冷たく、滑らかな感触が彼女の肌をなぞる。アリスは顔を背けようとするが、固定された頭は動かない。
「これから、お前の光は少しずつ奪われる。そして、代わりに快楽と苦痛が染み込んでいく。やがてお前は、俺の触手がなければ生きられないようにしてやる」
「そんな……こと……!」
「できるさ。なぜなら、俺はお前のために、このゲームを用意したのだからな」
触手男が指を鳴らすと、アリスの周囲に無数の触手が飛び出した。細いもの、太いもの、棘のあるもの、滑らかなもの。それらが一斉に、彼女の身体に絡みつく。
「始めよう、アリス。お前の光が、闇に堕ちるまで──」
アリスの悲鳴が、静かな倉庫に響き渡った。しかし、その声を聞く者は誰もいない。月明かりだけが、彼女の苦しみを冷たく見下ろしていた。
最初は抗う力もあった。光の粒子をかろうじて集めようとする意志も。しかし、触手が体内に染み込むにつれ、その感覚は少しずつ変わっていく。
「これは……!」
彼女の身体が、触手の動きに合わせて震え始める。苦痛だけではない。何か別の、初めて味わう感覚が混ざり始めていた。アリスはそれを否定しようと必死になるが、身体は正直に反応する。
「ふふ。どうやら、もう始まっているようだな」
触手男の声が、遠くから聞こえる。アリスは歯を食いしばり、光を求め続けた。しかし、その光は、闇の触手によって少しずつ、確実に侵食されていった。
月明かりが雲に隠れ、倉庫は完全な闇に包まれた。
ゲームの始まりだ。