# 再会の暗流
九月の終わり、蘇州はまだ夏の名残を帯びていた。図書館の冷房は効きすぎているくらいで、張彤は薄手のカーディガンを羽織りながら、専門書のページをめくっていた。彼女の指先はページの端をそっと撫で、目線は文字を追っているようでいて、実際には何も頭に入っていなかった。
彼氏の李明は今日もアルバイトだ。優しすぎるほど優しい彼は、デートのたびに「ごめん、今日も遅くなる」と謝る。その謝罪の言葉に、張彤はいつも「大丈夫だよ」と微笑み返すのだ。だが、その笑顔の裏で、彼女は自分が何を考えているのかわからなくなっていた。
図書館の入り口が開く音がした。張彤は無意識に顔を上げ、そして固まった。
見覚えのあるシルエット。体育会系の逞しい体つき。歩くたびに漂ってくる、少しスパイシーなコロンの香り。
蒋家楽だった。
彼は迷うことなく彼女の向かいの席に座った。昔と変わらない、あの自信に満ちた笑みを浮かべて。
「久しぶりだな、張彤」
その声は低く、艶めいていた。図書館の静寂に溶け込むようでいて、確かに彼女の鼓膜を震わせた。
「…久しぶり」
張彤はできるだけ平静を装って答えた。だが、手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じていた。
蒋家楽は何も言わずに、スマートフォンをポケットから取り出した。そして、何かを操作し始めた。
数秒後、張彤のスマートフォンが振動した。
画面には、見覚えのないIDからのメッセージが表示されていた。
「相変わらず綺麗だな」
「後ろの席から見えるお前の横顔、たまらなかった」
心臓がドクンと大きく跳ねた。張彤は顔を上げ、蒋家楽を見た。彼は軽く口元を緩めて、何事もなかったかのように本を開いている。
「やめて」
張彤は短く返信した。だが、その指は震えていた。
中学時代の記憶が鮮明に蘇る。三年前、彼は校内で一番の注目株だった。バスケ部のエースで、女生徒の間で「楽様」と呼ばれていた。そんな彼が、なぜか地味で目立たない張彤に執着した。
最初は戸惑った。放課後、教室に残っていると、彼が現れて「送っていくよ」と言う。断ると、彼は笑いながら「怖がらなくていいよ」と頭を撫でる。その手の温もりと、少し乱暴な優しさに、張彤は抗えなくなっていった。
問題は、彼氏がいたことだ。同じ中学の同級生、優しい少年だった。蒋家楽との関係がバレた時、彼は泣きながら「どうして」と繰り返した。あの時、張彤は自分でも信じられないほどの冷淡さで、彼に別れを告げた。
「お前を本当に好きなのは、俺だけだ」
そう言った蒋家楽の声が、耳の奥で蘇る。
スマートフォンが再び振動した。
「今夜、寮まで送るよ」
「久しぶりに二人きりで話そう」
『やめて。彼氏がいるの』
張彤は必死に打ち込んだ。だが、その言葉は自分でも薄っぺらく感じられた。李明との関係は確かに安定している。だが、そこにあったのは「優しさ」であって、「熱」ではなかった。李明は彼女を傷つけることが何より怖くて、いつも一歩引いている。その優しさが、時に物足りなく感じられる自分がいることも、張彤は認めざるを得なかった。
「彼氏ね…」
蒋家楽は口元を歪めて、小さく呟いた。そして、次のメッセージを送ってきた。
「あいつじゃ、お前を満足させられないだろ」
その瞬間、張彤の全身に電気が走った。図書館の冷房が急に強くなったように感じられた。彼の言葉は、彼女の奥深くに隠していた秘密を抉り出そうとしていた。
「違う…」
彼女は声に出して否定したが、その声はかすれていた。
蒋家楽は立ち上がり、彼女の隣に回り込んだ。そして、耳元に顔を寄せて、囁くように言った。
「相変わらず嘘が下手だな、張彤。お前の目を見ればわかるんだ。欲しがってる顔だって、俺は知ってる」
図書館の時計が午後九時を指そうとしていた。閉館のアナウンスが流れ始める。
「もう帰る」
張彤は慌てて荷物をまとめ始めた。本をバッグに詰め込む手が震えている。
「寮まで送るよ。夜道は危ないしな」
「いい、大丈夫だから」
張彤は拒否した。だが、その声は確かに躊躇っていた。
彼女は急ぎ足で図書館を出た。外の空気はまだ生暖かく、湿った風が頬を撫でた。目線の先にある寮の灯りが、遠くに揺れている。
「張彤」
後ろから声がした。振り返ると、蒋家楽が立っていた。図書館の出口の明かりを背に、そのシルエットは異様に大きく見えた。
「やっぱり送るよ。お前の安全が心配だからな」
その口調は優しかった。だが、その目は獲物を捉えた獣のそれだった。
張彤は唇を噛みしめた。手のひらに爪を立てる。頭の中では「断れ」という理性の声が叫んでいた。だが、もう一方の声が囁く。
『このまま送ってもらっても、別に構わないんじゃない?』
「…結構です」
絞り出すように、そう言った。そして、振り返らずに歩き出した。
しかし、心臓は今も激しく打ち続けていた。図書館を出てから十分以上経っても、その鼓動は収まらなかった。蒋家楽の視線が背中に刺さっているのを感じながら、張彤は寮への道を急いだ。
彼の姿が完全に見えなくなった時、ようやく肩の力が抜けた。だが、それと同時に、何か大切なものを取りこぼしたような喪失感が胸をよぎった。
スマートフォンに新しいメッセージが届いている。
「また明日、会いに行くよ」
その文字を見た瞬間、張彤は恐ろしいことに、心のどこかで「楽しみだ」と思っている自分に気づいてしまった。