# 第一章:入学日の災い
九月の朝日が校門に降り注ぐ中、林婉真は真新しい制服の襟を正して、期待に胸を膨らませながら市立第一高校の門をくぐった。
「ついに高校生だ!」
彼女の心は軽やかだった。中学時代は成績優秀で、先生たちからも信頼され、友人も多く、何の憂いもない青春の真っただ中にいた。今日の入学式では、新たな出会いと新たな始まりが待っている。そう信じて疑わなかった。
校舎へと続く桜並木の道は、新入生たちで賑わっていた。友人同士で話し込む者、緊張した面持ちで保護者に付き添われる者、思い思いの表情で新生活への期待を膨らませている。婉真もその一人だった。
だが、その平穏は一瞬で破られた。
「おい、どけ」
背後から響いた傲慢な声。振り返る間もなく、婉真の肩に強い衝撃が走った。体勢を崩した彼女は、思わず前に倒れ込む。
「あっ!」
悲鳴を上げる間もなく、婉真の体は一人の少女と衝突した。派手なメイクを施し、制服を着崩したその少女は、婉真がぶつかった拍子に手に持っていた小さな箱を落とした。
「なにしてんだよ、このクソガキ!」
少女の鋭い声が辺りに響く。彼女の周りには数人の取り巻きがいて、一斉に婉真を睨みつけた。
「す、すみません!大丈夫ですか?」
婉真は慌てて頭を下げ、床に散らばった荷物を拾おうとした。すると、少女の首元で何かがきらりと光った――見覚えのあるペンダントだった。
「あ、それ……」
婉真の口から思わず言葉が漏れた。そのペンダントは、中学の卒業式で母からもらったものと全く同じデザインだった。だが、彼女は最近それを紛失していた。
「なんだよ、じろじろ見て」
少女――苏雅晴は、不快そうに眉をひそめた。彼女の視線が婉真の手元に落ち、そして自分のペンダントへと移る。
「おい、お前、まさか……私のネックレスを盗もうとしたんじゃないだろうな?」
「え?違います!ただ、それ、私がなくしたものと同じだなと思って……」
「はっ、笑わせるなよ。このネックレスはシャネルの限定品だ。お前みたいな貧乏人が持てるわけがないだろ」
苏雅晴の言葉に、周囲の取り巻きたちが嘲笑を漏らす。婉真の頬が熱くなった。
「違うんです、盗もうとしたわけじゃ……」
「口答えか?」
苏雅晴の目つきが鋭くなる。彼女はポケットからスマートフォンを取り出すと、どこかへ電話をかけた。
「もしもし?お父さん?今、女生徒にネックレスを盗まれそうになったんだけど……うん、そう。ここの校長に言って、すぐに警察を呼んで」
「待ってください!本当に違うんです!」
婉真は必死に訴えたが、苏雅晴は電話を切ると、取り巻きたちに指示を出した。
「こいつを職員室に連れて行け。証拠もあるしな」
「証拠って……私、何も取ってません!」
「さっき、私のネックレスを見たときの挙動不審な様子、みんな見てたよな?」
苏雅晴が周囲を見渡すと、取り巻きたちは一斉にうなずいた。
「……そういえば、彼女、確かに雅晴さんのネックレスをじっと見てた」
「その前に、ぶつかったときに手を伸ばしてたような……」
作り話が、まるで真実のように紡がれていく。婉真は言葉を失った。
その後の展開は、まるで悪夢のようだった。
教師たちは苏雅晴の話を鵜呑みにし、警察が呼ばれた。苏家――この地域で絶大な権力を持つヤクザの一族――の圧力は絶大で、婉真の弁明は一切聞き入れられなかった。
「被害額は五十万円。窃盗罪の現行犯として、懲役五年を求刑する」
法廷で検事がそう告げたとき、婉真の世界は音を失った。弁護士すらつけてもらえず、裁判はわずか十分で終わった。混乱する頭の中で、彼女はただ一つだけ理解した――自分が罠に嵌められたのだと。
「私、やってない……やってないんです!」
法廷で叫ぶ婉真を、裁判官は冷たい目で見下ろした。
「被告の控訴は棄却する。本廷は、被告を帝国未成年女子囚刑務所『極楽園』に収監することを命ずる」
判決が下された瞬間、婉真の体から力が抜けた。母の泣き叫ぶ声が遠くに聞こえる。父は憔悴しきった顔で床にうずくまっていた。
護送車の中で、婉真は初めて自分の運命を実感した。
鉄格子で仕切られた狭い空間には、他にも十人ほどの少女たちがいた。年齢は十二歳から十七歳までとさまざまだ。しかし、全員が同じように虚ろな目をしており、誰一人として声を発さない。
「……ここが、極楽園」
婉真は震える声で呟いた。同乗する少女たちの目は、まるで生気を失っていた。中には顔に生々しい痣がある者もいる。
「おい、新人か」
隣に座っていた痩せた少女が、掠れた声で話しかけてきた。彼女の腕には無数の切り傷の跡があった。
「……はい」
「名前は?」
「林……林婉真です」
「そうか。俺は陳晓。もう三年目だ」
陳晓という少女は、自嘲気味に笑った。
「ここではな、名前なんて意味がない。みんな番号で呼ばれる。お前は今日から囚人番号1074だ」
婉真は自分の腕を見下ろした。まだ何も刻まれていない。だが、すぐにここでの身分が刻まれるのだろう。
「ねえ、ここってどんなところなの?」
婉真の問いに、陳晓は一瞬だけ目をそらした。
「……地獄だよ」
その一言が、護送車の中に重く響いた。
車窓から見える景色は次第に街から離れ、やがて鬱蒼とした森の中へと入っていく。二時間ほど走っただろうか、突然、前方に巨大な建造物が現れた。
灰色のコンクリート壁。高さは十メートルはあるだろう。壁の上には有刺鉄線が幾重にも張り巡らされ、見張り塔が四隅に立っている。鉄格子の門はまるで怪物の口のように大きく開いていた。
「到着だ」
護送車の運転手が無機質な声で告げる。
車が停まると、外部から鉄格子の扉が開かれ、少女たちは一人ずつ外に引きずり出された。婉真もまた、看守に腕を掴まれて無理やり降ろされる。
「こっちだ、1074」
看守――趙雪という名の女性は、三十代半ばで、筋肉質な体躯と鋭い目つきを持っていた。彼女は婉真の体を一瞥し、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「また新しいおもちゃが来たな」
その言葉に、婉真は背筋が凍る思いがした。
塀の中へと足を踏み入れると、そこには広い運動場が広がっていた。しかし、その光景は婉真の想像を絶するものだった。
囚人たちは皆、汚れた制服を着て、無表情で黙々と作業をしている。中には手錠をかけられたままの者もいる。看守たちは鞭や警棒を手に、囚人たちの間を歩き回っていた。
「おい、そこの新人!こっちに来い」
趙雪が命令口調で呼ぶ。婉真はおぼつかない足取りで彼女の前に立った。
「ここがお前の新しい家だ。規則は単純だ。看守の言うことに絶対服従すること。反抗すれば……分かってるな」
趙雪は警棒で手のひらをトントンと叩きながら、不気味な笑みを浮かべた。
「今日からお前は、私たちの言うことを聞くだけの人形だ。いいな?」
婉真は恐怖で声が出なかった。ただ、小さくうなずくことしかできない。
その夜、婉真は狭い独房に押し込まれた。壁は湿っており、空気はカビ臭い。小さな窓からは冷たい風が吹き込んできた。
「こんなところで……五年も……」
涙が止まらなかった。母の顔、父の顔、友達との楽しかった日々が脳裏をよぎる。もう二度と戻れない日常。すべてを奪ったあの少女――苏雅晴への憎しみが、胸の奥で静かに燃え上がった。
「必ず……必ず出てやる」
暗闇の中で、婉真は拳を握りしめた。しかしその決意とは裏腹に、彼女の体は震えが止まらなかった。
この刑務所には、もっと恐ろしい現実が待ち受けていることを、彼女はまだ知らなかった。