# 第一章 再会の優しさ
成田空港の国際線ターミナル。林逸は大きなスーツケースを引きずりながら、到着ロビーを見渡した。父から「迎えを寄越す」とだけ聞かされていたが、具体的に誰が来るのかは知らされていなかった。
留学前の最後の一週間は慌ただしかった。日本での生活を片付け、慣れ親しんだ街に別れを告げ、新たな土地への期待と不安が胸の中で渦巻いている。特に不安だったのは、言葉の問題だった。高校で三年間学んだフランス語が、実際にどれだけ通じるのか――。
そんな思考の波が頭をよぎる中、ふと視線の先に立つ一人の女性が目に留まった。
ベージュのトレンチコートを優雅に羽織り、細身のシルエットが空港の冷たい照明の下でも際立っている。彼女はこちらに気づくと、柔らかな微笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで春の陽光のように温かく、周囲の喧騒を一瞬で和らげた。
「林逸くん?」
女性が近づいてくる。彼女の声は低く澄んでいて、耳に心地よく響いた。彼女の目は優しく、しかしどこか深い哀しみを秘めているようにも見えた。
「はい、林逸です。もしかして…」
「蘇晴よ。あなたのお父さんから頼まれて、あなたの世話をすることになったの。晴姨って呼んでね」
蘇晴。その名前を聞いて、林逸の脳裏にぼんやりとした記憶が蘇る。確か、父の部下だった女性だ。数年前、一度だけ家に来たことがある。その時はただの大人の一人としてしか認識していなかったが、今こうして改めて見ると、彼女の美しさに息を呑んだ。
「晴姨…ありがとうございます。よろしくお願いします」
林逸は頭を下げた。心臓が不自然に高鳴っているのを感じた。
「そんなに堅くならなくていいのよ。これから一緒に暮らすんだから、気楽にしてね」
蘇晴はそう言って、軽く彼の肩を叩いた。その手のひらから伝わる温もりが、林逸の緊張を少しずつ解していく。
二人は搭乗手続きを済ませ、免税店を横目にゲートへ向かった。蘇晴は時に何気ない世間話をしながら、林逸の歩調に合わせてゆっくりと歩く。彼女の存在そのものが、林逸の中の不安を和らげていくようだった。
飛行機に搭乗すると、蘇晴は窓側の席を林逸に譲り、自分は通路側に座った。機内が暗くなり、離陸の衝撃が体を包み込む。
「毛布、いる?」
蘇晴が優しい声で尋ねた。林逸がうなずくと、彼女は立ち上がり、頭上収納棚から毛布を取り出した。そして、そっと林逸の膝の上に広げ、丁寧に端を整えてくれる。
その時だった。
蘇晴の指が、無意識のうちに林逸の頬に触れた。それは一瞬の接触だったが、林逸の全身に電流が走ったかのような衝撃が走った。彼女の指先は冷たく、しかしその肌触りはあまりにも繊細で。
「ごめん、ちょっと毛布がずれてたから」
蘇晴は何事もなかったかのように微笑んだ。しかし林逸には、彼女の頬がほんのり赤く染まっているように見えた。
心臓の鼓動が速くなる。どうしてこんなにドキドキするんだろう。彼女は父の部下で、ただの世話役だ。それなのに――。
「晴姨は、どうしておじさんの代わりに…」
言葉がうまく出てこない。蘇晴は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに優しい笑顔に戻った。
「あなたのお父さんは、とても忙しいの。でも、あなたのことを心配しているわ。だから、私が代わりにあなたの面倒を見ることになったのよ」
その言葉の裏に何かがあるような気がした。父と蘇晴の関係は、単なる上司と部下以上のものかもしれない。林逸はそんな疑念を抱きながらも、深く詮索する勇気はなかった。
機内の灯りがさらに暗くなり、多くの passengers が眠りにつき始めた。蘇晴も目を閉じている。林逸はこっそりと彼女の横顔を盗み見た。トレンチコートの襟から覗く首筋の白さ、微かに上下する胸元。彼女は確かに歳を重ねているはずなのに、どこか少女のような清らかさを残している。
そんな自分の中に湧き上がる感情に、林逸は戸惑いを覚えた。それは単なる憧れや感謝だけではない、もっと深くて熱い何かだった。
十二時間のフライトを経て、機はシャルル・ド・ゴール空港に着陸した。外の空気は冷たく、パリ特有の街の匂いが混ざっている。林逸は改めて、自分が異国の地に立っていることを実感した。
タクシーに乗り込み、街並みが窓の外を流れていく。凱旋門、エッフェル塔、セーヌ川。教科書でしか見たことのない景色が現実のものとなり、林逸の胸は高鳴った。
「ここよ」
タクシーが止まったのは、パリの中心部から少し離れた静かな住宅街。築年数は古そうだが、趣のあるアパルトマンの一室だった。
蘇晴が鍵を開けると、中は想像以上に広く、清潔に整えられていた。リビングには大きな窓から夕日が差し込み、部屋全体を柔らかなオレンジ色に染めている。家具はシンプルながらもセンスが良く、壁には風景画が飾ってある。
「あなたの部屋はここよ」
蘇晴は奥のドアを開けた。中はこじんまりとしているが、ベッド、机、本棚が完備され、枕元には小さな観葉植物が置かれている。窓からは向かいの屋根越しに、遠くの教会の尖塔が見えた。
「昨日、あなたが来る前に全部準備したの。足りないものがあったら、遠慮なく言ってね」
その言葉に、林逸の胸が熱くなった。見知らぬ土地で一人暮らしを始める不安が、蘇晴の細やかな気遣いによって和らいでいく。
「ありがとうございます、晴姨」
林逸は心から感謝の言葉を口にした。蘇晴はそれに応えるように微笑み、そっと彼の頭を撫でた。
「これから、一緒に暮らしていきましょうね」
その瞬間、林逸の中で何かが変わったような気がした。ヨーロッパでの新生活への期待と、この優しい女性と過ごす日々への予感が、彼の心を満たしていく。
しかし同時に、彼の心の奥底では、この関係が単なる世話役と留学生の枠を超えてしまうかもしれないという予感が、微かに芽生え始めていた。
窓の外では、パリの街がゆっくりと夜の闇に包まれようとしていた。