# 第一章 思いがけない付き添いのおばさん
リビングルームに夕日が差し込む。林逸はソファに座り、テーブルに広げられた留学の書類を眺めていた。来月から始まるアメリカでの生活。新しい環境への期待と、一人で知らない土地に行く不安が胸の中で入り混じっている。
「逸、ちょっと話があるんだ」
父が書斎から出てきて、向かいの椅子に腰掛けた。その手には一通の茶封筒。五十代とは思えない精悍さを保った父は、いつも通り穏やかな表情をしていたが、何かを決意したような目つきだった。
「留学の件だがな、お前一人で行かせるのは心配だ。だから、付き添いを頼むことにした」
林逸は顔を上げた。父がこんなことを言い出すのは珍しい。父はいつも「男は一人で立つべきだ」と言って、過度な干渉を避けてきたからだ。
「付き添いって……誰を?」
「会社の高さんだ。高円円という女性でな、学歴も高いし英語も堪能だ。向こうでのお前の生活のサポートを任せられる、最も信頼できる部下だ」
「高円円……」
その名前を口にした瞬間、林逸の脳裏に何かが引っかかった。どこかで聞いたことがあるような——。
父の次の言葉が、その記憶をはっきりと結びつけた。
「そう言えば、お前の同級生の小林くんのお母さんだってな」
「えっ?」
林逸の手が止まった。小林——中学の同級生、小林宏。あの優しくて少し内気な奴だ。その母親が父の会社の人間で、しかも——
あの日の記憶が鮮やかに蘇る。
三年前の夏休み。小林宏の家に遊びに行った時のことだ。インターホンを鳴らし、玄関のドアが開いた瞬間、林逸は言葉を失った。
そこに立っていたのは、部屋着の薄いスカートを身にまとった女性だった。紺色のノースリーブのワンピースで、髪をゆるく後ろで束ねていた。化粧気は薄いのに、その顔立ちは写真から抜け出したかのように整っていた。特に目元が涼しげで、見る者を包み込むような優しい微笑みを浮かべていた。
「あら、宏の友達? いらっしゃい」
彼女の声は柔らかく、まるで春の風が耳元を撫でるようだった。林逸はその瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。高校生になった今でも、あの時の衝撃は鮮明に覚えている。
「どうした? 顔が赤いぞ」
父の声で現実に戻された。林逸は慌てて首を振った。
「い、いや、何でもない。ちょっと驚いただけだ。まさか小林の母さんが父さんの会社の人だったなんて」
父は茶封筒から書類を取り出しながら言った。
「高さんはもともと外資系企業で働いていたんだが、結婚してから地元に戻ってきて、わが社に入ったんだ。英語はネイティブレベルだし、何より人柄がしっかりしている。お前の面倒を見てもらうには最適の人材だと思った」
「でも……なんで母さんじゃなくて、会社の人なんだ?」
林逸は素直な疑問を口にした。母は去年から長期で海外に出張中で、父と二人暮らしが続いていた。母が来られないのは分かっている。それでも、父がこういう形で付き添いを手配するのはどこか不自然だった。
父は一瞬、目を伏せた。そして再び顔を上げ、変わらぬ笑みを浮かべた。
「母さんは仕事があるからな。それに、高さんはお前にとっても気心の知れた人のようだし、安心だろう?」
確かに、そうかもしれない。あの日見た高円円は、小林宏に対してとても優しかった。友達の前でも気取らず、自然体で接していた。もし彼女が留学中に付き添ってくれるなら、心強いことこの上ない。
しかし、同時に別の感情が林逸の中で芽生え始めていた。
あの日、高円円を見た時の胸の高鳴り。それは憧れにも似た感情だった。彼女の一挙一動が、何故か頭から離れなかった。同級生の母親だと分かっていても、彼女の優しい笑顔や、かすかに漂う香水の香りが、時折思い出されては心を揺さぶる。
「明日、会って話をすることになっている。お前も一緒に来い」
父の言葉に、林逸はこくりと頷いた。心臓の鼓動が早くなる。もう一度、あの笑顔を見られる——それだけで、胸の奥が温かくなった。
「それにしても、よく知らなかったな。小林の母さんが、そんなにすごい人だって」
林逸はつぶやいた。父は書類をしまいながら、何気なく言った。
「高さんはな、仕事もできるが、家庭では一人息子の宏くんをしっかり育てている。まあ、今度はお前の面倒を見てもらうことになるが、甘えすぎるなよ」
「わかってるよ」
林逸はソファの背もたれに体重を預けた。窓の外では夕日が沈みかけ、部屋の中がオレンジ色に染まっていた。
あの時——小林宏の家で出会った時、高円円は確かに言っていた。
「宏がいつもお世話になってるね。また遊びにおいで」
その一言が、今も心に残っている。まさか数年後、彼女と一緒にアメリカで生活することになるとは、夢にも思わなかった。
興奮と緊張が入り混じる。これからの留学生活に対する期待と、高円円という女性への複雑な感情。十七歳の林逸の胸は、言葉にできない想いでいっぱいだった。
父が立ち上がり、書斎に戻ろうとした時、林逸は思わず声をかけた。
「父さん、明日の約束、何時だっけ」
「十時だ。遅れるなよ」
「うん」
父の背中を見送りながら、林逸は深く息を吐いた。明日、彼女にまた会える。今度はただの友達の母親としてではなく、自分を支えてくれる存在として。
その事実が、林逸の心に不思議な高揚感をもたらしていた。