肉畜の願い

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# 肉畜の願い ## 第一章 鏡の中の双影 私の名は小月。 鏡の中には、兄と寸分違わぬ顔がある。同じ形の目、同じ弧を描く唇、同じ位置にあるほくろ。けれど、決定的な違いが一つだけある。兄は長子で、私は次子だ。 この家では、すべてが長子に与えられる。屋敷も、事業も、父の寵愛も。そして次子に与えられるものは——ただ一つの運命
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鏡の中の双影

# 肉畜の願い

## 第一章 鏡の中の双影

私の名は小月。

鏡の中には、兄と寸分違わぬ顔がある。同じ形の目、同じ弧を描く唇、同じ位置にあるほくろ。けれど、決定的な違いが一つだけある。兄は長子で、私は次子だ。

この家では、すべてが長子に与えられる。屋敷も、事業も、父の寵愛も。そして次子に与えられるものは——ただ一つの運命だけ。肉畜となること。

指先で鏡面に触れる。冷たいガラスの向こうで、私と同じ顔が同じ仕草をする。白い肌、華奢な体。誰が見ても可愛いと言うその姿は、しかし兄の目にはどう映っているのだろう。

「お兄様……」

囁く声が部屋に溶ける。私は指先を頬に滑らせ、首筋へと辿る。そこにはまだ何の痕跡もない、真っさらな白い肌。

兄が触れたら、どんな感触がするのだろう。兄の大きな手が、この細い首を掴んだら。兄の指が、この肩を押し付けたら。

想像するだけで、体の奥が熱くなる。

「お兄様に……屠ってほしい」

鏡の中の自分が、艶めかしく微笑む。その目は虚ろで、けれど確かに欲望に輝いている。

この屋敷の裏手には屠殺場がある。兄が継いだ家業。そこで毎日、豚や牛が屠られる。彼らの断末魔が、窓を震わせて届く。私はその声を聞くたび、自分もああなるんだと思う。

兄の手で。

「他の肉畜のように、ただの肉塊にされるだけじゃ嫌」

私はゆっくりと服を脱ぐ。鏡に映る裸体は、まだ少年の面影を残しながらも、どこか淫靡な曲線を描く。胸はまだ平らだが、腰のくびれは覚え始めている。

「お兄様……私のことを、覚えていてくれますか」

子供の頃、兄は優しかった。たまに遊んでくれる時は、本当の兄弟のように笑い合った。けれど、ある時から兄は変わった。いや、私が変わったのか。兄への想いが——恋に変わった。

それは禁忌だ。それでも、私は止められない。

「お兄様……私はあなただけのもの」

指先が胸の頂点に触れる。そこはもう固くなっていた。兄に触れられているところを想像しながら、優しく撫でる。自分の手なのに、兄の手だと思えば感じ方が変わる。

「あっ……お兄様……」

甘い声が漏れる。部屋には誰もいない。けれど、鏡の中の私は、熱に浮かされたように頬を染めていた。

私は次子だ。この家では、次子は長子の所有物だと言われている。肉畜は、屠殺場の主人の所有物だ。だから、私は兄のもの。そう考えると、胸が締め付けられるほど嬉しい。

「お兄様、いつでも私を屠ってください。あなたの手で、あなただけの刃で」

私は鏡に映る自分に語りかける。返事はない。ただ、同じ形の唇が、期待に震えながら動くだけ。

外から豚の悲鳴が聞こえる。今日も兄は仕事をしている。あの強い腕で、分厚い刃を振るっている。血に濡れた手で。その手が、いつか私に触れる。

「その日まで……私は美しくあり続けるわ」

肌を撫でる手を止め、私はもう一度鏡を見つめる。兄と同じ顔。けれど、兄のように強くはない。脆く、壊れやすい、ただの肉畜の顔。

「私だけの、お兄様」

その言葉を最後に、私は部屋を出た。廊下の先、屠殺場の鉄の匂いが漂ってくる。兄の匂いだ。

足音が近づく。兄だ。私は壁に張り付き、息を潜める。だって、まだ。まだ準備ができていない。今日はただ、すれ違うだけでいい。

兄が通り過ぎる。一瞥もくれない。それがまた、私の胸を熱くさせる。

「お兄様……いつか必ず、私を見て」

そう願う私は、狂っているのだろう。

それでもいい。この歪んだ愛がある限り、私は生きていける。兄の肉畜として、屠られるその日まで。

屠殺場への旅

# 第二章: 屠殺場への旅

夜の闇が街を包み込む頃、私は家を抜け出した。月明かりもない暗い道を、何度も足を滑らせながら進む。心臓は早鐘を打ち、手のひらには嫌な汗が滲んでいた。

兄の屠殺場は町外れにあった。遠くからでも、その独特の鉄錆びた匂いが風に乗って漂ってくる。近づくにつれて、その匂いは濃くなり、口の中に嫌な味を残した。

裏口の錠は、以前兄からもらった合鍵で開けた。鍵穴に差し込む手が震える。金属がかちりと鳴る音が、やけに大きく響いた。

中は薄暗かった。天井の蛍光灯は半分が切れており、残りの灯りもかすかに瞬いている。床はコンクリートで、ところどころに黒ずんだ染みが広がっていた。それが何の染みか、考えるまでもなかった。

空気が重い。血の匂いと、それに混じる消毒液の刺激臭が肺の奥まで沁みていく。

「……もうすぐだよ」

声が聞こえた。兄の声だ。私は反射的に身を縮め、影の多い通路の壁際に張り付いた。

息を殺して覗き込むと、広い処理場が見えた。白いタイル張りの部屋の中央に、兄が立っている。彼は長袖の作業着にゴムの前掛けをつけ、手には鈍く光る包丁を持っていた。

その前には、数人の女たちが横たわっていた。もう動かない。首には深く切り裂かれた傷跡があり、そこから流れ出た血が排水溝へとゆっくりと流れ落ちていく。

兄の動きは無駄がなかった。一振り、一振りが正確で、迷いがない。彼はまるで芸術家のように、しかし同時に機械のように、作業を進めていく。

「まだ若いのにね。でも、これがお前たちの役目だ」

兄はそう呟きながら、次の部位へと刃を移す。その声には、哀れみも憎しみもなかった。ただ淡々と、仕事をこなすだけの声だった。

私は暗がりに隠れ、その全てを見つめていた。心臓は激しく打ち、耳の奥で血が騒ぐ。怖いはずなのに、目は離せなかった。

想像する。もしあのまな板の上に横たわるのが自分だったら。

兄の手が、私の首に触れる。刃が、私の肌を滑る。冷たい金属の感触。温かい血が流れ出る感覚。

「あ……」

無意識に声が漏れた。慌てて口を押さえるが、遅かった。

兄の手が止まる。彼はゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。

「誰だ」

その声は冷たく、鋭かった。私は全身が凍りつくのを感じた。逃げ出さなければ。そう思うのに、足が動かない。

「小月か」

兄は包丁を持ったまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。彼の足音が、濡れた床に吸い込まれていく。

「何しに来た」

「……兄さんに、会いたくて」

声が震えた。情けなかった。

兄は私の前に立ち止まった。その前掛けには、まだ新しい血痕がいくつもついている。彼の目は、私を見下ろしていた。そこには、優しさも怒りもなかった。ただ、観察するような冷めた視線だけがあった。

「ここは、お前が来る場所じゃない」

「でも、僕は……」

「帰れ」

その一言は、杭のように私の胸に突き刺さった。けれど、それでも私は動けなかった。

「兄さん……僕も、兄さんのものになりたい」

兄の目が、わずかに細まった。

「何を言っている」

「僕を、兄さんの手で……処してほしい」

沈黙が降りた。遠くで、排水溝を流れる血の音だけが聞こえる。

兄はしばらく私を見つめていた。そして、ふっと小さく息をついた。

「お前は、馬鹿な弟だな」

「馬鹿でもいい。兄さんに……兄さんだけに、僕を終わらせてほしい」

兄は何も言わず、くるりと背を向けた。そして処理場の中央へと戻り、作業台の上に置いてあった布巾で、ゆっくりと包丁の血を拭き始めた。

「今夜はもう終わりだ。お前も、さっさと帰れ」

「でも……」

「明日、また来い」

その言葉に、私は息を飲んだ。

兄はこちらを見ずに、淡々と続ける。

「お前が、本当にその覚悟があるなら、明日の夜、もう一度来い。そしたら、考えてやる」

心臓が、大きく跳ねた。喜びと、恐怖と、そして期待が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。

「……本当?」

「ああ。ただし、一度始めたら、後戻りはできんぞ」

兄の声には、かすかに嘲笑が混じっていた。それが、逆に私の決意を固めた。

「わかった。明日、必ず来る」

私は震える足で、裏口へと歩き出した。途中、振り返って兄の背中を見る。彼はもう、私に構わず、片付けを始めていた。

外に出ると、冷たい風が頬を打った。血の匂いが、まだ衣服に染みついている。

明日。明日、私はもう一度ここに来る。そして、兄の手で、この身を捧げるのだ。

その想像に、口元が自然と緩んだ。顔が歪む。抑えきれない笑みが、闇の中で浮かび上がる。

「兄さん……明日、待っていてね」

私は月のない夜空を見上げながら、ゆっくりと家路についた。足取りは軽く、心は高鳴っていた。

女畜の悲鳴

その日も兄は、新しい女装畜を屠殺場へと連れてきた。小月は冷たい床に膝をつきながら、その姿をじっと見つめた。兄の手に引かれて歩く畜生は、確かに女の衣服をまとっている。だがその作りは粗末で、縫い目は歪み、布地は安物の光沢を放っている。小月のように丁寧に仕立てられた衣装ではない。化粧も下手だ。頬紅が濃すぎて、まるで舞台役者のようだった。

小月の胸の内に、どろりとした嫉妬が湧き上がった。このような粗悪な畜生が、兄に屠られるなど許せなかった。兄の手を汚す価値もない。小月の指が自分の衣装の端を撫でる。自分こそが完璧なのだ。兄のために、この身体も心もすべてを捧げてきたのだ。

「兄さん」

小月は立ち上がり、影から現れた。無垢な微笑みを浮かべるふりをしながら、その瞳は冷たく光っていた。兄は一瞥し、無言で畜生の腕を離した。畜生は恐怖に震えながら小月を見る。

「その畜生は、あまりに粗末じゃないか」

小月の声は甘く、しかし刃のように尖っていた。「私のほうが、ずっと肉畜にふさわしい」

兄は軽く眉を上げただけで、答えない。小月は一歩前に進む。心臓は激しく鼓動していた。この胸の高鳴りこそ、兄と向き合える証だった。

「兄さんは、私だけを屠ればいい。他の畜生など必要ない」

小月は衣装の襟元を整えながら、兄の目をまっすぐに見つめた。「この身体は兄さんのためにある。兄さんが望むなら、いつでも屠られる。他の誰よりも美しく、苦しむ。それが私の願いだ」

兄の口元に、かすかな嘲笑が浮かんだように見えた。「お前はいつも同じことしか言わないな。飽き飽きする」

「それでも言い続ける。兄さんに殺されるのは、私でなければならない」

小月の声がわずかに震えた。それは恐怖ではなく、執着の疼きだった。「この畜生たちは、兄さんの手を汚す価値すらない。私だけを見てくれ」

兄は無言で畜舎の奥へ歩き始めた。新しい畜生も、おとなしく後に続く。小月はその背中に怒りがこみ上げるのを感じた。自分を無視して、あんな粗悪なものに目を向けるなんて。

「兄さん!」

小月は駆け出し、兄の前に立ちはだかった。両腕を広げ、畜生を通させまいとする。「俺を屠れ。他の畜生など放り出せ」

兄の目が鋭く光った。その手が小月の頬を打つ。乾いた音が畜舎に響いた。小月はよろめきながらも倒れず、その痛みを噛みしめた。この痛みこそ、兄が自分に与えた証だ。甘美な痺れが顔面に広がる。

「邪魔をするな」

兄の声は冷たく、短い。

「邪魔ではない。俺は兄さんのものだ」

小月はゆっくりと立ち上がり、兄の手に自分の顔を擦り寄せる。「兄さんが望むなら、もっと強く打ってもいい。それでも俺は、兄さんの肉畜でいたい」

新しい畜生が、小月の狂気じみた様子に怯えて後ずさった。小月はその動きを見逃さず、鋭い視線を向ける。お前ごときが、兄に近づくな。その目に濁った殺意が宿る。

兄は深く息を吐いた。その表情には、疲れと苛立ちと、わずかな憐れみが混ざっていた。「小月、お前は自分が何を言っているのか、わかっているのか」

「わかっている。兄さんに屠られることこそ、俺の幸せだ」

小月の声は甘く、しかし有無を言わせぬ強さがあった。「そして、他の誰にも兄さんの手を汚させはしない」

その瞬間、畜生が悲鳴を上げた。小月が無意識のうちに爪を立てていたのだ。兄は畜生を小月から遠ざけ、獣のように睨みつけた。

「もういい。下がれ」

兄の一言は絶対だった。小月は唇を噛みしめ、ゆっくりと後退した。しかしその目は、兄を捉えて離さない。この日が終わっても、明日も、また兄を独占するために闘うだろう。それが小月の生きる意味だった。

兄は畜生を奥の部屋へと連れて行く。小月はその後ろ姿を見送りながら、一人静かに笑った。どんな畜生も、兄の心を奪うことはできない。自分だけが、兄の刃を受けるにふさわしい存在なのだから。

兄の拒絶

# 第四章 兄の拒絶

夕暮れが slaughterhouse に影を落とす頃、私は兄の執務室の前に立っていた。鉄と血の匂いが混じった空気が、私の肺を満たす。何度も何度も練習した台詞が、喉の奥で渦巻いている。

扉を開けると、兄は革張りの椅子に深く腰掛け、書類に目を落としていた。私が入ってきたことには気づいているはずなのに、顔も上げない。その無関心が、私の胸を鋭く刺す。

「兄さん」

私の声は震えていた。それでも、覚悟を決めて言った。

「私を、あなたの肉畜にしてください」

兄の手が止まった。ペン先が書類の上で静止する。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。

やがて兄はゆっくりと顔を上げた。その瞳は冷たく、私を見透かすように細められる。

「何を馬鹿なことを言っている」

低く、抑揚のない声だった。それは拒絶の宣告だった。

「馬鹿なことじゃない! 本気だ!」

私は一歩前に踏み出した。震える拳を握りしめ、兄を見上げる。

「兄さんのものになりたいんだ。兄さんの手で終わらせてほしい。そうすれば、永遠に兄さんのものになれる」

「小月」

兄の声が一段と冷たくなる。彼はゆっくりと立ち上がり、机の上に両手をついた。その姿は、獲物を見据える猛獣のようだった。

「お前にはまだ価値がある。無駄にするな」

「価値?」

私は笑った。悲しみと怒りが混ざった、歪んだ笑顔だった。

「そんなもの、兄さんに認めてもらえなければ何の意味もない!」

「うるさい」

兄は背を向けた。その背中は、私のすべてを拒絶する壁のようにそびえ立っていた。

「なぜだ! なぜ駄目なんだ!」

私は叫んでいた。涙が視界を歪ませる。

「他の肉畜は平気で屠るくせに! なぜ私だけを拒む! 私は兄さんのものだ! そう決めたんだ!」

「もういい」

兄の声は疲れきっていた。彼はそのまま執務室を出て行こうとする。

「逃げるのか! 私から逃げるのか!」

私は兄の背中に向かって叫び続けた。しかし兄は振り返らず、そのまま扉の向こうへ消えた。

重厚な扉が閉まる音が、部屋に虚しく響く。

私はその場に崩れ落ちた。冷たい床の感触が、膝を通じて全身に伝わる。涙が止まらなかった。ぼたぼたと床に落ちる雫が、暗い染みを作っていく。

世界に見捨てられた。兄に拒絶された。私の存在すべてを、否定された。

部屋の片隅で、埃が夕日の光に舞っている。それは、まるで私のようだった。誰にも必要とされず、ただ虚しく漂うだけの存在。

私は両手で顔を覆い、声を殺して泣き続けた。涙の味は、塩辛くて苦かった。

嫉妬の芽生え

# 第五章 嫉妬の芽生え

その日の夕暮れ、私はいつものように屠殺場の片隅に隠れ、兄の姿を追っていた。血と鉄の匂いが漂うコンクリートの床はいつもより冷たく感じられる。兄は今日も一頭の女畜を手懐けていた。

女畜は白い肌をしていた。まるで陶器のように滑らかで、傷ひとつない。私は自分の腕を見下ろした。そこには無数の切り傷と痣があった。兄が私に与えたものだ。それが愛の証だと信じていたのに。

「よくできたな。お前は特別だ」

兄の声が耳に届く。私は息を呑んだ。兄は女畜の髪を優しく撫でている。その手つきは、私にすら見せたことのないものだった。

女畜が兄の手に擦り寄る。その仕草は無邪気で、まるで飼い主に忠誠を誓う子犬のようだ。だが、それは許せなかった。あの白い肌が、兄の視線を奪っている。兄の慈愛を独り占めしている。

胸の奥で何かが軋む音がした。嫉妬という名の毒が、私の血管を這いずり回る。私は唇を噛み締めた。血の味が広がる。

「なぜだ...なぜあんな女畜に...」

声にならない呟きが漏れる。私は壁に爪を立てた。コンクリートが剥がれ落ち、指先が傷つく。それでも痛みは感じなかった。ただ、あの白い肌を引っかき回したい衝動だけが私を支配していた。

兄が女畜の檻の鍵を開ける。そっと手を差し伸べ、女畜を抱き上げる。その仕草はまるで恋人を扱うように優しい。私は目を見開いた。そんな兄の姿を見たことがなかった。

「お前だけだ。お前だけが俺の理想だ」

兄の言葉が私の心臓を貫く。理想。その言葉は私にとって最も遠いものだった。私は兄の理想になれなかった。女装し、兄の求める姿に近づこうと努力したが、結局は歪んだ存在に過ぎなかった。

その夜、私は自分の部屋にこもった。鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。女装用のドレスを身に纏い、化粧を施す。だが、どれだけ着飾っても、あの女畜のような純粋な美しさは手に入れられない。

「兄様は間違っている」

私は鏡の中の自分に言い聞かせる。震える手で兄の仕事着を取り出す。革のエプロンと手袋。それらには血の跡が染みついている。私はそれらを身に着けた。兄の匂いが鼻腔を満たす。それは興奮と恐怖をもたらした。

翌日、兄が市場に買い出しに出かけた隙を狙った。私は兄の姿に扮し、屠殺場へ向かった。誰も私を疑わなかった。兄の影として育った私の動きは、兄と寸分違わなかったからだ。

女畜の檻の前で立ち止まる。中ではあの白い肌の女畜が怯えた目で私を見上げている。私はゆっくりと鍵を開けた。女畜が後ずさる。

「怖がるな。お前は特別だと言っただろう」

兄の口調を真似て言う。女畜の目がわずかに輝いた。その純粋な信頼の光が、私の心をさらに歪ませた。

一歩、また一歩と近づく。手には屠殺用のナイフが握られている。女畜はまだ気づいていない。私が兄ではないことに。私が、彼女を奪い去るために来た怪物だということに。

「お前の白い肌、とても美しい」

私は囁いた。女畜が微笑む。その無垢な表情が許せなかった。

「だからこそ、俺だけのものにしたい」

ナイフを掲げる。部屋の中に悲鳴が響いた。

偽装の罪

# 第6章 偽装の罪

廊下の隅、誰もいないことを確かめてから、私は兄の作業服を手に取った。

厚手の汚れた布地には、血と汗と消毒液の匂いが染み込んでいる。袖を通すと、兄の体の大きさに合わせて作られた服は私には少し大きすぎた。それでも、鏡の前に立って襟元を正すと、そこに映る自分の姿がまるで別人のように見えた。

「お前はただの家畜だ」

最近聞いた兄の言葉を、私は口の中で反芻する。声のトーンを低くして、もう一度繰り返す。

「お前はただの家畜だ」

鏡の中の私は、唇の端をわずかに歪めた。兄の口調、あの冷たく突き放す言い方、そして時折見せる甘やかすような口調も、私はすべて記憶している。子供の頃からずっと、彼の一挙一動を観察してきたのだから。

靴も兄のものに履き替えた。少し大きいが、歩くときの音が彼と同じように響く。帽子を深くかぶり、マスクで顔の下半分を覆えば、遠目には私が兄だと見間違える者もいるだろう。

心臓が高鳴る。この偽装がばれたら、兄はきっと激怒する。想像するだけで体が震えた。恐怖と、それ以上の何か——歓喜に近い感情が、胸の中で渦巻いている。

私は作業場へと続く廊下を歩き始めた。足音が規則正しく響く。すれ違う作業員たちが軽く頭を下げる。彼らは私を兄だと認識している。その事実が、背筋をゾクリと震わせる痺れとなって伝わってくる。

畜舎の扉の前に立つと、中からかすかな嗚咽が聞こえてきた。鍵はいつもの場所に掛けてある。兄が注意深く管理しているが、私は何度も見ているから、どこに何があるかすべて知っている。

鍵が回る乾いた音がした。扉を押し開けると、湿った空気と排泄物の臭いが鼻をつく。薄暗い室内で、女たちが互いに寄り添い合って震えていた。

私は目的の女畜を見つけた。最も最近連れてこられた娘だ。まだ若く、目にはわずかな抵抗の光が残っている。彼女は私を見て、恐怖に体を硬くした。

「お前だ」

私は兄の声を真似て言った。低く、感情を排した命令口調。完璧な再現に、自分でも驚くほどだ。

「ついて来い」

女が首を振る。涙が彼女の頬を伝う。

「嫌だ……お願い……殺さないで……」

「黙れ」

一歩前に出ると、彼女は悲鳴を上げそうになったが、声はかすれて出てこなかった。私は彼女の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。

抵抗する体を押さえつけながら、私は彼女の耳元に顔を近づけた。自分の声が少し震えているのがわかる。興奮しているのだ。この支配感、この絶対的な力の差が、私を陶酔させる。

「おとなしくしろ。抵抗すれば、もっと酷いことになるぞ」

女が小さくうなずいた。完全な服従の姿勢だ。その様子を見て、私は自分の口元が歪むのを感じた。

連れ出された女畜は、私の手を振りほどこうと必死にもがく。しかし、その力は弱々しく、簡単に押さえつけられた。

「やめて……お願い……」

彼女の声は涙と恐怖で掠れている。私は一瞬、兄の顔を思い浮かべた。兄がこの光景を見たら、何と言うだろうか。

「また始めたのか、このクソガキが」

そう言って、私の頭を殴るかもしれない。それとも、ただ無視するだけか。どちらにしても、私の心臓は激しく打ち続けている。

「お前が悪いんだ」

私は小声でつぶやいた。自分に言い聞かせるように。

「お前のような女畜がいるから、兄さんは……兄さんは私を認めてくれないんだ」

女は何も理解できない様子で、ただ私を見つめている。その瞳には、恐怖しかない。人間の形をしていながら、もう人格すらも失いかけている。

「だから、お前たちは殺されるんだ」

私は彼女の髪を掴み、顔を強引に上げさせた。涙に濡れた頬、震える唇、そのすべてが私の興奮をさらに高めていく。

家畜用の檻に彼女を押し込むと、金属の扉が重い音を立てて閉まった。鍵をかける。カチリという音が、まるで何かの決着を告げるかのように響く。

女が檻の中で震えながら縮こまっている。もう抵抗する力は残っていないようだ。ただ、小刻みに体を震わせるだけの肉塊と化している。

私はその様子をしばらく眺めていた。兄だったら、この先どうするだろう。考えるまでもない。彼はためらわず、手際よく、そして冷酷にその命を終わらせる。それが彼の仕事であり、彼の存在意義なのだ。

しかし私はまだ、その域には達していない。

「次はもっと上手くやる」

私はそう自分に言い聞かせた。

「次こそ、兄さんに認められる」

作業服のポケットに手を入れると、兄の煙草の箱が入っていた。一本抜き出して火をつける。煙が肺の中に広がる感覚は、まだ慣れない。

それでも、この苦さが、兄との唯一の繋がりのように感じられて、私はやめられなかった。

檻の中の女が嗚咽を漏らす。その声を聞きながら、私は兄が戻ってくるまでの時間を計算していた。あと二時間。それまでに、すべてを元通りにしなければならない。

だが、その前に——もう一度だけ、この陶酔に浸っていたい。

血に染まる屠刀

小月は震える手で屠刀を握りしめた。刃に映る自分の顔は、兄の影を宿しているように見えた。

「こうやって…こうやってやるんだ」

目の前には、縛られた女畜がいた。怯えた目で小月を見つめている。その瞳には恐怖と、かすかな哀れみすら浮かんでいた。

小月は兄の動作を思い出そうとした。あの冷徹な一振り。無駄のない、美しい軌跡。何度も見てきた。焼き付くほどに記憶している。

「黙ってろ」

女畜が何か言おうとしたのか、口を開きかけた。小月はそれを遮るように、振りかぶった。

刃が弧を描く。

一瞬の抵抗もなく、刃は女畜の首筋を断った。鮮血が噴き出し、小月の顔に飛び散る。温かい。生温かい感触が、頬を伝って落ちていった。

女畜の体が地面に崩れ落ちる。その目はまだ見開かれていたが、光は既に消えていた。

小月は立ち尽くした。手にした刃から血が滴り落ちる。静寂が屠殺場を包み込んでいた。

自分がやった。初めての殺戮。

ゆっくりと、小月は顔に付いた血を指でぬぐった。指先を口に運び、舐める。

甘い。

いや、甘美だ。鉄の味が舌の上に広がる。それは命の味であり、兄の世界に自分が足を踏み入れた証でもあった。

「これで…兄さんも認めてくれるだろうか」

小月の口元が歪む。笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。

死体を見下ろす。自分が奪った命。兄が毎日のように行っている営み。それをようやく、自分も行えた。

「兄さんが見ていたら、褒めてくれたかな」

独り言が屠殺場に虚しく響く。

小月は死体のそばに座り込んだ。まだ温かい。血の匂いが鼻を突く。だが、嫌ではなかった。むしろ落ち着く。兄の匂いと同じだ。

時計の針が動く音だけが、沈黙を刻んでいた。

いつ戻ってくるだろう。兄は町へ買い出しに行っている。戻ってきた時、この光景を見て何と言うだろう。

「よくやった、と言ってくれるかな…それとも」

もしかしたら怒るかもしれない。勝手な真似をするなと。だが、それでも構わない。兄の感情を引き出せるのなら、たとえ怒りでも歓迎だ。

小月は膝を抱えた。刃は傍らに置いたまま。まだ血が乾いていない。

「早く…早く帰ってきてよ、兄さん」

呟きが冷たい空気に溶けていく。

女畜の死体から血の池が広がっていた。小月のズボンの裾が赤く染まる。だが気にしなかった。兄の世界に染まることを、ずっと望んでいたのだから。

目を閉じると、まぶたの裏にあの瞬間が焼き付いていた。刃が肉を断つ感触。骨をかすめた振動。そして、命が絶える瞬間の静寂。

すべてが美しかった。

兄が毎日見ている光景を、ようやく自分も見ることができる。

「愛してるよ、兄さん」

呟きは誰にも届かない。だが、それでよかった。これは自分の告白。兄への永遠の忠誠。

小月は死体のそばで、ただひたすら兄の帰りを待ち続けた。血の匂いに包まれて、甘美な陶酔に浸りながら。

兄の怒り

兄が帰ってきた。

がちゃりと玄関の鍵が開く音がして、私は自分の部屋で布団にくるまりながら、その足音を待っていた。足音は重く、規則正しく、しかしどこか苛立ちをはらんでいる。一歩ごとに廊下の床が軋むたび、私の心臓は跳ねた。いつものように、兄はまず居間に向かい、コートを脱ぎ、冷蔵庫からビールを取り出すだろう。だが今日は違う。兄はまっすぐに、私の部屋へと向かってきていた。

襖が勢いよく開け放たれた。風圧で私の髪が揺れる。

「小月」

低く、しかし確かな怒りを宿した声だった。私はゆっくりと顔を上げる。兄の顔は歪み、目は血走っていた。その手には、私が昨夜、こっそりと兄の部屋から盗んだ屠殺用のナイフが握られている。先端にはまだ乾いた血糊がこびりついていた。ああ、兄は気づいてしまったのだ。

「お前、何を考えている」

兄は一歩、二歩と近づき、私の布団をはぎ取った。私は半裸に近い姿で晒される。首には革の首輪、胸にはかすかに残る針の痕、足首には鎖の擦過痕。すべて、私が自ら施したものだった。

「兄さん」

私は微笑んだ。歪んだ笑顔を浮かべる自分が、鏡越しに見えるような気がした。

兄の手が、私の髪を掴んだ。痛みが走る。引きずられるままに、私は床を這う。膝と肘が畳に擦れて血が滲むが、構わなかった。

「このバカが」

兄は私を居間まで引きずり、まな板の前に放り投げた。あの大きな、何百もの豚や牛の命を断ってきた木製のまな板が、冷たく光っている。兄はその上に私を押さえつけた。背中にまな板の冷たさが伝わる。天井の蛍光灯がまぶしく、私は目を細めた。

「お前、俺を怒らせたいのか」

兄の声は震えていた。怒りか、それとも別の感情か。私にはわからなかったが、その震えは美しかった。兄が私に対してこれほど感情を露わにするのは、いつぶりだろうか。

私は笑った。

「兄さん、私を屠って」

言葉は自然と口をついて出た。それは長年、私の胸の奥で飼いならしていた感情だった。兄に認められたい。兄に触れてほしい。兄の手で、この肉体が終わりを迎えるなら、それ以上の幸福はない。

兄の目が、見開かれた。一瞬、時が止まったように感じた。兄の手が、私の首を絞めようと震えたが、途中で止まった。

「何を言っている」

「屠ってください。兄さんの手で、私を終わらせてください」

私は繰り返した。声は澄んでいた。涙はなかった。ただ、全身が熱く、そして安らかだった。これでようやく、兄の記憶に刻まれる。兄が生涯、忘れられない存在になる。

兄は私の髪を離した。その代わりに、私の頬を平手で打った。鋭い痛みが走ったが、私はますます笑った。

「笑うな」

もう一発。今度はもっと強く。口の中に鉄の味が広がった。それでも私は笑い続けた。

「兄さん、あなたは私を愛しているのでしょう」

「黙れ」

「でも、あなたはそれを認められない。だから私は肉畜になりたい。そうすれば、あなたの所有物になれる。あなたの手で管理され、あなたの手で殺される。それ以上の愛があるでしょうか」

兄の手が、私の喉元に触れた。指が、首輪のバックルを弄る。外そうとしているのか、それとも締めようとしているのか。私は目を閉じた。

「お前は狂っている」

「ええ、狂っています。兄さんを愛するあまり、狂ってしまったのです」

兄の指の動きが止まった。沈黙が流れる。時計の秒針の音だけが、部屋に響いていた。

「……なぜ、そこまでする」

兄の声は、さっきまでよりずっと小さく、かすれていた。私は目を開け、兄の顔を見上げた。その目には、怒りとは別の光が宿っていた。憐れみか、それとも理解か。どちらでもよかった。

「あなたに、永遠に覚えていてほしいからです」

私はそう言って、再び微笑んだ。兄はしばらく私を見下ろしていたが、やがてゆっくりと、ナイフをまな板の脇に置いた。

「今日はもう、やめておく」

兄は背を向け、居間を出て行こうとした。私は慌ててその背中に叫んだ。

「待ってください! なぜ屠らないのですか!」

「お前を殺すのは、まだ早い」

兄は振り返らずに言った。

「お前は、まだ俺を苦しめることができる。その権利を、お前にやる」

その言葉の意味を、私は理解できなかった。兄の足音は遠ざかり、やがて玄関のドアが閉まる音がした。一人残された私は、まな板の上で大の字になりながら、天井を見上げた。

「……まだ、足りないのか」

私の歪んだ愛は、まだ兄に届いていない。ならばもっと、もっと深く、自分を堕とさなければならない。次こそは、兄の手で終わらせてもらう。その決意を胸に、私はゆっくりと体を起こした。まな板の上に、私の血が一筋、赤く染みを作っていた。