# 第一章 暗流のうごめき
双帝の戦いの終結から、すでに三年の月日が流れていた。
中州の空は晴れ渡り、陽光は大地を優しく包み込んでいる。かつて天地を揺るがした戦いの傷跡も、今は草木に覆われ、新たな息吹が満ちていた。
萧炎は別荘の庭園に座り、手にした茶杯から立ち上る湯気を眺めながら、深い安堵の息を吐いた。あの壮絶な戦いから、ようやく平和な日々が訪れたのだ。彼の隣では、萧薰儿が優しい微笑みを浮かべ、彼の肩に寄り添っている。
「炎兄さま、何を考えていらっしゃるのですか?」
「いや……ただ、この平和が夢のように思えてな」
萧炎はそう言いながら、薰儿の手をそっと握った。彼女の温もりが、確かに現実であることを教えてくれる。
「ふん、おめおめと休んでいられるのも今のうちだぞ!」
突然、庭の入り口から紫妍の元気な声が響いた。彼女は両手に大きな果実を抱え、口元を果汁で濡らしながら駆け寄ってくる。
「紫妍、またどこから果物を盗ってきたんだ?」
「盗んでなんかない!これは……これは俺の宝物だ!」
紫妍はむっとして頬を膨らませるが、すぐに笑顔に変わり、薰儿の膝の上に飛び乗った。
「まあ、紫妍はいつも元気ね」
薰儿は優しく彼女の髪を撫でる。その光景は、まさに家族団欒の絵そのものだった。
その頃、別荘の厨房では、小医仙が薬草を選別しながら、心の中で何かを考え込んでいた。彼女の指は無意識に薬草を弄び、その目には微かな不安の色が漂っている。
「小医仙、どうしたんだ?元気がないようだが」
萧炎が厨房の入り口から声をかけると、彼女は慌てて笑顔を作った。
「な、なんでもないわ。ただ、新しい薬草の調合方法を考えていただけ」
「そうか……無理をするなよ」
萧炎はそう言い残して立ち去る。彼が去った後、小医仙は深いため息をついた。なぜだろう。最近、胸の奥がざわついて仕方ないのだ。
一方、別荘から遠く離れた山間の隠れ里で、一人の男が闇の中で冷ややかな笑みを浮かべていた。
「へへ……萧炎、お前の平和も今日までだ」
魂风。魂族の生き残りである彼は、長い潜伏期間を経て、今まさに復讐の幕を開けようとしている。彼の手には、几帳面にまとめられた情報書類があった。
「小医仙、纳兰嫣然、云韵、紫妍、萧薰儿、彩鳞……全ての女の弱点を書き出せ。それぞれに合った毒を盛ってやろう」
彼の背後には、数人の影のような存在がひざまずいている。魂族の残存勢力だ。
「お前たちは、それぞれ標的の動向を監視し、隙あらば接触しろ。特に小医仙は薬草集めによく出かける。そこが最初の獲物だ」
魂风の言葉に、影たちは無言で頷き、闇に消えた。
翌日、小医仙はいつものように深山へ薬草採りに出かけた。彼女は萧炎のために新しい解毒薬を開発しようと、珍しい薬草を探していた。崖を登り、渓流を渡り、彼女は奥地へと進んでいく。
その時、突然崩れた岩肌から彼女が足を滑らせた。
「きゃっ!」
彼女の体が宙に浮く。下には深い谷。絶体絶命のその瞬間、一つの影が素早く動き、彼女を抱きとめた。
「大丈夫ですか?」
優しい男性の声。小医仙が目を開けると、そこには見知らぬ若者が立っていた。端正な顔立ちに、温かな微笑み。だが、その瞳の奥には何か計り知れない深淵が潜んでいるように感じられた。
「あ、ありがとうございます……」
小医仙は慌てて彼の腕から離れ、頬を赤らめた。
「私は魂風。旅の医者です。こんな奥地で何をされているのですか?」
「私は薬草を探していて……あなたこそ、どうしてここに?」
「私は珍しい薬草を求めて旅をしているんです。この山には貴重なものが多いと聞いて」
魂風はそう言いながら、腰から水筒を取り出し、小医仙に差し出した。
「喉が渇いているでしょう。どうぞ」
小医仙は一瞬ためらったが、彼の誠実そうな笑顔に押され、受け取った。水はひんやりとして美味しかった。
「最近、悩み事でもあるんですか?薬草を探すあなたの目は、どこか悲しげでしたよ」
魂風の言葉に、小医仙は驚いた。見知らぬ相手に、どうして自分の心の内がわかるのか。
「そんなこと……」
「私は医者です。人の心の病も診るのが仕事です。もしよければ、話してみませんか?」
優しい口調に、小医仙の心の防壁が少しずつ崩れていく。彼女はなぜか、この初対面の男に心を開いてしまいそうになる自分がいた。
その夜、纳兰嫣然は雲嵐宗の修練場で一人、剣を振っていた。月光が彼女の美貌を照らし出すが、その表情は険しい。
かつて萧炎に婚約を破棄された屈辱が、彼女の心に深く刻まれている。彼が双帝の戦いで英雄となった今、その屈辱はさらに耐え難いものとなっていた。
「奴が英雄だなんて……ふざけるな!」
彼女の剣が空を裂く音が、夜の静けさを切り裂く。
その時、一羽の黒い鳥が彼女の足元に舞い降りた。鳥の足には小さな手紙が結ばれている。
纳兰嫣然は怪訝に思いながらも、手紙を広げた。中の文字は流麗でありながら、毒を帯びた筆致で書かれている。
『纳兰嫣然殿
覚えておいでか?あの日、萧炎に婚約を破棄された屈辱を。彼は今、幸福な日々を送っているというのに、あなたの傷は癒えていないのではないか?
私はその傷を癒す手段を知っている。もし興味があれば、明日の真夜中、山頂の古木の下へ。あなたの復讐を手伝おう。
— 志を同じくする者より』
手紙を読んだ纳兰嫣然の手が震えた。怒りか、あるいは歓喜か。彼女の唇には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
「萧炎……お前の幸せも、長くはないぞ」
彼女は手紙を握り潰すと、夜空を見上げて低く嗤った。
その頃、遠くの別荘では、萧炎が何も知らずに安らかな眠りについていた。彼の枕元では、薰儿が優しい眼差しで彼の寝顔を見つめている。
「炎兄さま……あなたを守ってみせます。何があっても」
彼女の呟きは、夜風に消えていった。
しかし、彼女も知らなかった。暗闇の中でうごめく陰謀の糸が、少しずつ彼らの運命を絡め取っていくことを。