# 深淵の約束
## 第一章 突然の事故
十二月の土曜日、澄み切った冬空の下、林悦は夫の陈泽と共に郊外へ向かっていた。結婚三周年を記念して、二人は以前から行きたがっていた温泉旅館に一泊旅行を計画していたのだ。
「今度のボーナス、結構良さそうなんだ。もっと良い宿にすればよかったかな」
陈泽はハンドルを握りながら、優しい眼差しを妻に向けた。
「そんなこと言わないで。私が選んだところよ、口コミも良かったし」
林悦は助手席でスマートフォンの地図を確認しながら、嬉しそうに笑った。彼女の長い黒髪は窓から入る風に揺れ、清潔な白いニットが穏やかな幸福感を漂わせていた。
「悦ちゃんがそう言うなら、きっといいところなんだろうな」
陈泽は右手を伸ばし、妻の手を優しく握った。指輪の感触が互いに伝わる。結婚して三年、初めて出会った頃と変わらず、彼女への愛情は深まるばかりだった。
「運転に集中してよ」
林悦はそう言いながらも、夫の手を握り返した。窓の外には田園風景が広がり、遠くの山々はうっすらと雪化粧している。ラジオからは穏やかなジャズが流れ、車内は至福の空気に包まれていた。
「そういえば、来月、会社の新年会があるんだ。悦ちゃんも来られる?」
「うん、大丈夫だと思う。その日は確か土曜日だし」
「よかった。部長も君に会いたがってたよ」
「またそんなこと言って……」
会話は途切れることなく続いた。高速道路を降り、一般道に入ったところで信号が赤に変わった。陈泽はブレーキを踏み、軽くため息をついた。
「もうすぐだよ。あと十分くらい」
「楽しみだね」
林悦はそう言いながら、車窓越しに見える小さな川に目をやった。水は澄んでいて、冬の日差しを受けてきらきらと輝いている。
信号が青に変わり、陈泽がアクセルを踏む。交差点を通過しようとした瞬間——。
轟音が世界を裂いた。
林悦の認識はそこで途切れた。彼女が次に気づいた時、世界は逆さまになっていた。車が横転し、彼女はシートベルトで吊り下げられた状態だった。耳鳴りが止まらず、頭の中が真っ白になっている。頬に温かいものが伝わる。血だ。
「……沢……陈沢……?」
声が出ない。喉が締め付けられている。必死に顔を動かすと、運転席の陈泽が意識を失い、シートに深く沈み込んでいるのが見えた。彼の顔は血に染まり、白いワイシャツが赤く変色している。
「助けて——!誰か——!」
林悦の悲鳴が冬空に響いた。
救急車のサイレンが近づいてくる。人が集まり、誰かが車のドアをこじ開けている。すべてがスローモーションのように感じられながら、同時にあまりにも速く流れていく。
気がつくと、林悦は病院の待合室にいた。額の傷は消毒され、包帯が巻かれている。軽い脳震盪と打撲、数箇所の裂傷——医者はそう説明した。奇跡的な軽傷で済んだのだと。
しかし、陈泽は違った。
「急性硬膜下血腫、多発性肋骨骨折、脾臓損傷……すぐに手術が必要です」
担当医の声が、遠くから聞こえるようだった。
「費用は?」
林悦の声は震えていた。
「緊急手術で、おおよそ六十万から七十万円ほどかかります。保険の適用範囲を超える部分もありますので……」
六、七十万——。
林悦の頭の中で、その数字が何度も反響した。貯金は三十万ほどしかない。家のローン、車のローン、生活費……すべて計算しても、到底足りない。
「先生、分割での支払いは……」
「申し訳ありませんが、緊急手術ですので、まずは前金として五十万をお支払いいただく必要があります。残りは後日でも結構ですが……」
医者の言葉が耳を通り抜けていく。林悦は震える手で携帯電話を取り出し、両親に連絡しようとした。しかし、田舎に住む年老いた両親には、とても頼める金額ではない。彼女の友人たちも、結婚してから疎遠になっている。
病室の前に一人で立ち、林悦は泣き崩れた。涙が止まらない。冷たい床に座り込み、両手で顔を覆った。
「どうすれば……どうすればいいの……」
看護師が通りかかり、彼女を起こそうとした。「奥さん、しっかりしてください。旦那さんは今、懸命に治療しています。あなたが倒れてはいけません」
林悦は頷き、どうにか立ち上がった。鏡に映る自分の顔——腫れた目、乱れた髪、額の包帯が痛々しい。陳沢のために、私は強くならなければならない。彼を救うためなら、どんなことでもする。
その夜、林悦は病院のソファでうつらうつらと過ごした。悪夢と現実の間を行ったり来たりしながら、彼女の心は次第に決意に変わっていった。
月曜日、林悦は早朝から病院のベッドで目を覚ました。陈泽はまだ集中治療室にいる。意識は戻らず、医者は予断を許さないと言っていた。
彼女は携帯電話を取り出し、求人サイトをチェックし始めた。今の仕事はパートの事務員で、月収は二十万円にも満たない。こんな収入では、医療費の足しにもならない。もっと高給の仕事が必要だ。
しかし、彼女の履歴書は華やかなものではなかった。大学を卒業後、小さな会社で一般事務を三年間。特別なスキルも、高度な資格もない。英語すらあまり得意ではない。どうやって高給の仕事を見つければいいのか——。
求人サイトをスクロールしながら、林悦の指は次第に震え始めた。どの求人も、彼女には手の届かないものばかりだ。管理職、専門職、技術職……どれも三年以上の経験が必要で、特別な知識が求められる。
「こんなの……こんなの無理よ……」
絶望が彼女の心を蝕んでいく。それでも、諦めるわけにはいかない。陈泽の手術費用は待ってくれないのだ。
不意に、一つの求人広告が目に飛び込んできた。
【星輝グループ 行政秘書 急募】
給与:月給80万円以上(能力に応じて応相談)
勤務時間:週5日、9時〜18時
福利厚生:各種保険完備、賞与年2回、交通費全額支給
条件:
・年齢22〜35歳の女性
・基本的なPC操作スキル
・真面目で責任感のある方
*経験不問、未経験者歓迎
林悦の心臓が大きく跳ねた。月給八十万円——これなら陳沢の医療費を賄える。それに条件も緩い。未経験者歓迎というのも、彼女にとっては追い風だ。
しかし、なぜこれほど高給で条件が緩いのか。疑念が頭をよぎる。まともな会社なのだろうか——。
彼女は調べてみた。星輝グループは、都心に本社を構える大手企業で、不動産開発やエンターテイメント事業を手掛けているらしい。ホームページには、立派なビルの写真と、社長の赵擎という男性の写真が掲載されていた。四十代半ばだろうか、がっしりとした体格で、鋭い目つきの男性だ。成功した企業家、という雰囲気だった。
それでも不安は残る。しかし、彼女には選択肢がなかった。病院の支払いは待ってくれない。陳沢の命がかかっている。
震える指で、林悦は応募ボタンを押した。
数時間後、携帯電話が鳴った。見知らぬ番号だ。
「もしもし、星輝グループの人事部です。林悦様ですね? 面接のご案内をさせていただきます。明日の午前十時、本社までお越しいただけますか?」
林悦は驚いた。応募してからまだ数時間しか経っていないのに、すぐに連絡が来たのだ。
「はい、明日の十時ですね。伺います」
「それでは、控え室でお待ちください。社長自ら面接を担当されますので、時間厳守でお願いします」
社長自ら——。その言葉に、林悦はまた不安を覚えた。しかし、もう後戻りはできない。
翌朝、林悦は持っている中で最もフォーマルなスーツを着て、星輝グループの本社ビルに足を運んだ。ガラス張りの高層ビルは、周囲の建物よりも頭一つ抜けて高く、その威容に圧倒される。入り口には厳重なセキュリティゲートがあり、守衛が林悦を不審そうに見つめた。
「面接に来ました林悦です」
「確認します。少々お待ちください」
守衛が電話で確認を取り、彼女を通した。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。三十五階。エレベーターが上昇するにつれて、耳の奥が詰まるような感覚がした。
ドアが開き、そこは豪華な受付ロビーだった。大理石の床、クリスタルのシャンデリア、高級そうなソファ。受付の女性はモデルのように美しく、完璧な笑顔を浮かべている。
「林悦様ですね。社長室へご案内します」
彼女に案内され、重厚な木のドアの前に到着する。受付の女性がノックをし、中から「入れ」という低い声が聞こえた。
ドアが開かれる。そこには巨大な執務室が広がっていた。床一面の絨毯、壁一面の書棚、そして部屋の中央には、一枚の巨大なデスク。その向こうに、写真で見た男——赵擎が座っていた。
「おかけください」
赵擎の声は低く、落ち着いている。彼は黒いスーツを身にまとい、細身だががっしりとした体格をしている。髪は後ろに撫でつけられ、鋭い目つきが異様な圧迫感を放っていた。
林悦はおずおずとソファに腰かけた。赵擎は彼女をじっくりと観察するように見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「林さん、あなたの履歴書を拝見しました。事務経験が三年ほどあるのですね」
「はい、小さな会社ですが……」
「結構です。当社は経験よりも人柄を重視します。特に、秘書業務においては、見た目と対応が重要ですから」
赵擎の目が、林悦の全身を舐めるように動いた。その視線に、彼女は背筋が冷たくなるのを感じたが、逃げ出すわけにはいかない。
「立ち上がっていただけますか?」
林悦は言われた通りに立ち上がる。
「少し歩いてみてください」
彼女は緊張しながら、部屋の中を数歩歩いた。
赵擎は満足げに頷いた。
「結構です。あなたの見た目、立ち振る舞い、すべてが申し分ありません。採用します」
あまりに簡単な決定に、林悦は逆に不安を覚えた。
「あの……面接はこれで……?」
「十分です。当社に必要な人材だということが分かりました。明日から勤務可能ですか?」
「はい、もちろんです」
林悦の声が弾む。これで医療費が払える。
「では、契約書にサインをお願いします」
赵擎はデスクの引き出しから一枚の書類を取り出し、彼女に差し出した。
林悦は書類に目を通した。給与、勤務時間、福利厚生——すべて先日見た条件と一致している。ただ、最後の方に気になる一文があった。
「会社指定の研修に無条件で従うこと」
「これは……どんな研修ですか?」
「主にビジネスマナーや、秘書としての心得です。当社は独自の研修システムを持っており、新人には必ず受けていただきます。もちろん、一切の費用は会社が負担します」
その言葉に、林悦は少し安心した。新入社員研修なら、どの会社でもあるものだ。
「それに、これは研修というより、あなたの成長のためのプログラムです」
赵擎は微笑んだ。その笑顔は、一見すれば温かく見えるが、どこか不気味さをはらんでいた。
「分かりました」
林悦は書類にサインをした。高給に狂喜し、細かい条項を軽く見ていた。彼女は気づかなかった——その研修が、彼女の人生を根本から変えてしまうものだということを。
「ようこそ、星輝グループへ」
赵擎の手が差し出された。林悦はその手を握る。その手は冷たく、まるで爬虫類のような感触だった。
「これからよろしくお願いします」
彼女の声は、期待と不安で震えていた。
「ああ、期待しているよ」
赵擎の目が、獲物を狙う肉食獣のように光った。
その夜、林悦は病院で面接の結果を報告した。もちろん、陈泽はまだ意識がない。彼女は彼の手を握り、囁いた。
「陳沢、あなたを絶対に助けるから。私、ちゃんと仕事を見つけたよ。だから早く元気になってね……」
彼女の涙が、白いシーツに落ちた。
彼女はまだ知らなかった。この決断が、自分自身を深淵へと突き落とすことになるなんて。どんな代償を払うことになるのか、全く想像もしていなかった。
翌朝、林悦は星輝グループのオフィスに出社した。受付で名前を告げると、すぐに人事部の女性が現れた。
「林さん、こちらへどうぞ」
案内されたのは、地下二階にある小部屋だった。窓のない無機質な空間で、中央には簡素な机といすがあるだけだ。
「研修はこちらで行います。初日は、まず当社のルールや心得を学んでいただきます」
女性はそう言って、分厚いマニュアルを机の上に置いた。表紙には「星輝グループ研修要項」と書かれている。
「研修期間はどのくらいですか?」
「個人の進度によりますが、おおよそ一ヶ月から三ヶ月です」
「そんなに長いんですか?」
「しっかりと基礎を身につけていただくためです。給与は研修中も全額支給されます」
その言葉に、林悦は少し安心した。医療費のことを考えると、給与が途絶えるのは致命的だ。
「では、私はこれで失礼します。何か質問があれば、内線で呼んでください」
女性はそう言って部屋を出ていった。
林悦はマニュアルを開いた。最初のページには、「社員の心得」と書かれている。当たり前のことが並んでいるように見えた。時間厳守、服装規定、上司への絶対服従——。
しかし、ページをめくるうちに、彼女の顔色は変わっていった。
「第12条:研修中は、研修生専用の住居施設に居住すること」
「第13条:外部との連絡は、許可がある場合のみ可能とする」
「第14条:研修内容は、外部に漏洩してはならない。違反した場合は、契約違反として損害賠償を請求する」
これは……普通の研修ではない。
林悦の手が震えた。この会社は、何をさせようとしているのか。
彼女が立ち上がろうとしたその時、ドアが開いた。赵擎が立っていた。
「林さん、何か問題でも?」
「この研修の内容ですが……外部との接触を禁じるとは、どういうことですか?」
「ああ、それはね」
赵擎はゆっくりと部屋に入ってきた。
「当社の研修は、少々特殊なんです。社外に知られては困る技術や知識を教えますからね。そのため、一時的に外部との接触を制限する必要があるんです」
「ですが、主人が入院しているんです。連絡が取れなければ——」
「それはご安心ください。病院には当社から連絡を入れます。ご主人の治療費も、当社が立て替えます」
「立て替える?」
「ええ。研修が終わった後、給与から少しずつ天引きします。もちろん、あなたの同意があってのことですが」
林悦は混乱した。確かに医療費の問題は解決する。しかし、この状況はあまりにも異常だ。
「少し……考える時間をいただけませんか?」
「時間がありませんよ。ご主人の手術は、明日にでも行わなければならないそうです。あなたがここで迷っている間に、彼の容態は悪化するかもしれません」
その言葉は、林悦の心臓を貫いた。
「わ、分かりました……」
彼女は力なく頷いた。もう、引き返せない。
「よろしい。では、さっそく研修を始めましょう」
赵擎の目が、冷たく光った。
この瞬間から、林悦の地獄の日々が始まった。
初日は、ひたすら座って講義を受けるだけだった。内容は、星輝グループの歴史や理念、そして社員としての心構え。しかし、終盤になると、少し奇妙な話が混ざり始めた。
「社員は、会社に対して絶対の忠誠を誓わなければならない」
「自己犠牲こそが、最高の美徳である」
「欲望に打ち勝つことで、真の自由を得ることができる」
講師は若い女性で、不自然なほど美しかった。彼女の目は虚ろで、まるで人形のようだった。
「次に、リラクゼーションの時間です。目を閉じて、私の声に耳を傾けてください——」
催眠——。
林悦の頭に警鐘が鳴った。彼女は必死に意識を保とうとした。しかし、疲れ切った精神は、次第にその声に引き込まれていく。
「あなたは、会社のために尽くしたい」
「あなたは、趙社長に従いたい」
「それが、あなたの幸せなのだ——」
声が頭の中に響き渡る。抗おうとすればするほど、深みにはまっていく。
「ああ……ああっ……」
林悦の体が震え始めた。自分が変わっていくのを感じる。抵抗したいのに、どこかでその言葉に従いたいと思っている自分がいる。
「さあ、目を覚ましてください」
林悦はぎこちなく目を開けた。頭がぼんやりとしている。何が起こったのか、よく思い出せない。
「研修は続きます。今日はこれで終わりです。お疲れ様でした」
講師は無表情でそう言うと、部屋を出ていった。
林悦は一人、部屋に残された。壁の時計は、すでに夜の九時を指している。彼女は携帯電話を取り出し、病院に連絡しようとした。しかし、画面には「圏外」の文字。
この部屋には、電波が通っていないのだ。
「そんな……」
彼女は机に突っ伏した。涙が止まらない。もう戻れない。自分は、何か恐ろしい場所に足を踏み入れてしまった。
しかし、その思いとは裏腹に、頭の中では別の声が響いていた。
——大丈夫、大丈夫。あなたは正しい選択をした——。
その声は、さっきの催眠の残響だった。
林悦はゆっくりと顔を上げた。目は、どこか虚ろだった。
「そう……大丈夫……私、ちゃんとやってる……」
彼女はそう呟き、立ち上がった。足取りは、ぎこちなく歩き慣れない道を進むように、不安定だった。
深淵は、ゆっくりと彼女を飲み込もうとしていた。