黄昏の光が海面に溶け、金色の波紋が果てしなく広がっていた。汽笛が低く響き、船はゆっくりと桟橋に接岸する。莫雨は甲板に立ち、黒いスカートの裾を潮風が揺らす。眼鏡の奥の瞳は冷静そのものだが、その内側で何かが蠢いているのを彼女自身が感じていた。
島主からの招待状は、一週間前、研究室の机に届いた。上質な和紙に墨で書かれた文面には、彼女が最高賓客として迎えられる旨と、島主と同等の権限が約束されていた。しかし身分は秘匿される——その一文が、莫雨の胸に奇妙な疼きを残した。
桟橋には二人の男が立っていた。一人は白いスーツを着た四十代の男、もう一人は黒い制服に身を固めた若い守衛だ。男は深々とお辞儀をし、「莫雨様、ようこそお越しくださいました。島主が心よりお待ちしております」と言った。口調は恭しいが、その目は彼女の全身を値踏みするように滑る。
莫雨は何事もないようにうなずき、船から降りた。足を踏み入れた瞬間、潮の匂いとは別に、甘ったるい花香と、かすかに鉄のような匂いが混ざるのを感じた。それがこの島の空気だと直感した。
島は思いのほか広く、手入れの行き届いた庭園が続いていた。石畳の道の両側には白い塀が立ち、その向こうから微かな物音が聞こえる。男が案内してくれた館は、洋風ながらも和の趣を取り入れた造りで、中に入ると磨き込まれた床が鏡のように光っていた。
「お部屋はこちらです。ご希望があれば何なりとお申し付けください」男がそう言って頭を下げる。莫雨は窓辺に立ち、遠くに見える低い建物群を指さした。「あれは何だ?」「奴隷の宿舎でございます」男の声は平坦だったが、その言葉が莫雨の心臓を一瞬だけ速くした。
「研究の都合上、あの近くに滞在したい」彼女は平静を装って言った。「船で運んできた機材がある。奴隷たちの生態観察が目的だ」男は一瞬ためらったが、すぐに答えた。「かしこまりました。手配いたします」
部屋に一人になった莫雨は、クローゼットの鏡の前に立った。映る自分は秀才科学者の顔そのものだ。しかし、襟元を指でなぞると、肌の下で別の自分が息を潜めて待っているのを感じる。奴隷として身を落とす自分——想像するだけで太腿が震えた。「まだだ」自分に言い聞かせ、眼鏡を押し上げた。
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日が傾き始めたころ、莫雨は一人で散歩に出た。石畳の道は宿舎方面へと続いている。しばらく歩くと、背の高い鉄柵に行き当たった。その向こうには白い建物が並び、ところどころに監視塔が立っている。奴隷の居住区だ。
彼女が柵に沿って歩いていると、突然、鋭い悲鳴と金属音が響いた。「離せ!お願いだ!」女の声だ。声のした方へ急ぐと、柵の切れ目から中に入れる場所があった。隙間から身を滑り込ませると、広場のような空間に出た。
そこには、二人の警備員に押さえつけられた若い女がいた。細身で、粗末な麻の衣服をまとっている。髪は乱れ、顔には生傷があった。彼女はもがき、警備員の腕から逃れようと必死だ。しかし、首に取り付けられた金属製の首輪が赤く光ると、女は体を痙攣させ、地面に崩れた。
「小薇、お前は何度目だ。逃げられると思うな」警備員の一人が冷酷に言い放ち、鞭のようなものを振り上げた。女——小薇は歯を食いしばり、目に涙を浮かべながらも、その眼差しには抗う意志が宿っていた。
「やめなさい」莫雨が声をかけた。警備員たちが驚いて振り返る。彼女はゆっくりと近づき、胸元のバッジを示した。それは島主から贈られた証だ。「私は莫雨。島主からここを視察するよう命じられている。その女奴隷は私が預かる」
警備員たちは顔を見合わせたが、バッジの威光に逆らえず、舌打ちをしてその場を去った。小薇は地面に伏したまま、呼吸を整えている。莫雨はしゃがみ込み、彼女の顔を�き込んだ。「大丈夫か?」
小薇は顔を上げ、鋭い目で莫雨を見つめた。その瞳には、恐怖よりもむしろ観察するような冷静さがあった。「あなたは……学者博士だな。俺たちを研究しに来たのか」口調はかすれていたが、歯に衣着せぬものだった。
「そうだ」莫雨は簡潔に答えた。「お前の名前は小薇と言うのか」「ああ。そしてお前は莫雨。島主の客人だな」小薇はゆっくりと体を起こし、「俺が言えるのは、ここが本当に地獄だということだけだ。だが、お前は俺を助けた。だから警告する——ここに興味を持つな。お前まで地獄に引きずり込まれるぞ」そう言って、彼女は背を向け、跛を引きながら建物の陰へ消えていった。
莫雨は立ち上がり、夕闇に沈みゆく島を見渡した。潮風が髪を撫で、その先で海が暗く澱んでいる。彼女は眼鏡を外し、一瞬、唇の端に自嘲の微笑みを浮かべた。「地獄か……それも悪くない」呟きは風に消えた。
島の闇が迫る中、莫雨の心は欲望の渦に飲み込まれ始めていた。理性が警鐘を鳴らすが、その声はもうかすかだ。彼女は自らの選択が何を意味するのか、もはや確かめようとはしなかった。ただ、潮の満ちるのを待つように、胸の奥で何かが膨れ上がるのを感じていた。