# 第10章
朱蓬春は長い間、小龙女に会っていなかった。あの日以来、彼女は修行に専念すると言って、姿を消していたのだ。宿の仕事も手伝わず、どこで何をしているのかもわからない。心配になった朱蓬春は、通信法球を取り出し、小龙女に連絡を入れることにした。
法球に法力を通すと、ぼんやりと光が宿った。やがて向こう側の気配が繋がる。しかし、聞こえてきたのは小龙女の声だけではなかった。
「あっ……んっ……はぁ……!」
明らかに喘ぎ声だ。しかも、どこか切迫した、苦しそうな息遣い。朱蓬春は眉をひそめた。
「小龙女? どうしたんだ、その声は?」
しばらく間があった。ごほん、と咳ばらいをしてから、小龙女の声が返ってくる。
「あ……朱蓬春? いや、その……修行の最中なのよ。ちょうど体内の妖気を巡らせているところでね。ちょっと息が上がっているだけ」
「修行? そんなに苦しそうな修行なのか?」
「もちろんよ。高レベルの功法はね、息を整えるのが難しいの。大丈夫、問題ないわ」
朱蓬春は得心したように頷いた。小龙女は確かに真面目に修行に励んでいる。あの喘ぎ声も、よほど激しく体内の気を巡らせている証拠だろう。彼は疑うことなく、話題を変えた。
「そうか……最近、宿にも顔を出さないから、心配していたんだ。元気そうで何よりだ」
「ええ、心配かけてごめんね。でも、今は修行に集中したいの。あなたも頑張って宿を守ってね」
そう言いながらも、小龙女の声は時折途切れ途切れになった。そして、背後から何かが激しくぶつかる音が聞こえる。朱蓬春が首をかしげた、その時だった。
「ああっ! もうダメ……っ!」
突然、小龙女の声が裏返った。すぐに慌てた様子で付け加える。
「あ、違うの! ちょっと飼っている魔獣が暴れ出して! 檻を壊しそうなの! ごめん、一旦切るわ!」
「魔獣? お前、そんなもの飼っているのか?」
「うん……修行の役に立つから……じゃあ、また!」
通信が一方的に切れた。朱蓬春は法球を手に、呆然とつぶやく。
「魔獣……そんなに凶暴なのか。しかし、小龙女も大変だな」
彼は深く考えず、法球をしまい込んだ。今は宿のことを考えなければならない。小龙女がいなくなってから、妙妙と二人で何とか切り盛りしている。客足も以前より落ちているが、それでも細々と営業を続けていた。
その様子を、宿の片隅から妙妙が見つめていた。彼女の目には、朱蓬春の心配そうな横顔が映っている。小龙女がいなくなってから、朱蓬春はどこか寂しげだった。妙妙は心の中で固く誓った。
(小龙女がいなくても……私はずっと朱先生のそばにいる。絶対に)
この思いは、日を追うごとに強くなっていた。もともと朱蓬春には世話になっている。今度は自分が彼を支える番だ。妙妙は拳を握りしめ、決意を新たにした。
その時、一陣の風と共に一匹の猫妖が宿の中に飛び込んできた。妙妙の部下の一人だ。猫妖は息を切らせながら、妙妙の耳元で何かをささやく。妙妙の表情が一変した。
「何ですって? 獅子獣王が?」
「はい、お頭。老衰でお亡くなりになりました。今、妖怪動物城は大騒ぎです。新しい獣王を選ぶための武術大会が開かれるそうです」
妙妙は目を細めた。猫妖の首領として、彼女の武力は高い。かつては獣王の座も狙えると言われていた。その血が騒ぎ始めるのを感じた。
「面白い……獣王の座か」
朱蓬春が会話を聞きつけて近づいてきた。
「どうしたんだ、妙妙?」
「朱先生、聞いてください。妖怪動物城の獅子獣王が死にました。新しい獣王を決める武術大会が開かれるそうです」
「ほう、それは面白そうだな。お前、出るのか?」
「はい。猫妖の首領として、この機会を逃すわけにはいきません。獣王の座、狙ってみようと思います」
朱蓬春は顎に手を当て、考え込んだ。そして、にやりと笑った。
「いいだろう。俺も見物がてら一緒に行ってやる。宿は一時的に閉めよう。妙妙の晴れ舞台、見逃せないからな」
「朱先生! ありがとうございます!」
妙妙の顔がぱっと輝いた。二人はすぐに支度を整え、妖怪動物城へと向かった。
妖怪動物城は、様々な動物の妖怪たちが集まる巨大な都市だった。街に入ると、そこはまさに異種族のるつぼだった。虎妖、馬妖、兎妖、蛇妖、そして鳥妖まで、数え切れないほどの妖怪たちが行き交っている。みな、今年の獣王選抜武術大会を見物するために集まってきていた。街の中央には巨大な擂台が組まれ、その周りは熱気に包まれている。
妙妙はすぐに参加登録に向かった。朱蓬春は一人で街を散策することにする。人間の姿の彼は、妖怪たちの間では目立っていたが、特に問題は起きなかった。
しばらく歩いていると、前方で騒ぎが起きているのに気づいた。人だかりができている。朱蓬春が近づいてみると、そこでは一匹の鼠妖が二体の巨大な妖怪と対峙していた。水牛妖と犀妖だ。どちらも立派な体格で、筋肉が盛り上がっている。
しかし、鼠妖は全くひるんでいなかった。体長はせいぜい150センチほどの小柄な体つきだが、その体はよく鍛えられ、筋肉質だった。小麦色に焼けた肌は健康的で、細いながらも締まった体つきをしている。鋭い目つきには闘志が満ちあふれ、短い黒髪は乱れて逆立っていた。
「てめえら、さっきから何を騒いでるんだ!」
鼠妖が叫ぶ。水牛妖が低い声で答えた。
「小せえネズミが、でかい顔して歩いてんじゃねえよ。こっちは通ろうとしてるんだ」
「はっ、この道はお前のものじゃない。通れと言われて通る筋合いはない!」
「生意気な!」
水牛妖が角を下げて突進してきた。しかし、鼠妖はひらりと身をかわすと、水牛妖の脇腹に強烈な拳を叩き込んだ。ドン、という鈍い音と共に、水牛妖がよろめく。それに驚いた犀妖が割って入ろうとしたが、鼠妖は逆に跳び上がって犀妖の顔面に蹴りを入れた。二匹はあっという間に地面に倒れ伏した。
鼠妖が仁王立ちになって叫ぶ。
「まだやるか?」
水牛妖と犀妖は顔を見合わせると、慌てて這うように逃げ去った。周りの妖怪たちがどよめく。朱蓬春は感心して拍手を送った。
「見事な腕前だな」
鼠妖が振り返り、朱蓬春を見てにやりと笑った。
「おう、兄ちゃん、人間か? よく俺の戦いを見ていられたな」
「いや、ただ感心しただけだ。あの二匹を一瞬で倒すとは、大したものだ」
「ははは! 俺は李食米っていうんだ。鼠妖の中でも一段と強いって有名だぜ! さあ、気に入った。酒でもおごるから、話そうじゃないか」
李食米は気さくに朱蓬春の肩を叩いた。その手の力は意外に強く、朱蓬春は少し驚いた。彼は笑顔で応じた。
「ありがたくご馳走になるよ。俺は朱蓬春だ」
「朱蓬春? あの天蓬元帥の?」
「ああ、そうだ。天庭で天蓬元帥を務めていた」
李食米の目がまん丸になった。彼は朱蓬春をまじまじと見つめ、大声を上げる。
「うわあ! マジかよ! 兄貴はすごいなあ、天庭にまで上がったのか! 俺たち下界の妖怪からしたら、雲の上の存在だぜ!」
「大げさだな。今はただの一介の宿屋の主人だ」
「いやいや、それでもすごい! よし、今日は兄貴と酒を飲めるなんて、俺の人生最大の幸運だ!」
李食米は朱蓬春を連れて、近くの酒場に飛び込んだ。酒が並び、杯を交わすうちに、二人はすっかり意気投合した。李食米の豪快な性格と朱蓬春の鷹揚な人柄が、不思議と合ったのだ。
「いいだろう、李食米。お前のような気のいい奴と出会えて、俺も嬉しい」
「兄貴! 俺もだ! こうなったら、兄弟の契りを結ぼうじゃないか!」
「兄弟の契り? お前がそれでいいなら」
「もちろんいい! 兄貴は神仙で、俺は下界の小妖怪だけど、そんなの関係ない! 兄貴がいてくれて、俺は心強い!」
李食米が杯を高く掲げた。朱蓬春も笑って杯を合わせる。二人は盃を交わし、固い握手を交わした。
「よし、じゃあこれからよろしくな、弟よ」
「ありがとうございます、兄貴! 神仙の兄貴、これからも下界の小妖怪の俺をよろしく頼む!」
「もちろんいいぞ。何かあったら、いつでも頼れ」
酒を飲み終え、名残惜しそうに別れる。李食米は自分の用事があると言い、朱蓬春も妙妙のところへ戻らなければならなかった。二人は固い握手を交わし、再会を約束して別れた。
朱蓬春が妙妙のいる擂台の近くに戻ると、彼女はすでに参加登録を済ませていた。その表情は自信に満ち、目は獣王の座を見据えていた。
「朱先生、終わりました! 試合は二日後です。大擂台で獣王の座を争います」
「楽しみだな。頑張れよ、妙妙」
「はい! 絶対に勝ちます!」
妙妙の瞳には強い決意の光が宿っていた。朱蓬春はその姿を見て、心の中で彼女の健闘を祈った。妖怪動物城の夜風が、二人の間を吹き抜けていく。新たな獣王を決める武術大会は、いよいよ幕を開けようとしていた。