春光灿烂の午後、朱蓬春は八歳の命の瀬戸際に立たされていた。高熱にうなされる身体は、もはや自分のものとは思えず、布団の上で小さく震えるだけだった。祖母が薬草を煎じ、祖父が必死に神仏に祈る。しかし、その甲斐もなく、朱蓬春の息は次第に弱くなっていった。
その時、空の彼方から一道の白光が降り立った。現れたのは白い長衣をまとった老人、太白金星であった。彼は千里眼でこの村を見渡し、一人の少年が命の危機にあることを知ったのだ。金星は少年の顔を見つめ、やがて深く頷いた。
「これも縁じゃな」
そう言うと、彼は袖から一つの光る玉を取り出した。それは先日、凡世で成敗した猪妖の精華であった。本来なら天界に持ち帰り、浄化するはずのもの。しかし、金星はその玉を朱蓬春の胸に押し当てた。瞬間、光が少年の身体を包み込み、猪妖の力が人間の魂と融合していく。朱蓬春の身体が激しく痙攣し、やがて静かになった。熱は引き、呼吸は穏やかになった。
こうして朱蓬春は命を取り留めたが、半人半猪妖の存在として生まれ変わることとなった。しかし、幼い彼にはその変化が何を意味するのか、まだ理解できなかった。
それから二年が過ぎた。十歳になった朱蓬春は、村はずれの小川で遊ぶのが日課だった。ある日、彼は川辺で一人の少女が泣いているのを見つけた。少女は九歳くらいで、頭には小さな角のような飾りをつけていた。彼女の衣服は高価そうな絹でできており、どう見てもこの辺りの子供ではなかった。
「どうしたの?迷子になったの?」
朱蓬春が近づくと、少女は顔を上げた。彼女の瞳は一瞬で見開かれ、その奥で金色の光が走った。龍女・敖灵儿は、人の姿をした少年の中に、猪の妖気が渦巻いているのを感じ取ったのだ。
「来ないで!」
龍女は後ずさりし、震える声で叫んだ。彼女は龍宮で育ったため、妖怪の気配には敏感だった。しかし、朱蓬春はその反応に戸惑いながらも、優しく微笑んだ。
「怖がらないで。君、お腹空いてない?家で桃を持ってきてあげようか?」
そう言うと、彼は自らの服の端を裂いて、川の水を絞り、それを少女に差し出した。その純真な笑顔と、何の悪意もない仕草に、龍女の緊張は次第に解けていった。
「あなた…猪の気配がするけど、本当は悪い人じゃないの?」
「猪?何言ってるの?俺はただの朱蓬春だよ」
龍女はしばらく彼の顔を見つめた。確かに、妖気は感じられるが、それと同じくらい温かい人間の心が伝わってくる。彼女はようやく微笑み返した。
「私は敖灵儿。龍宮から逃げてきたの」
そうして二人の出会いは始まった。その後、龍女は朱蓬春の家の裏手にある竹林に隠れ、毎日のように彼と会うようになった。朱蓬春は村で採れた果物や、自分で作った簡単な釣竿を持ってきて、龍女と共に川辺で過ごした。
「蓬春、あなたって本当に不思議だね。人間なのに猪の力を持ってるし、優しいし」
「俺は俺だよ。猪だって人間だって関係ないさ」
ある日、龍女は自分の角を見せてくれた。「これが龍の証なの。でも、父王は私が龍になることを望んでるけど、私は人間とも友達になりたいの」
朱蓬春は彼女の角をそっと触った。硬くて冷たいその感触に、彼は不思議な親近感を覚えた。
「君は龍でも人間でも、俺にとっては大切な友達だよ」
そう言うと、龍女は嬉しそうに笑った。それから二人は川で魚を捕ったり、山で花を摘んだり、ただただ一緒に過ごす穏やかな日々が続いた。朱蓬春にとって、龍女は初めてできた本当の友達だった。龍女にとっても、朱蓬春は龍宮の堅苦しい生活から逃れた自由の象徴だった。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。一ヶ月後、村に甲冑を身につけた蝦兵蟹将たちが現れた。彼らは龍王の使いであり、行方不明になった龍女を探しに来たのだ。朱蓬春は龍女をかばおうとしたが、龍女は首を振った。
「蓬春、ありがとう。でも、私、もう帰らなきゃ。また絶対に会いに来るから」
龍女の目には涙が光っていた。朱蓬春も唇を噛みしめ、彼女の手を握った。蝦兵蟹将たちが龍女を連れ去ろうとした時、龍女は振り返って叫んだ。
「蓬春!絶対に忘れないよ!」
それきり、彼女は見えなくなった。朱蓬春はその場に立ち尽くし、川の流れを見つめていた。やがて、彼は拳を握りしめた。
「俺も…絶対に忘れない」
それから四年の歳月が流れた。朱蓬春は十四歳になり、少年から青年へと成長していた。しかし、彼の心にはいつも龍女の面影があった。村では彼の親切な性格から多くの人に愛されて育ったが、自分の中に潜む猪の力については誰にも話せずにいた。
ある日、村の裕福な家の宴に招かれた朱蓬春は、初めて酒を口にした。酒杯を傾けると、芳醇な香りが鼻を抜け、頭がぼんやりとし始めた。宴の席では、向かいに座った美しい娘が微笑みかけていた。朱蓬春は酔いに任せて、その娘に見とれてしまった。
その瞬間、彼の身体が激しく変化し始めた。顔からは突き出た鼻、耳は大きく伸び、全身に剛毛が生えていった。
「ぎゃあああ!」
宴の参加者たちは悲鳴を上げ、机をひっくり返して逃げ出した。朱蓬春は自分の両手を見た。そこには猪の蹄のような手があった。
「違う、僕は…!」
しかし、誰も彼の言葉を聞こうとはしなかった。村人たちは石を投げ、棒で追い立てた。彼は村はずれの森に逃げ込み、そこで震えながら一夜を過ごした。
翌日、村に戻ると、事態はさらに悪化していた。彼の祖父母は既に他界し、両親もいない。残された親戚たちは、彼が猪妖であることを理由に家屋敷を奪おうとしていた。
「あれはもう本当の朱蓬春じゃない!本物の蓬春はもう死んだんだ。これは猪妖が化けているだけだ!」
親戚の一人が村人たちに言い放った。朱蓬春は何も言い返せず、ただ静かに村を去るしかなかった。彼は幼い頃から過ごした家を振り返り、目に涙を浮かべながらも、背を向けて歩き出した。
数日後、彼は荒れ果てた破廟に辿り着いた。ぼろぼろの屋根からは雨漏りがし、蜘蛛の巣が張り巡らされている。彼はその隅で丸くなり、自分の運命を呪った。
「どうして…どうして俺はこんな姿なんだ…」
その時、廟の入り口に光が差し込んだ。姿を現したのは、あの日の太白金星だった。
「朱蓬春よ、泣くでない。お前は確かに猪妖の力を持っておるが、心の半分は人間じゃ。それは決して変わらぬ真実じゃ」
金星はそう言うと、朱蓬春の前に歩み寄った。
「二時間もすれば、元の人間の姿に戻る。だが、覚えておけ。酒を飲むことと、色心を抱くこと。この二つの戒めを破らねば、二度と猪の顔になることはない。もし破ってしまっても、二時間待てば戻る。この手镯を授けよう。これを身につけておれば、戒めを破っても人の姿を保てる」
そう言って、金星は朱蓬春の腕に銀色の手镯をはめた。それはかすかに光を放ち、彼の肌に馴染んでいった。
「ただし、手镯を外せば、再び猪の姿になれる。その時は力は十倍にも百倍にもなる。高人の仙師に師事すれば、猪の姿で法術を学ぶこともできる。だから、猪の姿になることにも利がある。危険な時以外は、なるべく人の姿で過ごせ。これはお前の人生を変える選択じゃ」
金星はそう言うと、二十両もの黄金を朱蓬春の前に置いた。
「すまなかったな、お前の人生を変えてしまった。これは詫びの証じゃ。これで新たな道を歩め」
そう言い残して、金星は光の粒となって消えた。朱蓬春は手镯を見つめ、やがて立ち上がった。彼は決意を固め、南へ向かって歩き出した。目指すは海州城。新たな土地で、新たな人生を始めるために。
道中、彼は林の中で一匹の小さな猫を見つけた。猫は足を怪我しており、動けずにいた。朱蓬春は自分の服の端を裂いて、猫の傷を丁寧に包帯した。
「大丈夫だよ、もう痛くないからね」
猫は金色の目を大きく見開き、朱蓬春の顔をじっと見つめた。彼は猫の頭を優しく撫でると、立ち上がった。
「さよなら。元気でいろよ」
そう言って、彼は再び歩き始めた。その背中を、猫はいつまでも見送っていた。実はその猫は猫妖・妙妙であり、修行中に怪我を負い、力を失って猫の姿に戻ってしまっていたのだ。彼女は朱蓬春が去るのを見届けながら、心の中で誓った。
「あの恩は、いつか必ず報いる。必ず、あなたの元へ行くから」
朱蓬春はそのことを知らず、ただ南へ南へと歩き続けた。風が彼の髪をなびかせ、彼の新たな旅路の始まりを告げていた。