空は厚い雲に覆われ、月明かりすらも地上には届かなかった。3030年の夜は、かつて人間が誇った文明の残骸を包み込み、静寂と腐臭だけが漂っている。
蘇雪晴は、崩れかけた高層ビルの陰から慎重に顔を出した。右手には使い込まれた戦術ナイフ、左手には小型のハンドガン。装備は最低限だ。彼女の瞳は暗がりでもよく見えるよう訓練されており、一歩ごとに耳を澄ませ、足音を殺す。廃墟と化したこの街の無人地区には、物資を狙う生存者だけでなく、何よりも《それら》が潜んでいる。
彼女の胸の内は、不安で押し潰されそうだった。誰も信じられない。数日前まで一緒に行動していた仲間も、今はもういない。彼女はただ、生き延びるために動き続けるしかなかった。そしてその奥底では、長期間抑え込んできた欲望が、時折疼くように彼女を苛んだ。それに抗うことで、自分がまだ人間であることを必死に証明しているのだ。
──何かが動いた。
蘇雪晴は即座にその場に伏せ、息を殺した。がれきの下から聞こえる微かな物音。しかし、それは《それら》の出す不気味な唸り声ではない。人間の、靴底が砂利を踏む音だ。
彼女は音の方向を探りながら、ゆっくりと体を起こした。遠く、三つ目の交差点の先に、かすかな明かりが揺れている。ランタンの光だ。誰かがいる。
警戒を緩めずに、蘇雪晴は建物の影を伝いながらその光源に近づいた。やがて、その持ち主の姿が闇の中に浮かび上がる。若い男だ。警察官の制服を身にまとっているが、それはもはやボロボロで、汚れにまみれていた。彼もまた、単独で行動しているらしい。
「誰だ!」
男が鋭く声を上げ、懐中電灯を蘇雪晴の顔に向けた。眩しさに一瞬目を細めるが、彼女は動じずに答える。
「特警の蘇雪晴だ。お前こそ、誰だ。」
「……李昊。北部警察署の、巡査だ。」
青年は警戒を解かず、距離を保ったまま名乗った。その声にはまだ幼さが残っており、純粋そうな印象を与える。しかし、この世界で純粋さは、ただの弱さに過ぎない。蘇雪晴は内心でそう判断した。
「一人か?」
「ああ……仲間とは、二日前にはぐれた。お前も、一人か?」
「そうだ。」
短い沈黙が流れる。蘇雪晴は李昊の装備を素早く観察した。拳銃は持っているが、弾薬は少なそうだ。食料も、背負ったリュックの膨らみ具合から見て、心もとない。
「協力しよう。二人で行動すれば、生存率は上がる。」
彼女はあえてそう提案した。本心では、他人を頼りにする方がリスクが高いと知っている。しかし、この若者が無謀な行動で死ぬよりは、監視下に置いた方が安全だと考えたのだ。
しかし、李昊は首を振った。
「いや、俺は北城区へ向かう。あそこにまだ、使える物資が残っているらしい。お前は、どうする?」
「中央地区だ。生存者がいれば、信号を送る。お前も、何か見つけたら同じようにしろ。」
「……分かった。無事でな。」
李昊はそれだけ言うと、背を向けて北へと歩き始めた。その後ろ姿は、頼りなくもあり、またどこか哀れでもあった。蘇雪晴はしばらくその背を見送り、やがて自身の進むべき方角へと足を向けた。
冷たい風が吹き抜け、彼女の短い髪を揺らす。彼女は拳を強く握りしめた。何かを信じることの愚かさを、身体中に刻み込まれていた。それでも、彼女は歩き続ける。この廃墟の始まりを、自分自身の手で終わらせるその日まで。