江南の煙雨がしとしとと降り注ぐ中、王彦卿は青楼の門前に立っていた。春雨は柳の絮を濡らし、街全体に愁いを含んだ湿り気を漂わせている。彼の瞳は冷たく、手にした剣は鞘の中で微かに震えていた。
「鄧老板、出て来い!」
その一声は雨音を切り裂き、青楼の二階の窓が次々と開かれた。やがて肥え太った男がゆっくりと階段を下りてくる。鄧老板だ。彼の顔には脂ぎった笑みが張り付いている。
「これはこれは王少侠。今日はどのような風がお吹きになった?」
「夢瑶を渡せ。さもなくば、この店を焼き払う。」
王彦卿の声には一切の妥協の余地がなかった。彼の背後で、雨が石畳を打つ音だけが響いている。鄧老板の笑みが一瞬で消え、代わりに冷たい視線が彼を射抜いた。
「少侠、それは無理な願いというものだ。夢瑶は我が店の看板娘、金の卵を産む鶏を手放すわけにはいかぬ。」
「ならば、話は終わりだ。」
王彦卿が剣を抜くより早く、鄧老板の手下たちが四方から飛びかかってきた。しかし彼の剣技は迅雷の如く、一振りごとに三人が倒れ、二振り目で五人目が床に転がる。瞬く間に十数人の男たちが呻き声を上げながら地面に伏した。
「もう一度言う。夢瑶を渡せ。」
鄧老板の顔色が青ざめた。彼は震える手で裏口を指さした。王彦卿は軽くうなずき、その方向へと歩いていく。二階の一室で縛られていた夢瑶を見つけ、縄を断ち切ると、彼女は涙を流しながら彼にすがりついた。
「王少侠、ありがとうございます……」
「もう大丈夫だ。ここを離れよう。」
二人が青楼を出ると、鄧老板の怨嗟の声が背中に突き刺さった。しかし王彦卿は振り返らず、雨の中を歩き続けた。
川岸まで来た時、一艘の漁船がもやいていた。船頭は年老いた漁師の姿をしている。王彦卿が近づくと、その男はにこやかな笑顔で声をかけてきた。
「お若いの、川を渡りたいかね? この雨じゃあ、他の船は出ておらんぞ。」
王彦卿は一瞬ためらったが、夢瑶を連れて船に乗り込んだ。船が岸を離れると、老人はゆっくりと櫂を操り始めた。川面に落ちる雨音が、一種異様な静けさを生んでいる。
「おじいさん、この船の底に刻まれている紋様は、何かの呪文かね?」
王彦卿の指が、船底に浮かぶ複雑な模様を指さした。老人の手が一瞬止まり、その目に狡猾な光が走った。
「お若いの、目が利くようだ。これは扶桑神木の紋様。かつて、この地に伝わる聖なる木の印だ。」
王彦卿は眉をひそめた。扶桑神木——それは伝説の聖物であり、その秘密を狙う者は数知れない。目の前の漁師は、明らかにただの老人ではない。
「お前は誰だ?」
「ふふふ、私の名は黒田一郎。かつて瀛国の国師を務めた者だ。冷月璃の天劫の真実を誰よりも知っている。そして、その真実が今、この船を動かしているのだ。」
その瞬間、船体が激しく揺れ始めた。前方の川面が不気味に渦巻き、無数の藤蔓が水中から飛び出して船を捉えた。王彦卿は剣を抜いて藤蔓を斬り裂くが、数が多すぎる。彼の体は徐々に神木の禁域に引きずり込まれていった。
「くそっ!」
彼の全身が絡め取られ、身動きが取れなくなる。周囲から迫る圧力は、まるで山の重みのように彼を押し潰そうとしていた。絶体絶命の窮地——王彦卿は歯を食いしばりながらも、もはや打つ手を失いかけていた。
その時、彼のすぐ近くに置かれた麻袋の中から、かすかな声が聞こえてきた。
「王彦卿……心を静めよ。お前には、まだ突破すべき境地がある。」
その声は弱々しくも、確かな意志を宿していた。王彦卿は驚きのあまり息をのんだ。まさか、この麻袋の中に……。
「冷月璃……あなたは?」
「そうだ。私はここに囚われている。だが、お前に教えることができる——四星剣意の真髄を。星辰の光を感じ、剣心に刻め。さすれば、禁制を破る力を得るだろう。」
王彦卿は目を閉じ、全身の気を集中させた。雨音が遠ざかり、代わりに彼の内なる世界に四つの星が輝き始める。一つ、また一つと光が強まり、ついに彼の全身を剣気が満たした。
「うおおおっ!」
彼が一気に剣を振るうと、周囲の藤蔓が音を立てて断ち切られた。神木の禁域が揺らぎ、彼は自由を取り戻した。その勢いのまま、黒田一郎に斬りかかる。剣光が走り、黒田の両足が胴体から離れて飛んだ。
「がああっ!」
黒田が血を撒き散らしながら倒れ込む。王彦卿はすぐに麻袋を引き裂き、中から冷月璃を抱き起こした。彼女は痩せ細り、顔色は青白かったが、その瞳には変わらぬ剣神の誇りが宿っていた。
「よくやった、王彦卿。お前は私の見込んだ通りの男だ。」
冷月璃は微笑みを浮かべると、彼の肩を借りて立ち上がった。そして、彼の耳元でささやくように言った。
「これより、私はお前を弟子に取る。そして、教えてやろう——皇帝が黒田と結託し、天下を狙っている陰謀を。」
王彦卿は息を飲んだ。大夏皇帝——暗愚で好色と噂される存在が、まさかこんな深い謀略を巡らせていたとは。
冷月璃は空間を切り裂き、一枚の古びた巻物を取り出した。江山社稷図——伝説の神器が、彼女の手の中で幽かな光を放つ。
「見ていろ、王彦卿。これが真の剣の境地だ。」
彼女が図を掲げると、天の雲が割れ、一条の光が大地を貫いた。その光は川の水を巻き上げ、空へと昇らせる。やがて、その水が無数の星となって降り注ぎ、周囲の景色を一変させた。気がつけば、王彦卿は星空に包まれた霊境の中に立っていた。
「ここが星隕霊境。お前の修行の場だ。ここで力を高め、やがて真実と向き合う時が来るだろう。」
冷月璃はそう言い終えると、裸足でゆっくりと川の水面を歩き始めた。水しぶきも上がらず、彼女の足跡はまるで風のように消えていく。その背中は、愁いを帯びながらも、凛とした美しさに満ちていた。
「冷月璃!」
王彦卿が叫んだが、彼女は振り返らずに遠ざかっていく。残された彼は、霊境の中で立ち尽くしながら、その背中を見送った。雨が再び静かに降り始め、江南の煙雨がすべてを包み込んでいく。