満島家の二階の部屋は、しんと静まり返っていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に冷たい光の筋を落としている。天井から太い梁が一本渡っており、そこから伸びる麻縄が、女の体を空中に吊り上げていた。
由美子の両手は背中で縛られ、肘と肩の関節が不自然に後ろへ引かれている。縄は胸の下を通り、腰で何重にも巻かれてから、さらに太腿へと絡みついていた。彼女の体はわずかに傾き、足先がかろうじて床に触れるか触れないかの高さで揺れている。口には布が噛まされ、声はくぐもってしか出てこない。
そのすぐ横では、十歳の息子――継子の優也が、布団をかぶってすうすうと寝息を立てていた。白い頬を月明かりに照らされ、無垢な寝顔はまるで天使のようだ。しかし、その小さな手は昼間に由美子を縛った縄の感触をまだ覚えている。由美子は吊るされたまま、その寝顔を見下ろした。目尻に涙がにじむ。恥辱と無力感が、喉の奥で絡み合っていた。
――あの日から、もう戻れなくなったのだ。
由美子はゆっくりと目を閉じ、数日前の出来事を思い出した。
それは、優也が突然、廊下で立ちふさがった夕方のことだった。彼はにこにこと笑いながら、妙に大人びた目を向けてきた。
「お母さん、縛られるってどんな気持ちか知りたいんだ」
由美子は絶句した。冗談だと思った。しかし優也の目は笑っていなかった。彼は学校で習った緊縛の本を見せてきた。同級生の洋平がやっていて、面白いから自分もやりたいと言う。
「お母さんがやらないなら、あのことをパパに話すよ」
優也が小さな声で言った。由美子の心臓が止まるかと思った。あのこと――それは、夫の留守中に由美子が実家にこっそり送金していたことだった。夫は金にうるさく、もし知られれば離婚もあり得る。それだけでない。優也はもっと深い秘密も握っていた。――由美子が結婚前に付き合っていた男の写真を、偶然見つけたのだ。
由美子は震えた。継子に脅されるなんて、何という屈辱。しかし逆らえなかった。彼女はうつむき、声を絞り出した。
「わ、わかったわ……」
優也の顔がぱっと輝いた。その無邪気さが余計に恐ろしかった。
翌日、学校が終わった優也は、真っ先に部屋に戻ると、机の引き出しから麻縄を取り出した。由美子の前に差し出し、にこにこと笑いながら言った。
「お母さん、自分で手を後ろに回して」
由美子は唇を噛んだ。何度もためらいながら、しかし優也の視線に押されて、ゆっくりと両手を背中に回した。手首を重ね、指を絡める。自分から縛られる体勢を取るという、一番恥ずかしい姿勢。
優也は縄を手に取り、その細い指で由美子の手首に巻きつけた。ぎちぎちと締まる感触。初めての縄の冷たさと痛みに、由美子は声にならない悲鳴を上げた。
「あっ……」
「動かないでよ。しっかり縛らないと」
優也は真剣な顔で、本で見た結び方を覚えているのか、何度も縄を絡めていく。手首、肘、胸の下――少女のように柔らかい肌に縄が食い込み、由美子は自分の体が自由を失っていくのを感じた。
結び終わると、優は満足げに一歩下がり、由美子の姿を眺めた。その目には、子供らしい好奇心と、どこか大人びた支配欲が混ざっていた。
「きれいだよ、お母さん」
その一言に、由美子の全身が粟立った。自分の息子に、こんな言葉をかけられるなんて。恥ずかしさと同時に、どこか安心する自分がいた。――もう、自分は逃げられないのだ。優也の支配下に置かれたのだ。
それからの日々は、由美子にとって地獄であり、同時に奇妙な安堵の日々でもあった。優也は放課後になると、必ず由美子を縛るようになった。最初は簡単な手首縛りだったが、すぐに全身縛り、吊り縛りへとエスカレートしていった。由美子が少しでも拒むと、優也は無邪気な顔で脅した。
「パパに話すよ」
その一言で、由美子は何も言えなくなる。
ある日、由美子は精一杯の勇気を振り絞って言った。
「もう、やめてくれない? お母さん、こんなの……嫌よ」
優也は一瞬、顔を曇らせた。しかしすぐに笑顔に戻ると、今日は洋平たちが遊びに来るからと言って、由美子を縄でぐるぐる巻きにした。口には布を噛ませ、押入れに放り込んだ。
「大人しくしててね。お客さんが来るから」
由美子は押入れの中で、何時間も身動き一つできなかった。暗闇の中で、自分の息子の小さな足音と笑い声が聞こえてくる。その度に、胸が引き裂かれるように痛んだ。
夕方、優也が押入れを開けた。由美子の顔は涙と汗でぐしょぐしょになっていた。
「ごめんね、お母さん。でも、お母さんが反抗するからだよ」
優也はそう言って、由美子の頬を撫でた。その手は優しかった。しかし、その優しさが由美子には一番怖かった。
それからというもの、由美子はもう二度と反抗しなかった。優也が何を命じても、黙って従うようになった。彼女は自分が完全に支配されていることを悟った。そして、その支配の中でかすかな安らぎさえ感じ始めていた。
――これでいいのだ。もう、何も考えなくていい。
今日もまた、優也は由美子を吊るした。自分が寝る前に、しっかりと縄を結び、由美子が微動だにできないようにした。
「おやすみ、お母さん」
優也はそう言って、布団にもぐり込んだ。由美子は吊るされたまま、その寝顔を見つめた。窓の外から風が吹き込み、縄がきしむ音がする。由美子の指先は冷えきり、肩の関節は悲鳴を上げていた。しかし、もう痛みすら遠くに感じられた。
月明かりが、母親を縛る縄の影を壁に映していた。影はゆらゆらと揺れ、まるで優也の支配の網が、由美子の人生を永遠に絡め取って離さないかのようだった。
由美子は静かに目を閉じた。明日もまた、同じ日が来る。優也が縄を手に、にこにこと笑いながら部屋にやってくる。由美子は両手を背中に回し、自分から縄を受け入れる。
――もう、戻れない。
その思いが、彼女の胸の中で重く沈んでいった。