雨の夜だった。蘇晴は暗い路地を必死に駆けていた。背後からは複数の足音が迫り、時折、鋭い金属音が雨音を裂いた。彼女の喉は灼けるように渇き、呼吸は乱れていたが、足を止めるわけにはいかなかった。仇家の刺客たちは、今日こそ彼女を仕留めるつもりで追跡している。もし捕まれば、彼女の命は確実に失われるだろう。
路地の先に、一台の大型トラックが停まっているのが見えた。荷台には布がかけられているが、その下から微かに人の気配が漂う。蘇晴は一瞬迷ったが、背後から差し迫る危険が即座に決断を強いた。彼女は全力で疾走し、荷台の布をめくり上げると、そのまま身を投げ込んだ。
中は薄暗く、積み重ねられた木箱の間に、数人の人型が押し込められているようだった。蘇晴は息を潜め、体を隅に縮めた。刺客たちの足音がトラックの周囲を巡り、やがて遠ざかっていく。彼女はほっと息をついたが、次の瞬間、トラックのエンジンが轟音を立てて始動した。
「なに?」
慌てて荷台の端に駆け寄ろうとしたが、車体は急発進し、彼女はバランスを崩して木箱に激突した。鈍い痛みが頭に走り、視界が歪む。意識が遠のく中で、周囲の木箱が人の形をしていることに気づいた。そして、最後に聞こえたのは、どこかで響く低い笑い声だった。
次に蘇晴が目を開けた時、自分が硬いベッドの上に横たわっているのを感じた。天井は低く、粗い石材で作られており、空気には湿った塩の匂いが混じっている。体の節々が痛み、頭はまだぼんやりとしていたが、彼女は無理に体を起こした。周囲には同じような簡素なベッドが並び、数人の女性たちがそれぞれ貧しい衣服を身にまとって横たわっている。彼女たちは皆、疲れ果てた表情を浮かべていた。
「おや、新しい娘が目を覚ましたか」
冷笑じみた声が響き、蘇晴は顔を上げた。扉のところに、筋骨隆々の女性が立っている。彼女の目は鋭く、手にした鞭が床を軽く叩いていた。
「ここは……どこだ」
蘇晴は喉を絞るような声で尋ねた。女性は一歩前に進み、彼女の顎を掴んで顔を覗き込んだ。
「奴隷島だよ。お前は今日からここで新しく捕まった奴隷だ。俺は教官アリ。これからお前を一人前に仕上げてやる」
蘇晴の全身が凍りついた。奴隷島――伝説の無法地帯、一度足を踏み入れれば二度と外部と繋がりを持てない監獄。彼女は蘇家の令嬢でありながら、今やこの場所に奴隷として囚われている。何よりも恐ろしいのは、彼女が自らの足でこの転落に飛び込んだことだ。
「私は蘇家の……違う、私は逃げ出さなければ……」
彼女の言葉は途中で途切れた。アリが鞭の先を彼女の肩に軽く当て、顔を歪めて笑ったからだ。
「蘇家? そんな名はこの島には通用しない。ここではお前はただの番号だ。名を捨てろ、過去を捨てろ。さもなければ、この鞭が思い知らせてくれる」
蘇晴は唇を噛みしめた。彼女の心の中では様々な想いが渦巻いていた。蘇家の令嬢としての誇り、奴隷としての屈辱、そして生存への渇望――これらが一つになって、彼女の胸の中で激しく衝突した。しかし彼女は頷いた。今は耐えるしかないと理解していたからだ。
アリは満足そうに頷き、振り返りながら歩き去った。
「明日の朝、訓練が始まる。それまでゆっくり休め、新しい奴隷よ」
扉が閉まる音が響き、部屋には再び静寂が訪れた。蘇晴は手を握りしめ、爪が掌に食い込むのを感じた。彼女は蘇家の存続のために闘う決意をしていたが、今はこの島から脱出する方法を考える必要があった。しかし、その迷い込んだ島が、本当にただの監獄なのかどうか、彼女にはまだ知る由もなかった。