社員旅行の朝、社長室のカーテンがまだ閉め切られたままの薄暗い部屋で、蘇婉は姿見の前に立っていた。鏡の中に映る自分は、年齢よりもずっと幼く見える。淡いピンクのワンピースに白いフリルの靴下、髪は両サイドで結わえて小さなリボンをあしらっている。化粧も普段のビシッとした大人の女ではなく、ほんのりと頬を染めただけのあどけない顔立ち。彼女は深く息を吸い込み、鏡の中の自分に小さくウインクしてみせた。
「よし、行こう。」
蘇婉は小さなリュックサックを背負い、スニーカーを履いて社長室を後にした。エレベーターの中では、誰にも気づかれないように俯き加減で立つ。社員たちはすでにロビーに集まっていた。今回の旅行は「全社員、家族同伴」という名目で行われている。彼女はこっそりとその集団の後ろから近づき、息子である蘇浩の隣にすり寄った。
蘇浩は新入社員として入社してからまだ一週間も経っていない。スーツ姿で緊張した面持ちの彼は、突然現れた見知らぬ少女にぎょっとして一歩後ずさる。だが、すぐにその目つきに覚えがあった。幼い頃、母が自分に絵本を読んでくれるときの優しい目だ。
「……お母さん?」
「しっ。」蘇婉は指を唇に当てて、にっこりと笑った。「今日はパパと一緒に旅行に行くんだよ。」
その声はわざとらしく高い。周りの社員たちは二人のやりとりに気づき、好奇の目を向け始める。
「蘇浩くん、この子は?」
「あ、えっと……娘です。娘がどうしても一緒に来たいって言うもので。」
蘇浩はごまかすように笑った。蘇婉はその隙に彼の手をぎゅっと握り、まるで本当の幼い娘のように甘えた顔をする。社員たちは「まあ、かわいい」「蘇浩くん、もう子どもがいたんだね」と口々に言い、誰も疑わなかった。
搭乗手続きのカウンターに着くと、グランドスタッフが蘇婉を見て優しく尋ねる。「お嬢ちゃん、お名前は?」
「わんわん、です。」蘇婉はぴょんと跳ねるように答えた。普段は社員の前で見せる冷徹な態度は微塵もない。スタッフがパスポートを確認すると、少し驚いた顔をしたが、すぐに手続きを進めた。
「お父様のお隣の席ですね。お利口さんにしててね。」
蘇婉はこっくりと頷き、蘇浩の手を引いて搭乗ゲートへ向かう。その背中は本当に小さく、誰が見てもただの娘にしか見えなかった。
飛行機が離陸する直前、彼女はこっそりとスマートフォンを取り出し、会社のメーリングリストに一通のメールを送信した。
件名:【緊急】社員旅行について
本文:
皆様、急なご連絡で申し訳ございません。本日よりの社員旅行ですが、体調不良により私は参加を見送らせていただきます。旅行中の総責任者は総務部長の田中にお任せします。どうぞ楽しい一時をお過ごしください。
社長 蘇婉
送信ボタンを押すと、彼女はほっと一息ついた。機内のシートに深くもたれかかり、窓の外の雲を見つめる。隣の席で蘇浩が複雑な表情で彼女を見つめている。母が自分を「パパ」と呼んだこと、そして社員たちに小さな娘として扱われていることが、彼にはまだ現実のこととは思えなかった。
「お母さん、本当に大丈夫なの?」
「ここではお母さんじゃなくて、わんわんよ。」蘇婉は彼の腕にぴったりとくっついて、甘えた声で言った。「パパ、ジュースちょうだい。」
口元には、誰にも気づかれないほのかな笑みが浮かんでいた。これから始まる五日間、彼女は社長の仮面を脱ぎ捨て、ただの小さな女の子として過ごすことができる。そのことが、彼女の心の奥底で渇望していた何かを満たしていくようだった。
飛行機は滑走路をゆっくりと走り出し、やがて空へと舞い上がった。蘇婉は窓の外を見ながら、この旅が終わった後に待っている現実を、ほんの一瞬だけ忘れようとしていた。