# 第八章 未了の縁
朝の光が東宮の甍を染める頃、蕭昀は政務の間で奏章を裁いていた。筆の先が墨を含む音だけが、静かな部屋に響いている。
皇帝はまだ崩御しなかった。あの日、道士の薬に倒れて以来、目は覚めたものの、かつての威厳は失せ、床に伏せったままとなっている。太医は口を揃えて「龍体は深く損なわれ、養生が必要」と奏上するが、その言葉の裏には「もう長くない」という意味が込められていた。
「太子殿下、御史大夫が参内を願っております」
側近の宦官・徳順の声に、蕭昀は顔を上げた。二十歳の若さで、その目はすでに深い湖のような静けさを宿している。
「通せ」
政務を執るようになってから、蕭昀の日々は朝から晩まで忙殺されている。だが、それは彼にとって願ってもないことだった。暇を持て余せば、心に巣食うあの影が頭をもたげてくるからだ。
夜半、政務を終えた蕭昀は、ふと机の引き出しを開けた。そこには古びた簪が一本だけしまってある。銀製の簪には、小さな鈴がついていた。
彼はそっとそれを手に取り、自分の部屋へと戻った。
多くの夜を、こうして一人で過ごしてきた。思い出の少女――蘇玉媱。彼女が自分に施した恩、あの日の笑顔。すべてが鮮明に脳裏に焼きついている。
「お前は、どこにいるのだ」
呟きは、誰に届くでもなく、闇に溶けていった。
その頃、洛玉は自室で針仕事をしていた。太子妃としての務めは、主に後宮の婦人たちとの交流や儀礼への参加である。それらは彼女にとって、決して難しいことではなかった。将軍家の娘として、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれてきたからだ。
しかし、心の奥底には、言葉にできない棘が刺さったままだ。
新婚の夜――あの日、彼女は初めて夫の腕に抱かれた。その瞬間、彼の口から漏れたのは、自分の名前ではなかった。
「玉媱……」
その一言が、洛玉の心に深い傷を刻んだ。以来、彼女は夫との同衾を避け続けている。昼は笑顔を絶やさず、太子妃としての責務を果たす。だが夜になると、彼女は一人、寝台の中で涙を噛みしめた。
ある日、皇后が洛玉を召し出した。
皇后は以前、第二皇子の生母として、寵愛を失った日々を送っていた。その顔には深い皺が刻まれ、目にはどこか虚ろな光が宿っている。
「太子妃、太子との暮らしはいかがか」
「はい……問題なく過ごさせていただいております」
「そうか」
皇后は意味深な笑みを浮かべた。
「男というものは、とかく過去の女にこだわるものだ。しかし、それに振り回されてはならない。お前は太子妃。この地位を守るべきだ」
その言葉は、洛玉の胸に重くのしかかった。
「はい……御教訓、ありがたく承りました」
しかし、心の中では別の思いが渦巻いていた。
(私はただの道具なのか。彼の心を埋めるための、代わりに過ぎないのか)
数日後、蕭昀が珍しく洛玉の部屋を訪れた。
「玉……いや、太子妃。最近、体調はどうだ」
彼の言葉はどこかぎこちない。その「玉」と呼びかけた一瞬の間を、洛玉は聞き逃さなかった。
「お気遣い、ありがとうございます。私は元気にしております」
「そうか……それはよい」
沈黙が部屋に落ちる。二人は向かい合いながらも、その距離は遠かった。
「殿下、お尋ねしたいことがございます」
「何だ」
「……いえ、やはり結構です」
洛玉は言いかけてやめた。問い質しても、答えは分かりきっている。彼の心には、自分ではない別の女が住んでいるのだ。
蕭昀は何かを言いかけたが、結局何も言わずに立ち上がった。
「ゆっくり休め。私はまだ政務がある」
そう言い残して、彼は部屋を出ていった。
残された洛玉は、一人窓辺に立っていた。庭園の花が風に揺れている。十五歳の彼女には、あまりにも重い結婚生活だった。
「私は、どうすればいいの……」
その問いに答える者は、誰もいなかった。
一方、東宮の書房では、蕭昀が政務の合間を縫って、一人の男を密かに呼び寄せていた。
「どうだ、見つかったか」
「申し訳ございません。まだ確かな手がかりは……」
「引き続き探せ。全国くまなく捜すのだ」
「ははっ」
男が退出した後、蕭昀は深い息をついた。彼は蘇玉媱を探し続けている。臣下たちには、それは昔の恩人を尋ねるためだと説明していたが、その執着は尋常ではなかった。
(お前さえいれば、この心の空洞は埋まるはずだ)
しかし、その思いこそが、彼をさらに苦しめていた。洛玉への罪悪感――彼女は何も悪くない。ただ、自分は彼女を愛せない。いや、愛してはいけないのだと思い込んでいた。
日が傾き、夕暮れが近づく頃、蕭昀はふと酒を手に取った。強い酒をあおると、その熱が胸に広がる。
「運命とは、なぜかくも非情なのだ」
彼は幼い日の記憶をたどる。あの日、母は宮女で、自分は見下されるだけの皇子だった。雨の中で一人泣いていると、一人の少女が傘を差し出してくれた。
「泣かないで。大丈夫よ」
その優しい言葉、温かい手。それが、彼の人生で初めて得た真心だった。
その記憶があるからこそ、彼はここまで這い上がってこられた。
(だが、今の私は……)
太子となった今、彼は政務を執り、国を動かす立場にある。それなのに、心の奥底では、あの日を境に時が止まっているかのようだった。
数日後、朝廷で一つの知らせが伝えられた。五皇子・蕭勉が、皇帝の寵妃・鳳妃と密通しているという噂だ。実際には、それは皇后と蕭昀が仕組んだ罠だった。
しかし、その噂は瞬く間に広がり、ついには病床の皇帝の耳にも届いた。
「あの不届き者め!」
皇帝は激怒し、すぐに蕭勉と鳳妃を捕らえるよう命じた。
結局、蕭勉は死を賜り、鳳妃も同様の処分を受けた。これで太子・蕭昀の地位は、より確固たるものとなった。
だが、その夜、蕭昀は一人で宴を開いた。酒を浴びるように飲み、心の闇を紛らわせようとした。
「どうしてお前は、見つからないのだ……」
「どうして、俺は……」
彼の目の前には、あの古びた簪がある。
その頃、洛玉も眠れない夜を過ごしていた。彼女は侍女を下がらせ、一人で夜空を見上げていた。
(彼は、あの蘇玉媱という人を、どれほど愛しているのだろう)
そして、自分の存在を、彼はどう思っているのか。
(私はただの、政略の駒に過ぎないのか)
涙が一筋、彼女の頬を伝った。
翌日、洛玉は思い切って、蕭昀の書房を訪れた。
「殿下、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
「……構わない」
蕭昀は奏章から顔を上げ、彼女を見た。その目はどこか疲れている。
「殿下は、蘇玉媱という方を、今でもお探しなのですか」
洛玉の問いに、蕭昀は一瞬言葉を失った。
「……なぜ、その名を知っている」
「新婚の夜、殿下がお呼びになられました」
沈黙が訪れる。蕭昀の顔に、苦悩の色が走った。
「そうか……すまない」
「謝らないでください。ただ、私は……」
洛玉は唇を噛みしめた。
「私は、殿下の心を無理に得ようとは思いません。ただ、このまま何も知らずに生きていくのが、辛いのです」
蕭昀は深く息を吐いた。
「お前に対して、申し訳ないと思っている。私は……あの女に執着しすぎている。それは自分でも分かっている」
「では、なぜお探しになるのです」
「――それが、俺の生きる意味だからだ」
その言葉は、洛玉の胸に突き刺さった。
彼女はゆっくりと頭を下げた。
「分かりました。それならば、私は……」
「お前は、どうしたい」
「殿下のお心が、私には向かないのなら、私はせめてこの太子妃の務めを果たすのみです」
その言葉は、彼女の優しさと強さを同時に示していた。
蕭昀は何も言えなかった。ただ、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
それから数ヶ月が過ぎた。
皇帝の病状は、良くなることもなく、悪化することもなく、ただ時間だけが過ぎていった。蕭昀は引き続き政務を執り、国はかろうじて安定していた。
洛玉と蕭昀の関係は、表面的には変わらなかった。二人は儀礼の場で会い、必要な会話を交わす。しかし、心の距離は決して縮まらなかった。
ある夜、蕭昀は洛玉の部屋を訪れた。酒の勢いもあってか、彼は珍しく本音を漏らした。
「お前は……俺を恨んでいるか」
「恨んでなどいません」
「では、なぜ俺の前で笑わなくなった」
その問いに、洛玉は静かに笑った。それは、どこか諦めを含んだ笑みだった。
「私は笑っていますよ。殿下のお目には、そう映らないのでしょうか」
「……そうか」
蕭昀は無言で酒を飲み干した。
「俺は、お前を傷つけている。分かっている。だが、どうすることもできない」
「殿下は、ご自分を責めすぎです」
「責めるなと言われても……」
彼は机に肘をつき、頭を抱えた。
「もしも、もしもお前に出会う前に、あの女を見つけていたなら……違う人生があったかもしれない」
その言葉に、洛玉の心は静かに凍りついた。
(この人は、本気でそう思っているのだ)
彼女はもう、何も言わなかった。
季節が巡り、また秋が訪れた。木々が色づき、庭園の紅葉が見頃を迎えている。
ある日、蕭昀のもとに一報が入った。
「殿下、蘇玉媱とおぼしき女性が見つかりました。ただし……」
「ただし、何だ」
「その方は、すでに他県の者と結婚しており、子もいるそうです」
蕭昀はその報せを聞いて、長い間言葉を失った。
「……そうか」
その声は、ひどくかすれていた。
「ご本人にお会いになりますか」
「いや……もういい」
蕭昀は手を振って、使者を下がらせた。
彼は一人、机に向かって座っていた。目の前には、あの簪がある。
「これで……終わったのか」
長年の探求が、思いがけない形で幕を閉じた。彼の心にぽっかりと穴が開いたような気がした。
(あの女は、もう昔の女ではない。俺が追い求めていたのは、幻だったのかもしれない)
しかし、そう思っても、心の空洞は埋まらなかった。
その夜、蕭昀は洛玉の部屋に足を運んだ。
「太子妃」
「殿下、どうかなさいましたか」
「……少し、話をしたい」
洛玉は彼を部屋に招き入れた。二人は向かい合って座る。
「今日、知らせがあった。蘇玉媱という女は、もう嫁いでいたそうだ」
洛玉は驚いた表情を浮かべたが、すぐに静かな顔に戻った。
「そうでしたか」
「俺は、長年彼女を探していた。それが、もう意味をなさなくなった」
「殿下は、お辛いのですか」
「……分からない。ただ、空っぽだ」
蕭昀は自嘲気味に笑った。
「滑稽だろう。長年追い求めたものが、ただの幻だったとは」
「幻だったとしても、殿下にとっては大切な思い出だったのでしょう」
洛玉の言葉に、蕭昀は顔を上げた。
「お前は、どう思う」
「私は……殿下の過去については、多くを語れません。ただ、今ここにいるのは、私と殿下の二人です」
その言葉は、蕭昀の胸に響いた。
彼は深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。……少し、落ち着いた」
「お役に立てたなら、幸いです」
蕭昀は部屋を去ろうとして、ふと振り返った。
「洛玉――」
彼が彼女の名を呼ぶのは、久しぶりだった。
「何でしょう」
「お前を、もっと大切にすべきだった」
その一言は、洛玉の心に小さな波紋を広げた。
「……お休みなさいませ、殿下」
彼女はそれだけ言って、頭を下げた。
蕭昀が去った後、洛玉は一人で静かに涙を流した。
(なぜ、あなたは今頃になって、そんなことを言うの)
彼の言葉は優しかった。だが、その優しさが、かえって彼女の傷を深くした。
それから数日後、洛玉は一人で庭園を散歩していた。
ふと、蕭昀も同じ方向から歩いてくるのが見えた。二人は庭園の小道で出会った。
「殿下」
「太子妃」
二人は軽く会釈を交わした。
「今日は、よい天気ですね」
「ああ……秋らしい日だ」
蕭昀はそう言いながら、空を見上げた。
「この先、どうしたいと思う」
「私は、このまま太子妃としての務めを果たすのみです」
「そうか……」
蕭昀は何か言いかけたが、やめた。
「体に気をつけろ」
「殿下も、お体をお大事に」
二人はそのまま、それぞれの道へと歩いていった。
その背中は、決して交わることがない二つの線のように、遠ざかっていった。
その夜、蕭昀は一人で酒を飲んでいた。
(蘇玉媱はもういない。俺が追い求めていたものは、ただの思い出だった)
その事実を受け入れるのに、時間が必要だった。
しかし、その一方で、彼は自分が何をすべきなのかも、分からなくなっていた。
(俺は、このまま太子として生きていく。それだけだ)
だが、その先に何があるのか、彼には見えなかった。
洛玉もまた、同じ夜を一人で過ごしていた。
心の中の棘は、まだ抜けきらない。しかし、それでも彼女は前に進むしかないと思った。
(私は、自分の道を歩いていく)
それが、彼女なりの決意だった。
皇帝は相変わらず病床にいる。蕭昀は太子として国を治めている。表面的には、すべてがうまくいっているように見えた。
しかし、その裏側では、誰もが何かを抱えていた。
蕭昀の心には、蘇玉媱への未練がまだ残っている。洛玉の心には、新婚の夜の傷がまだ癒えていない。
二人は夫婦でありながら、決して交わることがない。
それが、この物語の結末だった――すべてが、未了のまま終わる。