全国散打選手権決勝の舞台は、満員の観客で埋め尽くされていた。会場の照明がリングだけを白く浮かび上がらせ、選手入場のアナウンスが反響する。対戦相手は二年前にも戦ったことのあるベテランの女選手で、眼光鋭く、すでに戦闘態勢に入っていた。しかし、リン・モの心は凪いでいた。歓声も、対戦相手の殺気も、遠い水面の波紋のようにしか感じられなかったのだ。
開始のゴングが鳴ると同時に、相手がいきなり距離を詰めてきた。右のローキックを二発、続いて左ミドル。リン・モはそれを冷静にブロックし、わずかに半歩下がる。その目はまるで相手の動きを分解する精密機械のように冷たく光っていた。相手が右ストレートを繰り出す瞬間、彼女は身体を沈め、カウンターの左フックを相手のテンプルに突き刺した。衝撃音が空気を震わせ、観客がどよめく。相手の体がぐらりと揺れ、ロープにもたれかかった。レフェリーが割って入ろうとしたが、リン・モは一気に間合いを詰め、右の回し蹴りを相手の脇腹に叩き込んだ。鈍い音とともに、相手の口から空気が漏れ、膝から崩れ落ちる。レフェリーが試合を止め、リン・モの腕を高々と掲げた。
結局、試合は二分四十七秒でのTKO勝ちだった。彼女にとっては三度目の全国制覇だが、喜びはほとんど湧いてこなかった。ただ、予定通りに事が運んだという安堵だけがあった。
リング上での表彰式を終え、インタビュースペースに移動した彼女を、数台のテレビカメラと大勢の記者が待ち構えていた。眩しいライトが熱を持って肌に刺さる。汗で張り付いた前髪をかき上げながら、リン・モは淡々とした表情で質問を待った。
「リン選手、三連覇おめでとうございます!圧倒的な強さでしたが、今のお気持ちは?」
一人の女性リポーターがマイクを差し出す。彼女はわずかに口元を緩めたが、目は笑っていなかった。
「ありがとうございます。今日は自分のやるべきことをやれたので、それで十分です」
「今後の目標についてお聞かせください。次は世界戦線への挑戦も視野に入ってくるかと思いますが」
記者がさらに踏み込もうとした瞬間、リン・モは静かに首を振った。
「いえ。実は、今日の試合をもって、現役を引退しようと思っています」
一瞬、インタビュースペースがざわつき、フラッシュの数が増えた。リポーターは目を見開き、慌てて言葉を継ぐ。
「引退、ですか?まだお若いですし、まさに全盛期だと思いますが、理由をお聞かせいただけますか?」
リン・モは視線をわずかに落とし、それから再びカメラに向けた。
「ここ数年、ケガが重なってしまって。体の節々がもう限界なんです。それに、ずっとこの世界で生きてきたので、一度、別の生き方もしてみたいと思ったんです」
彼女の声はひどく落ち着いていて、それでいてどこか張り詰めたものを感じさせた。記者たちはさらに質問を重ねようとしたが、彼女は「以上です」とだけ言って軽く会釈し、その場を去った。背後で「リン選手!」と呼ぶ声がしたが、振り返らなかった。
控え室で手早く荷物をまとめ、ジャージを肩に引っ掛けて会場を出る。夜風が生暖かく、汗の冷えた肌にまとわりついた。地下鉄に揺られ、ざらついた蛍光灯の光が流れる車窓をぼんやりと見つめる。自分が今、何を考えているのか、よくわからなかった。ただ、何か大きな塊が胸の奥に引っかかっているような、塞がれた感覚だけがあった。
アパートに着いたのは夜の十時を過ぎていた。築四十年の古い鉄筋コンクリートの建物で、階段を軋ませながら三階まで上がる。ドアを開けると、部屋の中はしんと静まり返っていて、湿った空気が澱んでいた。電気を点けると、狭いワンルームの真ん中で、洗濯物を干したハンガーが影を落とす。彼女は無造作にスポーツバッグを床に置き、大きく息をついた。
それから、ゆっくりと今日の試合で着ていた運動服に手をかける。赤と黒のラッシュガードに、試合の汗と相手の肌の脂が染み込んでいる。ファスナーを下ろすと、乾ききっていない肌が空気に触れ、ひんやりとした。彼女は袖から腕を抜き、ウェアを脱ぎ捨てる。続けて、下に着ていたハイネックのインナーも脱ぎ、スポーツブラのホックに手を回した。その一連の動作はどこか祈りのような静けさを伴っていた。
壁に立てかけた姿見の前に立つ。そこには、長年の鍛錬で作り上げられた肉体があった。肩の三角筋は丸く盛り上がり、上腕二頭筋は血管が浮き出るほどに発達している。腹筋は六つに割れ、脇腹の外腹斜筋が鋭く縁取っていた。大腿四頭筋は野性的な膨らみを見せ、ふくらはぎは引き締まっている。しかし、そうした筋肉の輪郭とは裏腹に、彼女の体は無数の傷跡に覆われていた。左の眉尻を裂かれた古傷、右の頬骨に走るかすかな陥没、鎖骨の上を横切る手術痕。肋骨の脇には、かつて鞭のようなミドルキックを受けて内出血を起こした痕が、今も薄い染みのように残っている。膝の皿は変形し、くるぶしの靭帯は何度も伸びきって、少し触れるだけで痛みが甦る。特に腰と肩甲骨の間は、疲労が慢性化していて、じっとしているだけでも鈍痛が走るのだ。
彼女は鏡の中の自分をじっと見つめた。試合のあと特有の、何かが抜け落ちてしまったような空虚な心地が、また胸を占める。長い間、この体こそが自分の存在証明だった。殴られ、蹴られ、それでも立ち上がり、技を磨き、相手を倒す。その繰り返しの中でだけ、彼女は自分を感じることができた。しかし今、そのすべてを手放そうとしている。
ふいに、バッグの中のスマートフォンが短く震えた。手を伸ばして画面を見ると、〈母〉と表示されている。心臓がひとつ、強く跳ねた。彼女は裸の肩にタオルを引っかけ、通話ボタンを押した。
「もしもし、母さん?」
「ああ、モモ。試合、テレビで見てたよ。勝ったんだってね。すごいじゃないか」
電話の向こうの声は、以前よりもずっと細く、息が切れ気味だった。それでも、わざと明るい調子を作っているのが痛いほど伝わってくる。
「うん、ありがとう。身体のほうはどう? 痛む?」
「大丈夫、大丈夫。持病だからね。薬もちゃんと飲んでるし、心配いらないよ。それよりあんた、ちゃんとご飯食べてるのかい? 声が疲れてるよ」
リン・モは受話器を握る手に力を込めた。きちんと栄養を摂れているか、そんなことを聞く余裕が母にあるはずがない。本当はお金のことを心配しているくせに。
「大丈夫、ちゃんと食べてる。来週、またそっちに行くから。必要なものがあったら言って」
「そんな、来なくていいんだよ。試合が終わったばかりで疲れてるだろう。私はここでちゃんとやってるから、あんたは自分のことを大事にしなさい。ね、モモ」
母はそう言って、少しだけ笑った。笑い声がかすれて、最後は咳に変わる。急いで電話口を手で覆うような音が聞こえたあと、再び「大丈夫だから」と繰り返した。
「……わかった。でも、また電話する」
「ああ、おやすみ。よく休むんだよ」
通話が切れると、部屋は再び深い静寂に沈んだ。彼女はしばらく、スマートフォンを握りしめたまま立ち尽くしていた。母の声を反芻すればするほど、自分の決断が、本当にこれで良かったのかという疑念が首をもたげる。だが、治療費はかさむばかりだし、自分の試合で稼げる賞金では焼け石に水だ。体を壊してからでは遅い。そう自分に言い聞かせてきた。
彼女はふらりと鏡の前に歩み寄り、改めて自分の裸身と向き合った。タオルが滑り落ち、床にくしゃりと落ちる。右手を持ち上げ、そっと左の鎖骨を撫でた。皮膚のすぐ下に、骨の硬い感触がある。指先をずらしていくと、肋骨の一本一本をなぞることができた。筋肉はついていても、体脂肪は極限まで削ぎ落とされ、まるで体の芯だけが残ったようだ。いつもなら、その引き締まった感触が誇らしかった。けれど今は、触れている自分の骨が、まるで痩せ細った獣のそれのように思えてならなかった。
リングを降り、戦うことをやめた自分に、いったい何が残るのだろう。母を助けたい。しかし、これまで培ってきたもの以外に、自分には何の取り柄もない。その事実が、鉛のように重くのしかかった。彼女は鏡の中の自分と視線を絡めたまま、指先を胸骨の上で止めた。そこには、心臓の鼓動が微かに伝わってくるのに、それがひどく遠く、他人事のように感じられた。
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、これまでにない虚無感。それをどう名付ければいいのか、彼女にはわからなかった。ただ、熱い戦いの記憶が急速に色褪せ、自分の存在が溶けて消えていくような、底冷えのする感覚だけが、静かに彼女を包み込んでいた。