翌朝、阿麗はいつもより三十分早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む薄明かりの中、彼女はベッドの端に座り、しばらく自分の足をじっと見つめていた。昨夜の衝撃がまだ体中に残っている。胸は確かに膨らみ、手のひらに収まる柔らかな重みがある。でも、その代償として、彼女の身長は明らかに縮んでいた。鏡の前に立つ勇気はなかったが、パジャマの裾が床につきそうになっているのを見れば、何が起きたかは明らかだった。
クローゼットを開け、彼女はいつものタイトなジーンズと体にぴったりしたTシャツを手に取ったが、すぐに戻した。代わりに、去年買って一度も着ていなかったオーバーサイズのスウェットシャツと、ウエストがゴムになっているだぼだぼのジョガーパンツを引っ張り出す。袖をまくり、フードを深くかぶって、全身を布で覆い隠すように着込んだ。鏡の前で一回転してみる。シルエットは完全にごまかせている。でも、目線の高さが以前と違うことに、自分だけが気づいている。
「行ってきます」と母親に声をかけると、キッチンから「あら、今日は早いのね」と返事が返ってきた。阿麗は靴ひもを結びながら、玄関の靴箱に手をついた。その高さが、いつもよりほんの少し低く感じられる。心臓がぎゅっと締め付けられた。
通学路を歩きながら、彼女は無意識に周りの生徒たちと自分の目線を比べていた。昨日まで同じくらいだった自転車通学の男子が、今朝はなぜか数センチ高く見える。電柱の影も、いつもより長く感じる。全部、気のせいだと言い聞かせたけど、足音のリズムが微妙に変わっていることに気づいてしまった。歩幅が狭まっているのだ。短距離走の選手として、自分の歩幅を誰よりも把握している阿麗にとって、それは恐怖でしかなかった。
校門をくぐると、すぐに林悦が駆け寄ってきた。
「阿麗!おはよう!って、あれ?今日はなんだか雰囲気違うね。その服、どうしたの?急に寒くなった?」
林悦は明るい声で言いながら、阿麗のぶかぶかのスウェットを指さした。
「ちょっと喉が痛くて。風邪ひいたかも」阿麗はわざと声をかすれさせて言った。「だから厚着してるの」
「そっか。無理しないでね。今日は体育で短距離のタイム測定あるけど、大丈夫?」
「……うん、まあ」
答えながら、阿麗の心臓は早鐘を打っていた。タイム測定。毎月恒例の記録会。彼女がいつも一位を取る、自分のプライドを証明する場。でも今日は、その自信が音を立てて崩れそうな予感がしていた。
教室に入ると、窓際の席に美由紀がすでに座っていた。彼女は柔らかなカーディガンを羽織り、ノートに何かを書き込んでいる。その胸元は相変わらず豊かで、カーディガンの前がふっくらと持ち上がっている。阿麗は自分の席につきながら、美由紀のバストラインを一瞬見つめ、すぐに視線をそらした。そして、自分の胸に目を落とす。厚手のスウェットの下で、昨夜まではなかったやわらかな膨らみが、ブラジャーに軽く押し付けられている。その感触が、誇らしいような、怖いような、複雑な気持ちを呼び起こした。
ホームルームが終わり、一限目の国語の時間。阿麗は教科書を立てて、その陰で自分の手の大きさをじっと見つめていた。指の長さは変わっていない。でも、机の高さに対する肘の位置が、なんとなく不自然だ。椅子に座ったときの足の裏と床の接地感も、ほんのわずかに違う。そんな些細な違和感が、授業に集中することを許さなかった。
二限目が終わると、美由紀が近づいてきた。
「阿麗ちゃん、ちょっといい?」
「え?なに?」阿麗は反射的にフードを深くかぶり直した。
「なんかさ、今日の阿麗ちゃん、背が縮んだみたいに見えるんだけど……。気のせいかな?」美由紀は小首をかしげ、純粋に不思議そうな顔で言った。「なんていうか、目線の高さ?昨日まで私より高かったのに、今日は同じくらいっていうか……」
「そんなわけないでしょ。このスウェットがだぼっとしてるから、そう見えるんだよ」阿麗は声を少し強めて言った。「それに、美由紀がヒールのある靴を履いてるからじゃない?」
「ああ、そうかもね。これ、ちょっとだけ厚底なんだ」美由紀は素直に納得して、自分の靴を見下ろした。「でも、阿麗ちゃん、本当に体調悪そうだから、無理しないでね。体育、見学したほうがいいかもよ」
「大丈夫。ちょっと喉が痛いだけだから」
阿麗はそう言って、美由紀が去るのを見送った。彼女の疑いをなんとかかわせたことに胸をなで下ろしながらも、美由紀にさえ変化を察知されているという事実が、阿麗を深く不安にさせた。これ以上、周囲に気づかれないようにしなければならない。そして、なんとかして元の体に戻る方法を見つけなければ。でも、胸はこのままで……。
昼休み、林悦と屋上で弁当を食べていると、林悦が突然、真剣な顔で阿麗を見つめた。
「ねえ、阿麗。本当に風邪だけ?」
「どういう意味?」阿麗は箸を止めた。
「あの店。昨日の不思議な店。一体何を買ったの?私、ずっと気になってたんだ。阿麗、昨夜から様子が変だよ。何か隠してるでしょ」林悦はいつもの冗談めかした口調ではなく、友達を心配する声で言った。
「悦、私は……」阿麗は言葉に詰まった。親友に本当のことを話すべきか、一瞬迷ったが、今はまだ言えないと判断した。「本当に大丈夫。ただの風邪。心配しすぎだよ」
林悦はそれ以上追及しなかったが、その目には明らかな疑念が残っていた。彼女はそっとため息をつき、遠くの山々を見つめた。「でも、あの店、なんだか不気味だったよね。あの店主の葉姨って人、すごく優しそうなのに、目が笑ってなかった。阿麗、もし何かあったら、絶対に私に言ってよ。一緒に考えるから」
「ありがとう、悦」
阿麗はうつむいて、弁当箱の中の卵焼きをつついた。胸の奥がきゅっとなるのを感じた。親友に嘘をついている罪悪感と、自分の体に起きている変化への恐怖が、入り混じって渦巻いていた。
午後、いよいよ体育の時間がやってきた。グラウンドに出ると、秋の日差しがまだ強く、トラックの白線がまぶしく光っている。男子たちはすでに準備運動を始めていて、女子たちも更衣室で体操着に着替え終わったところだ。阿麗は更衣室の隅で、誰にも見られないように素早く体操着に着替えた。長袖長ズボンのジャージタイプだから、体型をごまかしやすい。でも、靴を履き替えるとき、自分の足が以前より小さく見える気がして、心がざわついた。
「全員集合!」
体育教師の張先生が笛を吹いた。彼は四十代の元陸上選手で、短距離走のコーチも兼任している。阿麗の才能を高く買い、県大会優勝を本気で狙える選手として期待していた。
「今日は毎月の五十メートル走のタイム測定だ。各自、前回の自分の記録を超えられるように全力を尽くせ。阿麗、お前は前回6秒78だったな。今日は6秒7を切れるか?」
張先生は阿麗を見て、期待を込めた目で言った。
「はい、頑張ります」阿麗は小さく返事をしたが、声に力はなかった。
準備運動をしながら、彼女は自分の脚の感覚を確かめていた。いつもなら、太ももの筋肉が力強く張り、地面を蹴るイメージが自然と湧いてくる。でも今は、なんだか脚全体が短くなったように感じられ、重心の位置が狂っている気がする。ストレッチをしても、違和感は消えなかった。
いよいよ測定が始まった。女子が先で、五人一組で走る。阿麗の組には、陸上部の後輩や、普段はタイムが遅い一般の生徒たちが含まれていた。毎回、阿麗はスタートの瞬間から飛び出し、他の生徒たちを大きく引き離してゴールする。それがいつもの光景だった。
「位置について、よーい……」
スターターピストルが構えられ、張先生の声が響く。阿麗はクラウチングスタートの体勢に入った。指先を白線につけ、後ろ足に体重をかける。でも、その瞬間、彼女は違和感に襲われた。腕の長さと脚の長さのバランスが、感覚として合わない。腕を突いたときの肩の位置が、記憶とずれている。
ピストルが鳴った。阿麗は反射的に飛び出そうとしたが、一瞬、反応が遅れた。スタートダッシュで出遅れたのだ。それでも、彼女は必死に腕を振り、脚を動かした。でも、ストライドが明らかに狭まっている。以前なら、一歩一歩が大きな弧を描いて地面を蹴り、風を切るように進んでいたのに、今日は小刻みな走りになっている。
「あれ?阿麗、遅くない?」
見学していた女子生徒たちのささやき声が聞こえた。
「どうしたんだろう、スタートで失敗したのかな……」
阿麗は歯を食いしばって、全力で走った。でも、体が自分の思い通りに動かない。身長が縮んだ分、脚の長さも短くなり、ピッチを上げてもスピードが乗らないのだ。筋肉の力自体は衰えていないはずなのに、物理的な脚の長さの差が、致命的にタイムを悪くさせていた。
ゴールラインを越えた瞬間、張先生はストップウォッチを見つめ、その顔がこわばった。
「阿麗、7秒12だと?どうしたんだ、今日は!スタートで出遅れたな。それに、ストライドがめちゃくちゃ狭くなってるぞ!」張先生は厳しい口調で言った。「体調が悪いのか?それとも練習が足りないのか?」
「すみません……」阿麗は息を弾ませながら、うつむいた。
「前回より0.3秒以上も遅くなってる。このままだと県大会は危ないぞ。お前には期待してるんだからな。後でもう一本走らせる。それでタイムを戻せ」
その言葉に、周囲の生徒たちがざわついた。いつもトップの阿麗が、今回は同じ組の後輩に負けて二位、全体でも三位という結果だったのだ。顔見知りの陸上部員たちは、驚きと困惑の表情で阿麗を見つめている。美由紀も遠くから心配そうな顔で見ていた。
「阿麗、大丈夫か?」と一人の女子陸上部員が声をかけてきたが、阿麗は小さくうなずくだけで、何も答えられなかった。
二本目の走りも結果は同じだった。タイムは7秒15。さらに悪くなっている。張先生は首をひねり、「今日はこれで終わりにしろ。体調管理も選手の仕事だ。次回までに必ずコンディションを戻せ」と言い放ち、彼女から離れていった。
阿麗はグラウンドの端にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。涙がにじみそうになるのを必死にこらえた。頭の中で、一つの考えがぐるぐると回っている。これは、あのヨガウェアのせいだ。体が変わってしまったせいで、私の走りが壊された。短距離走の選手として致命的なダメージを負ってしまった。
体育の授業が終わると、林悦が真っ先に駆け寄ってきた。
「阿麗、やっぱりおかしいよ!何があったの?タイムが急に落ちるなんて、絶対に変だよ!」
「わかんない……自分でもわかんないの」阿麗は声を震わせながら言った。本当のことは言えない。でも、このまま嘘をつき通せる自信もなかった。
美由紀もゆっくりと近づいてきた。
「阿麗ちゃん、無理しちゃだめだよ。体調が本当に悪いんだったら、早退したほうがいいかも。私、保健室に一緒に行こうか?」
「いい、大丈夫。一人で大丈夫だから」
阿麗は二人の申し出を断り、更衣室へと足早に去った。着替えながら、彼女の手は震えていた。自分の脚を見下ろすと、確かに短くなっている。大腿部の長さが違う。自分にしかわからないが、それは明白な事実だった。
放課後、阿麗はまっすぐ家に帰った。母親はまだ仕事で帰っておらず、家の中は静まり返っている。彼女は自分の部屋に駆け込み、バッグの奥深くに隠していたヨガウェアを取り出した。薄い紫色の不思議な布地が、ベッドの上に広がる。昨日、このウェアのせいで、自分の体は変わってしまった。でも、今度こそ、正しい願い方をすれば、なんとかなるかもしれない。
阿麗は深く息を吸い込んでから、ゆっくりとヨガウェアに袖を通した。ブラとショーツの一体型のそれが、体にぴったりと吸い付くようにフィットする。胸の部分が、昨夜よりも自然に体に馴染んでいるのは、すでに胸のサイズが変わっているからだろう。鏡をちらりと見ると、小さくふくらんだバストと、それと同時に縮んだ身長がはっきりと確認できた。身長は少なくとも3センチは低くなっている。脚の長さの違いは目に見えてわかるほどだ。
「今度は間違えない……身長と脚の長さだけを元に戻して、胸はこのまま……胸は絶対にそのまま!」
彼女は昨夜の失敗を思い返しながら、今度ははっきりと言葉に出して念じた。指先でヨガウェアの布地をぎゅっと握りしめ、強い意志を込めて、自分の願いを心の中で繰り返した。
「身長と脚を元に戻して。でも、胸は今のままを保って。この二つを両立させて。お願い……」
すると、ウェアの表面が淡く発光し始めた。前回と同じく、柔らかな光が体を包み込む。阿麗の心臓が早鐘を打ち、期待と不安が入り混じる。今度こそ、うまくいくはずだ。そう信じたかった。
しかし、光は数秒で消え、代わりに目の前に半透明の小さなウィンドウが浮かび上がった。前回見たのと同じ、あの奇妙な表示パネルだ。だが、今回は赤い文字が点滅している。阿麗が息をのんで見つめると、そこにはこう書かれていた。
“警告: パラメータに互換性がありません。身長・下肢長の復元と胸部ボリュームの維持は、現時点の設定では同時に処理できません。全体的な調整が必要です。単独の修正は受け付けられません”
「なに、これ……どういう意味?」阿麗は震える声でつぶやいた。
彼女がもう一度強く念じても、ウェアは反応しなかった。代わりに、新たなメッセージがゆっくりと表示された。
“次の選択肢から選んでください:
① 胸部ボリュームを維持したまま、全身のプロポーションを再構成する(身長・四肢長の比率は現在のまま固定されます)
② 身長・下肢長を元の数値に復元する(胸部ボリュームも元の数値に戻ります)
③ 調整をキャンセルし、現状を維持する”
阿麗は目を見開き、その場に立ちすくんだ。指先が冷たくなり、全身から血の気が引いていくのがわかった。
「選べだって……?元の身長に戻したら、胸も元に戻る?じゃあ、胸を保ったままだったら、この身長のままでいろっていうの?」
彼女はよろめきながらベッドに座り込み、ヨガウェアの布地をぎゅっと握りしめた。全身が小刻みに震えていた。
「そんな……そんなのってない……」
目の前の選択肢が、彼女に突きつける現実はあまりにも残酷だった。自分の選手生命を支えてきた脚、そして長年渇望してきた胸。その両方を同時に手に入れることは、もうできないというのか。
息が苦しくなり、阿麗はウェアを脱ごうとしたが、手が震えてうまくいかない。結局、彼女はその場にうずくまり、声を殺して泣いた。
窓の外では、夕日が山々を赤く染め、街に長い影を落とし始めていた。あの店の店主、葉姨の微笑みが頭をよぎる。
“身体はね、正直なのよ。何かを得れば、何かを手放さなければならない。造形には、必ず代償が伴うの”
あの言葉の真の意味を、今、阿麗は身をもって思い知らされていた。選択を迫られたとき、人は初めて、代償の重さに気づくのだ。そして彼女は、その選択をまだ決断できない自分自身に、最も深い恐怖を感じていた。