逃亡と迷い込み
闇夜に、かすかな足音が響く。蘇晴は息を殺し、路地の影に身を潜めた。背後からは、確実に迫る複数の足音——仇家の殺し屋たちだ。彼らは執拗に彼女を追い、逃げ場を許さない。胸の鼓動が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝う。
「どこへ行った?あの娘を見失うな!」
低い声が路地の奥から聞こえる。蘇晴は唇を噛みしめ、震える手で壁を支えた。もう限界だった。走り続けて数時間、足は鉛のように重く、肺は焼けるように熱い。
ふと目に入ったのは、路地の端に停めてある一台の大型トラックだ。幌の隙間から中が覗く——荷台には簡素な檻が幾つも積み重ねられ、それは明らかに、奴隷を運搬するための車両だった。蘇晴は一瞬ためらったが、恐怖が決断を急がせた。
「ここしかない」
彼女は音を立てぬよう、幌の端をくぐり抜け、荷台の最奥へ潜り込む。腐った藁の匂いと、鉄錆の臭いが鼻腔を突く。心臓の音が耳の中で鳴り響く中、彼女は身を丸め、呼吸を整えた。
直後、トラックのエンジンが唸りをあげる。振動が荷台全体を揺らし、蘇晴はバランスを崩して檻の隙間に倒れ込んだ。頭を打ちつけ、視界が白く霞む。意識が遠のく中、彼女はかすかに、誰かの足音が近づいてくるのを聞いた気がした。
「……ここにいたのか?」
その言葉を最後に、彼女の意識は闇に飲み込まれた。
どれほどの時間が経ったのか。蘇晴が目を覚ますと、自分の体が固い板の上に横たわっているのに気づいた。見上げると、低い天井——いや、金属製の檻の上蓋だった。周囲からは、同じように囚われた人々の呻き声や、啜り泣きが聞こえてくる。
「起きたか、新入りだ」
冷たい声が頭上から降ってくる。蘇晴が顔を上げると、がっしりとした体格の女が、鞭を手に立っていた。女の瞳は刃のように鋭く、感情の色をほとんど宿していない。
「ここは……どこ?」
蘇晴は掠れた声で尋ねる。喉はからからに乾き、声帯が擦れるようだった。
「奴隷島だ。お前は今日から、この島の所有物だ。俺の名前は阿麗。教官だ。覚えておけ」
その言葉に、蘇晴の全身が凍りついた。奴隷島——それは噂に聞いた、法の外に存在する地獄の島だ。ここに連れてこられた者は、二度と外の世界に戻れないという。
「私は……違う。私は蘇家の娘だ。誤解だ、すぐに解放してくれ」
蘇晴が必死に訴えるが、阿麗は鼻で笑うだけだった。
「蘇家?そんな名前、聞いたこともない。ここではお前の過去は何の意味も持たない。ただの奴隷だ。おとなしくするなら、痛い目を見ずに済む。逆らうなら——」
阿麗は鞭を軽く振る。空気を裂く鋭い音が、檻の中に響き渡った。
蘇晴は唇を噛みしめ、俯いた。心の中で、必ず脱出する方法を見つけると誓う。強く生き抜くために、今は耐えるしかない。
だがその時、檻の外から一人の老いた男が近づいてくるのが見えた。彼は執事服を着て、哀れみと決意の入り混じった複雑な表情で蘇晴を見つめている。
「若様……いや、蘇晴様。お目にかかれて、老陳、感無量でございます」
その声は震えていた。蘇晴は驚いて顔を上げる。彼女はこの老陳という男を知っていた——父の信頼厚い執事だ。彼がなぜここに?
「老陳!助けてくれ!私は間違ってここに連れてこられたんだ」
蘇晴が叫ぶが、老陳は首を振った。
「申し訳ございません。私もこの島のシステムに囚われております。蘇家の力は、島の外では届きません。しかし、私ができる限りお守りいたします」
その言葉に、蘇晴は絶望の淵に立たされたような気持ちになった。しかし、老陳の目には強い意志が宿っている。彼は何かを知っている——この島の仕組みを、そしておそらく、生き残る方法を。
阿麗が苛立ったように鞭を鳴らす。
「おしゃべりは終わりだ。新入りは訓練場へ連れて行け」
蘇晴は強引に檻から引きずり出され、他の奴隷たちと共に、無機質な廊下を歩かされる。足元の鉄の冷たさが、彼女の足の裏に刻まれるようだった。
「必ず戻る——必ず、ここから出る」
蘇晴は心の中で何度も繰り返した。その決意だけが、彼女の中で唯一の灯だった。